| 日時 | 平成27年 7月 9日(木曜日) |
| 行先 | 小楠公墓所、和田賢秀墓、四條畷神社(以上、四條畷市)、 渡辺橋義戦の跡碑(大阪市) |
50センチの大石で、明治8年、大東市の竜間から切り出し、運搬、建碑に2年と3カ月をかけ、明治11年に建てられたものです。今もまっすぐ立っているのは、基礎がしっかりしているからで、5メートル四方を4メートル50センチ掘り下げ、地底に松の生グイ250本を打ち込み、その上に松の生板を敷き詰め、更にその上を大石650個と砂礫500駄、石灰200俵を混ぜ固めています。
るための墓地を離れた場所に設ける風を「両墓制」と呼び、四條畷、とりわけ田原の地にこの両墓制の形態が残っています。第一次墓地を『オバカ』、第二次墓地を『マイリバカ』等と呼びますが、小松寺の墓石は供養塚、マイリバカと思われます。
かに、準備を進めていたもので、突然のサプライズ、放吟に一同大喜びでした。
楠正行は、正平2年(1347)11月16日、住吉・天王寺の戦いで、山名時氏、細川顕氏と戦いますが、大手の山名軍が総崩れとなって退却し、その退却する山名勢が細川軍を巻き込む形で、多くの敵が我先と後退して、渡辺橋に殺到します。
と、寒天に凍え奮える多くの兵に衣食を与え、薬を窮して、京へ帰させたのです。