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四條畷市立教育文化センター
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四條畷歴史人物伝 


第5回バスツアー
「四條畷の合戦を前に楠正行が辞世の歌を鏃で刻んだ板堀残る如意輪寺、
吉野で挙兵した護良親王、村上義光(よしてる)・義隆父子に助けられる」

後村上天皇から「汝が頼り」の言葉を賜り、正行、吉野を出陣
辞世の歌に込めた正行の胸中や如何に
= 正行の好物は、「お酒」に決定! =

日時 平成28年10月19日(水曜日) 第5回バスツアー
行先 吉野山如意輪寺、大塔の宮本陣跡・村上義光の墓


◆車中、千早城にまつわる歴史的背景を学ぶ
●南朝史蹟でいっぱいの地、吉野山
 楠正行ゆかりの地を訪ねるバスツアー第二弾の5回シリーズも、いよいよ最終回を迎えた。
 今回の企画は、正行ゆかりの地にこだわらず、正成ゆかりの地、湊川神社、笠置寺、金剛寺等も訪ねてきたが、なんといっても如意輪寺は正行とは切っても切れない縁のある寺。
 車中、扇谷から、吉野山の見どころや位置関係、そして如意輪寺の沿革等の説明を行った。
 吉野山には、南朝ゆかりの施設が目白押し。ざっとあげても、吉野神宮、村上義光の墓、金峯山寺蔵王堂、吉野朝宮跡、大塔の宮本陣跡(四本桜)、村上義隆の墓、吉水神社、如意輪寺、後醍醐天皇陵等、とても一日で回りきれない南朝史跡でいっぱいの地、それが吉野山である。
 また、南朝ゆかりではないけれど修験道の地で、大峰修験道の総門の黒門、日本三鳥居の一つで発心門ともいわれる銅の鳥居、西行法師が住んでいたと伝わる奥の千本・西行庵などもある。
 春の桜の名所として有名なことは勿論のこと、秋の紅葉も含め、四季折々の美しさがある。
 また、金峯山寺の仁王門、蔵王堂、そして吉水神社は世界遺産に登録された。仁王門は、金峯山寺の入り口にあたる楼門で、石段を上がったところに堂々と立つ仁王門は壮観。また蔵王堂は、修験道の根本道場で、今の建物は約400年前に再建されたもので、木造の古い建築としては東大寺の大仏殿に次ぐ二番目の古さを誇る。吉水神社は、元は吉水院と云い、南北朝時代に後醍醐天皇が仮の皇居としたことで大変有名で、源義経が隠れ住んだことや豊臣秀吉が盛大な花見を催したことでも知られている。
 桜の時期、上千本のエリアにある花櫓展望台から見渡す、目の前に広がる桜のパノラマは大迫力で、花見の絶景ポイントとなっている。また、奥の千本の西行庵近辺は、とても静かで心が落ち着くスポットとなっており、春の桜は勿論のこと、秋の紅葉のスポットとしてもよく知られている。

◆車中の説明続き 南朝勅願寺の如意輪寺
 南朝勅願寺の如意輪寺には、正行公ゆかりの品々に加え、南朝ゆかりの史跡がいっぱい詰まっている。
 如意輪寺には、現在、本堂の如意輪堂、多宝塔、御霊殿、幽香楼、報国殿、宝蔵、鐘楼、茶所、庫裡等の建造物があり、延喜年間(平安時代)に草創された寺で、後醍醐天皇が吉野に遷幸し行宮を置くと同時に勅願所となった。
 正平2年(1347)の楠正行以下143人の楠一族郎党の参詣があったが、その後衰退をしていたところ、1650年頃、鉄牛上人によって本堂が再興され、浄土宗のお寺として今日に至っている。本堂に祀られる本尊は、如意輪観世音菩薩である。
 しかし、何といっても、この寺は、正行公が四條畷の戦いに臨み、後醍醐天皇陵に詣り、後村上天皇と今生の別れをした場所として知られる。そして、戦いに臨む覚悟のほどを辞世の歌に託し、鏃を持って如意輪堂の板塀に残した歌はつとに有名。

 かゑらじと かねて思えハ 梓弓 なき数に入る 名こそとどむる

 決戦に臨む覚悟を語り、死して名を刻むことで、父正成の遺訓を守り、残る弟正儀に後事を託したものと思える。

小楠公髻塚の碑
 正行と付き従う武士143名は、出陣に先立ち、如意輪堂に奉納した髻は、その後、後醍醐天皇陵の西方に埋められ、石の五輪塔が建てられ霊を祀られたという。明治末期、この五輪塔が廃され、場所を移して碑が建てられ、正行公埋髻墳とされ、この髻塚に対して、慶応元年(1865)、津田正臣〈初代和歌山県知事・楠木正成18世の子孫〉によって小楠公髻塚の碑が建てられた。
 この撰文は、大和の豪士、森田雪節斎(頼山陽に学び、吉田松陰は門下生の一人)の手による。
 森田節斎は、撰文を頼まれた後、桜井の談山神社とここ如意輪寺を訪れる。藤原鎌足を祀る談山神社は、敷地も広く、建物も立派で、知らないうちに畏敬の念が起きてきた。しかし、その後訪れた如意輪寺では、正行公の髻を埋めた場所は荒れ果て、草に埋もれていた。傍を通る人でさえも、そこが正行公の遺跡とは知らない様子。
 森田節斎は、この地をいつまでも立ち去ることができず、涙がぽたぽたとコボレ落ちたとある。
 正行公も鎌足公も、同じように朝廷に尽くした忠臣である。鎌足公は一撃で悪人を倒して朝廷の危機を救ったから、最高の官位に上り、子孫も繁栄した。そればかりか、今も神社に祀られている。一方、正行公は国賊に敗れて戦死し、南朝はその後振るわず、正行公の子孫も死に絶えてしまった。そして、その正行公の最期の遺跡さえも、埋もれてしまっている。同じ忠臣なのに、この差は何としたことか。
 涙がこぼれ落ち、悲嘆にくれた森田節斎は、その涙をぬぐい、思い直すのである。
 運不運の差はあってもこの二人の功績は同じではないか。鎌足公の大化の改新は、天皇家の危機を救った偉業であった。正成・正行親子はともに敗れたとはいえ、節操を貫き通し、道徳を不朽に伝えた。この徳は日月にも比すべきものである。だから鎌足公が勝っているとは言い切れない。運不運はあっても、二人の功績は同じである。
 この思い、そのままに撰文を記したといわれる。
 私も認識不足で、このバスツアーの資料作成中に分かったことであるが、四條畷市内にある忍陵神社(しのぶがおかじんじゃ)の祭神が、藤原鎌足であるという。何と奇遇なことではないか。
 森田節斎が、このことを今聞けば、どう思うであろうか。

京都還幸を祈り続けた後醍醐天皇
 建武の新政が崩れ、足利尊氏が京の都に入洛すると、花山院に幽閉されていた後醍醐天皇は延元元年(133612月、吉水院の宗信法印に迎えられ、正行らを従え吉野山の吉水院に入る。
 後醍醐天皇は、その後行在所を蔵王堂近くに移し、その皇居に居住することとなったが、京都に還幸することを願い、平穏な日々が再び訪れることを念じるばかりであった。

 花に寝て よしやよしのの 吉水の まくらのもとに 石はしる音


 この歌には、吉野の生活の中で、京の都を思うその心境を、吉水院の下を流れる小川・瀬古川のせせらぎの音までもが一層わびしさを掻き立てる様子を詠ったものである。
 かくて三年の月日がたち、延元4年(1339)、8月、後醍醐天皇は最期を迎える。
 十六夜の月の出る晩、右の手に剣を持ち、左の手に経巻を持ち、座ったまま、足利尊氏のいる京の都の方角、北の空をにらみつけたお姿のまま崩御されたのである。
 御年52歳。次の歌を残している。

 身はたとへ 南山の苔に 埋まるとも 魂魄は常に 北闕の天を望まん

 後醍醐天皇が如何に京の都に戻りたかったかが窺い知れる歌である。
 後醍醐天皇の遺骸は、その御意志通り、如意輪寺の裏山、塔の尾に埋葬され、京都に対する願いを表すため、天皇家の墓陵としては唯一北向きに、京の方角を向いており、「北面の御陵」として人に知られる。

◆車中の説明続き 大塔の宮本陣跡
 護良親王は、後醍醐天皇の笠置挙兵に合わせて吉野で兵を挙げる。そしてまた、楠木正成も同じく赤阪で挙兵をする。
 しかし、幕府方は大軍を投入して吉野の護良親王を攻め立てるのである。
 この時、間一髪、自刃覚悟の護良親王を救ったのが村上義光(よしてる)である。
 太平記巻七、吉野の城軍の事にこの件が載る。
 敵が一旦退くと護良親王は大庭に幕を引かせて、これが最期とばかり、最後の酒宴を張られた。そこへ村上彦四郎義光が、体中に矢を受けたままの姿で馳せつけて申し上げるのである。
 「畏れ多いことですが、御召しになっておられる錦の鎧、直垂(ひたたれ)と甲冑を私に下さい。私が、護良親王の御名を冒したてまつって敵を欺き、身代わりになりとうございます」と。
 護良親王は、村上義光の申し状に涙をお流しになり、勝手の明神の前を通って、南に向けてお逃げになられたのである。
 無事逃げられたお姿を確認した村上義光は、「吾は護良親王である。賊の為に滅ぼされ、恨みを黄泉(よみ:死者の世界)で返さんがために、今、ここに自害する」と言い放って、鎧を脱いで櫓より投げ落とし、錦の直垂だけとなって、ねりまきの二重小袖を脱ぎ、肌に刀を突きたてて左から右へ腹一文字に掻き切って、腸をつかみ出し、櫓の板に投げつけて、太刀を加えたまま、うつ伏せとなって死んでいった。
 この壮絶な最期の姿を見て、敵どもが騒いでいる間に、護良親王は逃げおおせたのである。
 この時、村上彦四郎義光の子、義隆は護良親王のお供をしていたが、逃げ行く道に危険が迫ってきたので、一人踏みとどまり、追ってくる敵を斬りたて、薙ぎ伏せ、五百騎程を相手に半時ほどの間防ぎとめて後、腹掻き切って死んだ。
 村上父子の忠臣あって、護良親王は虎口を脱し、高野山へ落ちていったのである。

◆一行、如意輪寺に到着
●住職の講話
 予定より20分ほど早く如意輪寺に到着。(写真:駐車場から入る門前)
 余裕を持って、駐車場から如意輪寺に移動した一行は、加島公信ご住職の出迎えを受けて、全員、本堂に入らせていただき、ご住職の講話を聴かせていただいた。
 ご住職は、如意輪寺の沿革、中でも如意輪寺中興の租となった鉄牛上人が長宗我部家の一人で、この長宗我部家が楠正儀の末裔と考えられることから、四国から吉野に入ったとのお話には大変熱を込めてお話し下さった。
 そして、如意輪寺と後醍醐天皇との関わり、四條畷の合戦に臨む前に楠正行が如意輪寺を訪れた時のお話、また、如意輪寺に残る多くの句碑や歌碑についてもお話し下さった。(写真:如意輪堂本堂で加島住職の講話を聞く一行)
 最後に、宝物殿に展示されている主なものについてご説明いただいた。
 そして、如意輪寺に残る紋が、九州の八女市に残る懐良親王(後醍醐天皇の皇子で、征西将軍宮として九州に赴き、菊池一族らと九州南朝を樹立した。)の陣羽織の紋と一致することを、最近知られたこともご披露いただいた。
 これは、吉野町と八女市が、南朝ゆかりの自治体という事から友好都市になったことから、交流が始まり、ご住職も何度か九州に行かれ、分かったとのこと。

●宝物の見学

 宝物殿の正面には、四條畷の合戦に臨み、正行公が鏃で辞世の歌を刻んだと伝わる如意輪堂の板塀が展示されている。
 宝物殿に入った一行は、全員が、この板塀「正行公辞世之扉」を食い入るように見つめていた。
 また、板塀の下には、如意輪寺を訪れたことが分かっている楠一族の名前が記されている。
 「扇谷さん。正行は、かなり背が低かったのですね。」と、一人の方がメジャー持参で、板塀の辞世の歌が刻まれた位置を測り、おおよその身長を割り出しておられた。確かに、正行が使ったと伝わる兜や胴巻きなどが残っているが、それらは子どもが付けていたのではないかと思われるほど小さい物である。正行公が大男ではなかったことは確かなようである。

●史跡等の散策
 境内には史跡等が目白押しで、建物としては、如意輪観世音菩薩を祀る本堂、難切り不動尊を祀る不動堂、後醍醐天皇の自作の木像が安置されている後醍醐天皇御霊殿、阿弥陀如来が祀られている多宝塔、南朝ゆかりの寺宝満載の宝物殿、鐘楼、そして句碑・塚としては、芭蕉の句碑、尾山篤次郎歌碑、正行公の髻塚、弁の内侍の至情塚、小楠公髻塚の碑、楠公父子の石造等がある。
 散策する一行は、境内のあちこちで、ご住職や副住職、奥様をつかまえては、いろいろと聞き入っていた。

●後醍醐天皇陵の参詣
 後醍醐天皇陵(別名、塔尾陵、北面の陵)は、如意輪寺の境内、石段を約60段ほど上がった裏山にある。
 第1回バスツアーでも参加者の一人、真木さんに放吟をしていただいたが、今回のツアーでも後醍醐天皇陵の前で放吟をしていただいた。(写真:後醍醐天皇陵の前で芳野懐古を放吟する真木さん)
 吟題は、藤井竹外作、芳野懐古です。
 古陵松柏吼天飈 古陵の松柏 天飈に吼ふ
 山寺尋春春寂寥 山寺 春を尋ぬれば 春寂寥
 眉雪老僧時輟帚 眉雪の老僧 時に帚を輟め
 落花深処説南朝 落花深き処 南朝を説く

 この七言絶句の意は、「吉野山の如意輪寺を訪ね、春の景色を探し求めるが、春という季節は実にさみしいものである。そんな中、雪のごとく真白くなった眉の老僧に声をかけると、庭を掃除する箒の手を止めて、雪が舞い散る中で、とつとつと南朝の話を語りだした。」というような内容である。
 真木さんの放吟を聞きながら、南朝の悲哀をしみじみと感じながら、どことなくこの芳野懐古に謳われた老僧と加島ご住職を重ねていた。
 聞き入った人たちも、同じ思いを持ったのではないか。真木さん、ありがとうございました。

↑如意輪寺如意輪堂の前で記念撮影・前列中央が加島住職、向かって左隣が副住職
 
◆大塔の宮本陣跡
 ご住職、副住職、奥様の三人のお見送りを受け、バスで、大塔の宮本陣跡へ移動。
 車中で、大塔の宮、護良親王のお話をしておいたので、ここでは、元弘の変の折、護良親王が吉野で挙兵をしたとき構えた城がこの地にあったという事を、実感してくださいと申し上げた。
 目の前に金峯山寺蔵王堂が建ち、昔は、吉野山一帯に100を超える塔頭があったという。護良親王が吉野の修験者ネットワークと修験僧の経済力・兵力に頼ったことが実感いただけたのではないか。(写真:大塔の宮本陣跡・四本桜の前で説明する扇谷)

◆村上義光の墓
 この日、一つのアクシデントがあった。
 それは、吉野山を走る幹線道が道路工事のため一部通行止めとなっていたのである。
 そこで、蔵王堂にバスを待たせて、銅の鳥居、総門と徒歩で見学に行ったのだが、村上義光の墓に向かうという人と、ここから引き返そうという人で意見が分かれ、判断を迫られたのである。(写真:総門の前で議論百出中)
 せっかくだから行きたいが、村上義光の墓から蔵王堂まで折り返すとなると相当の距離、そして上りがある。いろいろと悩んだが、結果、マイクロバスを反対方向から吉野山駐車場に回送させることとし、村上義光の墓に行くこととした。
 「扇谷さん。村上義光の墓はまだですか。」
 向かうだけでも相当の負担だったようで、もし、折り返していたらと思うと恐ろしくなった。
 しかし、村上義光の墓に参った一行は、ほぼ全員が口をそろえて、“こんなところに墓がある事は知らなかった。連れて来ていただいてよかった。”と、喜んでいただいたようである。(写真:村上義光の墓の前で太平記の件を話す扇谷)

◆柿の葉寿司平宗・道の駅
 無事マイクロバスに乗車した一行を乗せて、柿の葉寿司平宗吉野本店に向かう。
 今回は、時間の関係で、柿の葉寿司手作り体験をキャンセルし、平宗さんにはご迷惑をお掛けしたが、事前にオーダーをしておいたので、手際よく商品を受けることができ、10分ほどで、最後の休憩場所、大淀の道の駅に向かうことに。
 平宗では、応対して下さった方から、「扇谷さん。奈良新聞(10月5日付朝刊・10月10日付朝刊)を拝見しました。それも、2回も。楠正行の出版おめでとうございます。津風呂湖のご出身なのですね。頑張ってください。」と声をかけていただいた。

◆帰路の車中、正行の好物談義
 道の駅では、大半の人が「柿」を買い求めたようである。中には、両腕に、いくつもの袋をぶら下げてバスに乗り込む人もいた。少しは地域に貢献をしたようである。
 道の駅を出た後、帰路は時間の関係上、高速道路を走る事に。
 バス車中では、最終回でもあり、正行の好物探しの旅ということでの談義で話に花が咲いた。

日本酒
 まず、日本酒だが、果たして正行はお酒を飲んだのであろうか。
 今回訪れた天野酒の西條合資会社のパンフレットには、正成も愛飲したあまの酒との記事が載っている。今まで、記録として残る天野酒の初見は、「看聞日記」文亨4年(1432)だが、それ以前にも天野酒は飲まれていたことは分かっていた。
 しかし、先ごろ、1234年の文献に”天野酒”の記録が発見されたことから、正成、正行の時代にあまの酒が飲まれていたことは確実となったようである。

せんべい
 神戸湊川の菊水総本店は明治元年の創業であった。
 果たして正行はせんべいを食べることはできたのであろうか。
 今のせんべいの原点は草加せんべいと云われていおり、江戸時代、日光街道の草加の宿で、おせんさんという人が残った団子を平らにして伸ばして焼いたのが始まりといわれている。
 残念ながら、正行の時代にせんべいはなかったようである。

お茶
 お茶は奈良・平安期に大陸から僧文化として伝わったようであるが、明恵上人(11731232)が京都の高山寺に日本最古の茶園を開いたといわれている。だからここからとれるお茶を“本茶”と称したようだ。
 そして、鎌倉時代から南北朝時代にかけて、京都から伊勢、伊賀、駿河、武蔵各地へと広がったようで、南北朝期の頃には、茶を飲み比べ、その産地を当てる“闘茶”が行われたようである。
 正行もお茶を飲もうと思えば飲めたようである。

柿の葉寿司
 柿の葉寿司は、江戸時代、紀の川上流で生まれたようである。
 海の産物の魚を川運を使って内陸に運ぶ知恵として、言い換えれば魚を長持ちさせる方法として「浜塩」(魚の内臓に塩を埋め込む)という手法が編み出され、そこに柿の産地であったことから、「塩で占めたサバに、酢飯を合わせて、柿の葉で包む」柿の葉寿司という保存食が生まれたとある。
 残念ながら、正行はこの柿の葉寿司を見ていないようである。
 では、今回訪れた地の産物、お酒・せんべい・お茶・柿の葉寿司のうち、正行が食することが可能であったと思われる「お酒」と「お茶」のどちらを好んだのであろうか。
 喧々諤々の議論の結果、バスツアーの結論として、正行の好物は「お酒」決定


 ◆教文コレクション第4集として発行の予定
 「楠正行ゆかりの地を訪ねるバスツアー第二弾」は、今回を以って最終となりました。
 このバスツアーでお話しいただいた皆様の講話につきましては、教文コレクション第4集として発行の予定です。乞う、ご期待ください。
 なお、今回のバスツアーにつきましても、修了式を行います。
 修了式は、112日(水)、午後1時30分から、教育文化センター2階ホールで開催します。
 5回ともマイクロバスを運転していただいた井上さん(四條畷市職員)お疲れ様でした。そして、ご参加いただいた市民の皆様、お疲れ様でした。バスツアーの運営に何かとご協力いただき、ありがとうございました。
                                 (おわり)



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