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四條畷市立教育文化センター
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〒575-0021 大阪府四條畷市南野5丁目2-16

 



(全5回)
回 朝護孫子寺(信貴山)と光雲寺(高取町・越智氏菩提寺)
7月13日(木)
朝護孫子寺、南朝ゆかりの史跡に感激
楠氏と越智氏、ご縁に感謝の光雲寺


 
 今回の正行ゆかりの世界は、大和の国、奈良県を訪れます。
 正成は、母が信貴山詣でをして授かったとされています。だから、幼名は多門丸といいます。
 そして、その信貴山朝護孫子寺には正成が使ったとされる旌旗、兜に加えて、南朝年号の刻まれた石室仏が残ります。今回、朝護孫子寺を訪れる目玉です。
 また、南北朝期に活躍した大和武士が意外と知られていません。春日社と興福寺の存在が、大和武士に身分的制約を加える中で、一条院方と大乗院方、そして南朝と北朝にわかれて、覇権を競った大和武士。その代表格が、北朝方、北大和の筒井氏、そして南朝方、南大和の越智氏です。
 光雲寺は南大和の雄、南朝を支持した越智氏一族の菩提寺です。今回は、楠公ブームの影響か越智氏奉賛会準備会が立ち上がったとかで、興雲寺ご住職のご配慮で、越智氏奉賛会準備会の会長さん、そして越智氏研究をしておられる地元の方のお話を戴くことになっています。
 定刻前に出発した一行は、信貴生駒スカイラインを走り、車内では扇谷から本日目当ての正成の旌旗と兜、そして南朝年号の刻まれた石室仏について詳しい説明をしました。
 また、この旌旗には菊水の紋章が描かれていますが、正成でよく知られている非理法権天の文字は書かれていません。車中で、扇谷は、この非理法権天の解釈について説明するとともに、正成は実際には非理法権天の文字の入った旗印は使っておらず、後世、江戸期の楠流軍学者の造語ではないか、との定説を紹介しました。(詳しくは後に記載)
       元弘元年と記された菊水の旌旗が残る
●信貴山 朝護孫子寺
(信貴山朝護孫子寺公式ホームページより抜粋)
 今から1400余年前、聖徳太子は、物部守屋を討伐せんと河内稲村城へ向かう途中、この山に至り戦勝の祈願をするや、天空遥かに毘沙門天王が出現され、必勝の秘法を授かりました。その日は奇しくも寅年、寅日、寅の刻でした。
 太子はその御加護で勝利し、自ら天王の御尊像を刻み伽藍を創建、信ずべし貴ぶべき山『信貴山』と名付け、以来、信貴山の毘沙門天王は寅に縁のある神として信仰されています。
 醍醐天皇の御病気のため、勅命により命蓮上人が毘沙門天王に病気平癒の祈願をしました。加持感応空なしからず天皇の御病気は、たちまちにして癒えました。よって天皇、朝廟安穏・守護国土・子孫長久の祈願所として「朝護孫子寺」の勅号を賜りました。
 また、朝護孫子寺は「信貴山寺」とも呼ばれています。
・本堂
 本堂に上がると、一同、「まあー、素晴らしいながめ」と、異口同音に発していました。
 また、多くの参加者が、「戒壇巡り」を体験、真っ暗闇の中を進むので、冷や汗で寒さを実感できると思っていたところ、逆に、真っ暗闇とはいえ密室の中に入るもので、反って暑さを感じたとの意見が多くありました。
 この本堂では、毎日、大般若祈祷が行われます。
 文禄年中の1592年、豊臣秀吉により再建と伝わりますが、慶長7年(1602)、豊臣秀頼の再建とする説もあり、定かではありません。
 いずれにしても、後に修復を加えて、延享3年(1746)に完成しています。

 本堂は舞台造りで、ここからは大和平野が一望でき、素晴らしい眺めとなっています。
・霊宝館
 参加者一同、お目当ての菊水の旌旗と兜は勿論のこと、国宝の絵巻(複製)にも釘付けになっていました。
 霊宝館には、国宝『信貴山縁起絵巻』、平群町指定文化財『菊水の旌旗』『兜・袖・喉輪』他、信貴山の宝物を展示しています。
<菊水の旌旗>
 昭和53315日 平群町指定文化財 鎌倉時代末期
 楠木正成の旌旗と伝わる。白絹地(紬織:縦115.5㌢ 横33.4㌢)で、上部に菊水の紋章を、下部に「元弘元年」(1331)の年号と、楠木正成の花押が墨書きされている。
 元弘元年(1331910日の墨書銘があり、元弘の乱の際に後醍醐天皇の側に着く決意を示して信貴山に奉納した正成直筆の旌旗と考えられている。
 南北朝時代、信貴山は南朝方の拠点として位置付けられ、菊水模様の甲冑が伝えられる。正成の挙兵前後には後醍醐天皇の皇子である護良親王がここ信貴山を拠点にするなど、この甲冑は、その歴史を裏付ける貴重な遺品である。
 境内には南朝年号の石仏も祀られており、南北朝が統一されてからも、南朝系統の遺品を大切に伝えていたことが確認できる。(平群町ホームページより)

<兜・袖・喉輪>
 明治34327日 平群町指定文化財 工芸
 鎌倉時代 楠木正成所用とされる菊水の兜。
 兜一頭、袖一雙(そう)、喉輪一懸(けん)で、兜は鍬形を欠くが、黒糸縅(おどし)肩白糸、26間星鉢(ほしばち)である。鍬形が欠落するものの鍬形台や吹き返しに菊水の模様を透かし彫りにした精巧な金具がつく優品である。一揃いの甲冑の一部が伝えられ、楠公旌旗とともに正成が奉納したのであろう。
 信貴山と正成の濃密な関係を伝える遺品であるが、南朝系寺院としての信貴山の存在を示す貴重な資料である。(平群町ホームページより)
・信貴山城跡

 平群町指定文化財 史跡
 平成5412日 室町~安土桃山時代
 生駒山地の南東、信貴山尾嶽(海抜433メートル)を中心とした城跡で、東西550メートル、南北700メートルあり、奈良県で最大規模の中世城郭である。
 建築物は残されていないが、信貴山朝護孫子寺の境内地として破壊を逃れ、堀・土塁・門・多数の削平地(曲輪・廓/一部に礎石群(埋没)があり)ほぼ完存しており、縄張りの全容が確認できる。
 南都北方に築城された多聞城の記録からみて、最高所の雄嶽山頂には小規模な天守(高櫓)が建てられていたと考えられている。また、近世に描かれた古城図に「松永屋敷」の記載があり、北側に延びる主尾根には土塁を配した門の取り付く広い郭が並び、松永久秀の居館施設が建てられていたと推測されている。石垣は1箇所のみで土留めに用いられるのみであり、基本的に土で造られた城郭である。(平群町ホームページより)

         信貴山頂の空鉢護法堂へは希望者のみ

 霊宝館を出た一行は、ここで2班に分かれての散策を楽しみました。
 1班は、扇谷が案内し、約20分かけて上り、標高437メートルの信貴山頂の空鉢護法堂に向かい、2班は、石神が案内して朝護孫子寺境内を散策しました。
・空鉢護法堂
 命蓮上人が竜王の教えを蒙り、信貴山縁起絵巻(飛倉の巻)の如く、空鉢を飛ばして倉を飛び返らせ、驚き嘆く長者に慈悲の心を諭して福徳を授けたという出来事に由来する。
 山頂に竜王の祠を建てて以来、多くの参詣者から、「一願成就」の霊験あらたかな守護神として信仰されている。
 山道は険しいものの、途中に信貴城址と行者の篭堂、星祭り本尊があり、また、空鉢護法堂(空鉢堂)からの眺めはたいへん素晴らしい。
・成福院の石室十三仏
 成福院は信貴山真言宗の大本山であり、信貴山内の中心に位置し、歴史伝統ある信貴山において近代的センスを兼ね備えた宿坊寺院である。
 成福院の門には菊水の紋章が掲げられている。
<石室十三仏>
 平群町指定文化財 石室十三仏
 平成4325日 室町時代
 成福院の寺墓に安置されていた石室(石龕(せきがん))形態の十三仏で、防犯的な理由から成福院境内に移されている。板石の上に三枚の板石を立てて組み合わせ、上に唐破風のある屋根を乗せて石室としている。 奥壁の中央に蓮華座上に月輪を刻みその中に「ア字」を薬研堀に陰刻し、十三仏と僧形一体を陽刻する特異な形態の十三仏で、総高98cm、龕(がん)部の高さ92.5cm、幅74.5cm、奥行きが54cmある。
 文明十一年己亥七月十二日(1479)」の銘があり、県下最古の在銘十三仏としても貴重な存在である。(平群町ホームページより)
・命蓮(みょうれん)塚

 延喜の頃に信貴山を中興した高僧、命蓮上人の墓と伝えられる塚。塚上には、十三仏が祀られ、周囲にも室町末頃の一石一尊十三仏板碑が多数樹立されている。
<命蓮墓>
 平群町指定文化財 史
 平成4325日 室町時代
 この塚は信貴山を中興した命蓮上人の墓所と伝えられ、塚上には命蓮上人塚の石碑も立てられている。開山堂の後方、境内の閑静地に所在し、直径5m、高さ1.4mの円墳状をしており、表面には砂利が敷き詰められているようである。
 塚の裾には室町期の一石一尊十三仏(山型板碑)を廻らせており、塚上には石室十三仏が設置されている。塚の周囲には新しい石柵により六角形に囲まれている。
 塚上の石室十三仏には銘文はないが、作風から江戸中期の作と考えられており、成福院墓地(現在は成福院境内に移設)にあった県下最古銘の石室十三仏(町指定)を模したものと考えられている。(平群町ホームページより)

   南朝年号が刻まれた石室仏が、案内板もなく、人知れず立つ

・石室仏(通称、奥壁物)
 南朝年号の刻まれたお目当ての石室仏でしたが、写真とは異なり、まったく人目につかないびっくりするようなところに案内版も何も立たず、人知れずおかれていました。また、どことなく傾いており、660年にわたる風雪に耐えてきたことをうかがわせました。(写真:全員交代で石室仏の前までのぼり、じっくりと鑑賞)
 この石室仏には、正平八年という南朝年号が刻されており、信貴山系には護良親王も逗留されたことがあり、南朝に与した歴史を物語る貴重な石仏である。
 朝護孫子寺開山堂のぼり口に建つこの石仏は、高さ66センチ、幅61センチで、仏身は16センチある。
 写真(→)は、奈良県立美術館で公開された石室仏の拓本を扇谷が撮影したもので、かすかに正平八年が読み取れる。(写真↓:昼食前に、大寅の前で記念撮影)



後世、楠流軍学者による造語か

●非理法権天
 瀧川政次郎著「非理法権天」((せい)蛙房(あぼう)刊))によると、「非理法権天」とは、非は理に勝たず、理は法に勝たず、法は権に勝たず、権は天に勝たず、という4つのフレーズを圧縮したものであるという。以下、同書から紹介する。
一 非は理に勝たず
 「理」は非の反対概念であって、道理に合ったこと、万人の是とすることを云う。
 鎌倉幕府の御成敗式目を貫いている精神は「道理」である。故に鎌倉幕府以来、武家の裁判は、「理非」を決断するをもって宗とした。裁判は理非を決断するものであるという観念に従えば、理の有るものが勝訴するに決まっている。故に、中世においては、勝訴の判決を与えるときは、「其方理運たるべし」と云った。

 道理すなわち「理」は、当代の人々が良識に随って判断するところの正義である。故に「理」は自然法学のいう法であり、太政官の布達にいう「条里」でもある。
 法制の整備されていなかった中世において、「理」が法源の主要なる要素として重んじられ、裁判が適法不適法を判断する行為と考えられず、理非を決断する行為と観念されていたことは、当然といえよう。
二 理は法に勝たず

「非理法権天」の「法」は、仏法の法でもなければ、自然法の法でもない。貞永式目、御定書百科条等の幕府の法令その他の成文法を云うのである
 理よりも法を重しとしなければならないという思想は、唐律令の輸入によって日本にも流入し、奈良・平安と日本人の頭を支配し、鎌倉・室町の時代まで生き残り、その後も長く国民の思想を支配したのであって、頼朝に私淑して吾妻鏡を侍臣に講ぜしめた家康は、慶長2年、諸大名に頒った武家法度の中でこのことを記している。喧嘩両成敗や、徳政令、棄捐令などは、非理の甚だしいものであるが、室町末期から戦国時にかけては、それが法として強行せられた。
三 法は権に勝たず
 法は権に勝たずという「権」は、帝王の「権」である。
 ヨーロッパにも「王に法なし」という法律格言があるが、東洋においては、法は臣下の守るべきものであって、君主の行動を束縛するものではないと考えられている。儒家の思想に従えば、法は人民を教化して行く上に必要な要具であるにすぎない。
 即ち、律令の法治主義は、法を以て臣民を治める主義であって、近代の法治主義のように、法を以て治者被治者の両方を治めようというものではない。
 裁判官は、律に正条のない行為であっても、その行為が「理」に於いて為すを得べからざる行為であると考えるときは、これに対して刑を科することができたのである。帝王に於いてはその権限は無制限であって、その行為が名教を維持してゆく上に必要であると考えるならば、律に正条のない行為に対して死罪を宣告することも、不法ではなかったのである。故に、律令国家はこれを近代的な意味の法治国家であるとは言えない。
 この律令時代の法に対する考え方、すなわち法は臣下の守るべき規範を定めたものであるという観念は、武家時代にも受け継がれ、それが封建的な主従関係の間にも持ち込まれた。何人と主従関係を結ぶかは各人の自由であるが、主従となった以上は、家来が法を盾にとって主人の行動に制約を加えることはできなかった。
 法は権に勝たずという思想は、鎌倉・室町の時代にも通用した思想であって、「泣く子と地頭には勝てぬ」といわれた
四 権は天に勝たず
 権は天に勝たずという「天」は、彼の蒼々たる天にあらずして、中国人の考える至上万能の神であって、これを日本風に翻案したものが、神祇令に云う天神地祇(天つ神と国つ神。すべての神々の意。)である。
 中国人の信仰に従えば、天は有徳の君子人を選んで、これに蒸民保育の命を下す。この天命を受けて万民保育の任に当たる者が、天子すなわち帝王である。天の徳は生々化育であるから、天子は天の徳を以て己の徳とし、刑殺を好んではならない。
 したがって中国の皇帝は、法網に触れた人民を赦宥する特赦、曲赦、大赦を行うことはできるが、法網に触れない一郷、一群の人民を一斉に有罪として刑することはできなかった。
 中国人の信仰によれば、天は理のあることを好み、無理を悪むと考えられているから、天の心を以て心とする天子は、理を無視することはできない。皇帝はどんな無理なことをしても、人民に対して責任を負うことはないが、よさし(≒委任)を受けた天に対して責任を負わねばならない。
 我が国が律令制を継受したことは、この天に対する信仰を理解し、だんだんと取り入れる気運となったがゆえに、大化の改新以来、天に対する信仰は、我が国に伝わり、それがわが国固有の信仰である神道や欽明の朝に伝来した仏教の思想と融合して、わが王朝の信仰や思想を形成するに至ったのである。
 「権は天に勝たず」は、東洋人の信仰に根差した東洋独特の思想である。
五 「非理法権天」と楠木正成
 太平記を見ても、梅松論を見ても、楠木正成がこのような旗を押し立てて戦ったという記事は、どこにも見えない。この軍旗のことが、当代の軍記物に見えないことは、この語が後人の作語であって、これを大楠公に附会したものなることが疑われる。
 また、中国でできた造語ではなく、日本で作られた標語らしく、楠流の軍学者ではないかと考えられる。故藤田精一氏の著「楠氏研究」でも、「非理法権天」を楠流軍学者の造語とみておられる。
 楠流の軍学者たちは、大楠公の智謀を諸葛孔明の智謀に比しているが、諸葛孔明は、涙を揮って軍律を犯した馬謖を斬った法家の徒であるから、孔明は「理は法に勝たず、法は権に勝たず」を持って信条としていたであろう。
 これに儒教思想である「権は天に勝たず」を補ったものが「非理法権天」である。
 この語が大楠公に附会されたのは、大楠公をもって日本の諸葛孔明と考えられたからではあるまいか。

        父、正成も、子、正行も、達筆!

●楠木正成の遺物
 ・菊水の旌旗(信貴山朝護孫子寺) 別紙資料
 ・菊水紋のついた甲冑(信貴山朝護孫子寺) 別紙資料
 ・正成直筆書状(金剛寺)

 ・法華経奥書(湊川神社)
 大楠公は逆徒平定・天下安泰を祈願され、建武中興の宿願が達成されると、そのご恩に報いるために法華経を写経する旨、巻末に願意を記された。現在残る真筆中、楷書では唯一のもの。


 ・伝正成所用「大黒頭巾形兜」(湊川神社)

 ・伝正成着用「段威腹巻」(湊川神社)
  明治34年(1903年)、国宝。昭和25年(1950年)、重要文化財に指定。


 ・伝正成奉納「黒葦威胴丸、兜、大袖付(春日大社) 国宝

 ・正成が使ったとされる采配(広巌寺)
 ・伝正成着用「卯花威胴丸大袖付」(湊川神社)
 ・伝正成太刀「銘.藤六左近国綱」(湊川神社)
 ・伝正成旗差物「非理法権天旗」(湊川神社)
 ・正成所用「矢筒」(吉水神社)
 ・正成所用「毘沙門天像」(吉水神社)


●楠正行の遺物
[観心寺文書]
国宣 観心寺 1344
河内国小高瀬領家職、爲御祈祷料所、観心寺可令知行由事、去二月廿三日 綸旨如此、早可被沙汰居当所候也、仍執達如件
  延元五年四月廿六日 左衛門尉(花押)
 跡部左近将監殿
国宣 観心寺 1340

摂津国渡辺津御厨惣官職事、不相違、寮務未補之間、且可存知之由、天気如此悉之以
  興国元年十一月卅日 左衛門尉
 渡辺惣官左衛門尉殿
国宣 観心寺 1342

河内国野田庄内岩瀬田壱町、観心寺地頭得分、任先例管領候也、仍執達如件
  興国三年正月十七日 左衛門尉(花押)
 観心寺寺僧等中
書状 観心寺 1344

鎮守社檀回禄事、殊以驚歎入候、但神体不焼失、火中御座候、末代之奇瑞、言語道断候、忩可相聞候、恐々謹言
  興国五 五月廿六日  正行(花押)
 観心寺寺僧御中
書状 観心寺 1344

頓作御造畢、無為御遷宮、返々目出度喜入候、必々可参詣候、恐々謹言
  十二月一日  正行(花押)
国宣 観心寺 1347
河内国小高瀬領家職、爲御祈祷料所、観心寺可知行由事、延元五年二月廿三日綸旨如此、早可汰居寺僧当所候也、仍執達如件
  正平二年十二月十五日 左衛門尉(花押)
 和田左衛門尉殿

[金剛寺文書]
庁宣 金剛寺 1343
庁宣 留守所
 可早令先例、免除天野山金剛寺領所当以下国役臨時雑事兼亦禁断殺生
右件寺者、霊験殊勝之砌、禅侶精勤之場也。然者、任建久二年宣旨院庁下文並  庁宣等、永可免除四至内田畠山野等所当官物以下国役臨時雑事、兼又、可断殺生、若不制法者、慥可炳誡之状、如件、留守所宣承知、敢勿違失、故以下、
  興国四年十一月 日
守橘朝臣(花押)
[河合寺文書]

国宣 1341
摂津国溝杭守里名、爲御祈祷料所、河合寺寺僧等、可知行由事、今年五月十六日 綸旨如此、早可汰居当所之状、如
  興国二年五月廿六日 左衛門尉(花押)
 広瀬大夫法眼御房
[土橋家文書]
書状 土橋家 1341
吉野殿御兵糧事
先日令申候了、干今不御左右申候間、富部隼人正在国之間、連々責申候、忩可御沙汰候、恐々謹言
  四月廿四日  左衛門尉正行(花押)
 金剛寺衆徒御中
[西琳寺文書]
国宣(木版) 中村家 1343
河内国厚見庄公文職事、任今月四日 綸旨並近衛三位中将殿御下知状、可管領候、仍執達如
  興国四年四月廿二日 左衛門尉(花押)
 西琳寺方丈侍者御中
[建水分神社奉納扁額]

銘  建水分神社 1340
延元二年丁ひのとうし八月廿七日 被御位記。 同五年庚かのえたつ卯月八日 題額草創之。
左衛門少尉橘正行。

・「楠正行添え状」(広瀬大夫宝眼御房宛)(壺井八幡宮)
・伝正行刻「楠木正成像」(観心寺)
・伝正成授「銀鞘龍紋短刀」(摩尼院)
・伝四條畷の合戦正行所用「陣鐘」(王龍禅寺)
・「正行公辞世の扉」(如意輪寺)

・伝正行所用「短刀」(如意輪寺)
・伝正行陣鐘「古鐘」(康永元年の銘1342)(賀名生旧皇居)
      中世身分制社会と戦い続けた越智氏
 朝護孫子寺を後にした一行は、越智氏の菩提寺、高取町の光雲寺に向かいました。
 光雲寺の関光徳ご住職の出迎えを受け、早速、本道で講話をしていただきました。
 その後、越智邦永、邦澄他、越智氏一族の墓に墓参し、座敷に案内いただき越智氏の勉強をしました。
 ご住職夫人のお茶とお菓子のもてなしを受け、暑さに参っていた一行はのどを潤し、扇風機のまわる部屋で涼を取りながらの講話となりました。
 講師は、越智氏奉賛会準備会会長で、越智氏の末裔の本田さん、そして三光丸クスリ資料館(御所市所在)館長の浅見さんのお二人です。
 浅見さんは、「越智氏、楠木氏関連記事」と題する資料(A43ページ)をご準備くださり、越智氏と楠氏の関わりを中心に、南北朝期の越智氏の事績を詳しくお話しくださいました。
 浅見さんは、越智氏は、義を重んじた一族で、どちらかといえば割りに損な方に着くという一族であったとお話されましたが、楠氏にも通じるお話と伺いました。また、四條畷の合戦で正行亡き後、楠氏を継いだ正儀を越智氏がしっかりと支援した事績も紹介され、越智氏、楠氏ともに、和睦論者でなかったかと思います、ともお話されました。(写真上:越智氏の墓の前で関住職の説明を受ける。写真下:座敷で越智氏末裔、本田さんの話を聞く)

●高取町 光雲寺
 黄檗宗大本山萬福寺末で、越智山と号し、この寺はもと興雲寺といい、越智氏の菩提寺である。天正17年(1589)、郡山城主豊臣秀長と戦って利なく、以来家名挙がらず、荒涼100余年に及んだ。天和年中(16811684)に至って、鉄牛禅師の再興に会し、これ以来光雲寺の文字を用いた。
 建造物として、本堂・参籠所附属の薬師堂・鐘楼門(源の家長の署名のある「越智山」の扁額がある。)境域の越智家累代の石碑八基には刻字はあるが、摩耗甚だしく読み難い。

(「高取町史」より)

高取町史年表より抜粋(一部扇谷補記)

1185 文治元 宇野親家注⑤、平家追討の功で越智に封じられ、粉盛山(貝吹城注⑥
        に本拠を置き、越智姓を名乗る

1285 弘安8  越智の住人貞家、九郎兵衛入道ら悪党、強竊(ごうせつ)、放火、夜田
        の狼
1316 正和5  越智邦永、北条高時の暴悪政治に抗し公納を拒み、楠木正成(幕府方

        に背後を崩され、制せられ、重臣らとともに敗死する

1329 正徳元 越智邦澄、戸野法印(南朝方)注①に属し、旧領を安堵さる
1332 元弘2  越智邦澄、高取城を築き南朝に加担する
1346 正平元 越智通雅(光雲寺過去帳によるもので、宗林=邦澄のこと)、興雲寺
       (越智氏の菩提寺)を創建する

1348 正平3  吉野攻撃の高師直、橘寺に陣して越智氏等と戦う
1349 正平4  足利直義、内訌のため越智氏(家澄)を頼り、大和に遁れ、南朝に降

        参する
1352
 正平7  越智家澄、楠正儀に属し、男山に北朝方と対戦する
1360 正平15 家澄、武家方に降る。次の代、家武の時南朝に帰参
1441 嘉吉元 中央政局の変動、嘉吉の変に乗じ、故地回復 家栄(春童丸)の登場
1467 応仁元 越智家栄の策謀によって、山名・細川の二大陣営の戦い、応仁の乱勃
        発。南主担ぎ出しを画策し、西軍敗戦後、大和戦国時代に筒井をしの
        ぎ、成長
1493 明応2  家栄京に上り、伊賀の守に


・光雲寺厄除けの杉
 大和の国の中世史は、高取町を本拠地とする越智氏と、大和郡山市を本拠地とする筒井氏の派遣争奪の戦いの歴史そのものだった。
 1100年代末に起こった越智氏は、南朝に与し、1400年代の中ごろ、その本流はいったん途絶える事になる。
 しかし、嘉吉の変に乗じた動きの中で故地を回復し、越智家栄は応仁の乱を仕掛けるほどの立場に位置し、南主担ぎ出しの功で地位を不動のものにすると、1493年には京に上り、伊賀の守に任じられている。
 しかし、その2年後、越智家栄が亡くなると、越智党の凋落が始まる。
 そして、そのほぼ100年後、天正10年(1582)、信長の命により筒井順慶が越智氏の家臣、鳥屋陣羽守を攻める。この時、鳥屋陣羽守の二人の息子は杉の木に登って難を逃れたと伝わる。この時、二人の息子の年が、42歳と25歳の厄年であったことから、「厄除けの杉」と呼ばれるようになったと伝わる。
 この杉は、地上3メートルほどで主幹から大きな枝幹が分かれている。幹回り5.2メートル、樹高15メートル、樹令は推定700年。越智邦澄が高取城を築いた時に植えたと伝わる。

●大和武士、越智氏の活躍

(高取町史より)
・越智氏の出自

 中世大和武士の内、最も武家として由緒正しく、その活躍の目覚ましかったものは越智氏である。大和中世史は越智党と筒井党の抗争に終始したが、筒井党の中心は大和郡山市にあったのに対し、越智党の根拠地は高取町であった。
 大和源氏の祖、源の頼親(永承41049 土佐に配流される)は、大和の国が摂関家の知行となり、彼が摂関家の侍であった関係で大和の守に任じられ、その正流(宇野親家)は宇智郡宇野の地にいて宇野を称している(晩年、貝吹城に本拠を置き、越智姓を名乗る)。越智氏は、この一族の誰かが地続きになる高取地方の荘官として開発にあたったと考えられる。
 春日神社文書に、南越智荘の荘官の一人に源家弘の名が出てくるが、鎌倉の中期という事から言えば、この地方で源姓を名乗るものは大和源氏との関連を考え、更に家の字の存在から、これこそ越智氏の先祖(≒越智氏に繋がるの意)と推定することができる。
・南北朝の争乱と越智党
 後醍醐天皇が吉野の地に入った後、吉川本「越智家系譜」には、越智邦澄が一族とともに高取山に城を構えて立て籠もり、戸野法印に属し大塔の宮の令旨を蒙り、活躍したことを伝えているが、この頃越智一族が宮方に属して忠勤を励んだことは間違いないとしても、このことに関する確実な史料はない。
 正平31月、四條畷の戦いで勝ちに乗じた高師直の軍勢が大和の国に入り吉野の行宮を焼払い、2月には平田荘まで引き上げている。この時追撃に討った宮方の武士の内に越智党の面々も含まれていたものと思われる。
 この頃、越智氏が、河内の東条に軍勢を出し、楠方に馬の喰葉を送っていたことが「興福寺年代記」にも見える。
 武家方の動きとしては、正平4年(1349)、足利直冬を中国探題に任ぜんとしたことから師直・直義の内訌は表面化し、師直・師泰の兵を受けた直義は尊氏の許に遁れ、薙髪(ていはつ)して慧源(けいげん)と称したが、更に身に迫る危険を感じ、正平5年(135010月、大和に遁れ、越智伊与の守(伊賀の守ともあり)に頼り南朝に降参している
 越智氏の仲介によって直義は南朝に投じたのであるが、ここに越智氏が史上あらわれることになる。当時、武家方の重鎮である足利直義がなぜ越智氏を頼ったかは疑問であるが、頼むに足るほどに越智氏が武家として成長していたことは事実である
 正平9年(1354)北畠親房、正平23年(1368)後村上天皇が亡くなった後、宮方は大和、和泉、紀伊の山中を転々とする微弱な政権と化していくが、これまで宮方に味方した越智大和の守も武家方に降ったため、正平15年(1360)には、当寺紀州にあった南軍は潰(つい)える結果となっている。
 越智氏の態度は直義が南朝に帰参した当時から傾いている。宮方では越智氏と吉野先執行が武家方との講和を策していることを極度に警戒していた。両朝和平の議はそのころから起きていて、宮方の楠正儀なども熱心な実践者であったが、いつも南朝硬派のため抑えられて成立しなかった。結局、越智氏も宮方の内、和平派であったとみられる
・越智党の隆盛
 全国的に見れば足利政権の弱さに乗じた民衆勢力勃興の一例であり、南朝遺臣の謀反に連なる大和武士団党争である大和永享の乱(14291441注②で主役を務めたのは越智党であるが、この乱でその本流はいったん途絶え、一族や与力の多くは討たれた。越智氏の遺領は楢原氏に与えられ、楢原氏が越智氏を称するようになる。
 しかし、わずか1年余りで越智氏は故地を復する。
 嘉吉元年(1441)、赤松満祐が謀反して将軍義教を暗殺するという事件(嘉吉の変)が起きるが、こうした中央政局の変動に乗じ、越智氏の故地回復の運動が成ったともみられる。これは越智の子息を擁した越智党本宗の人々の働きによるものであるが、この子息こそは、幼名春童丸、長じて家栄(いえひで)と名乗り、越智氏の最盛期を永年にわたって築き上げた人物である。
 嘉吉の変に乗じ、後南朝の一団が、禁中に侵入し、内裏に火をかけ、神器を奪い返すという禁闕の変(きんけつのへん)が勃発するが、この時、寄せ手武士の中に楠次郎、越智某、湯浅九郎などの名がみえる(「十津川記」)。越智党の内のあくまでも南朝に忠勤を通じた硬派の人々がこれに参加していたようである。
 越智家栄は、河内の守護、管領職にあった畠山持国の二人の子どもの家督争いに乗じ、その勢力を南都にまで伸ばし、一度壊された鬼薗山城(ぎおんざんじょう)注③を修復し、ここを北大和支配の根拠地としている。
・応仁の乱と越智家栄

 越智家の再興は管領畠山持国の支持による。
 河内の守護であり、管領の職にある畠山持国は興福寺の権益を侵すほどに権勢を誇るが、晩年、実子義就(よしひろ/よしなり)と養子政長の間に家督をめぐる争いが勃発し、旧縁により越智一党は義就に、筒井一党は政長にそれぞれ加担した。
 中央政界で失脚した畠山義就は、河内に下るも、政長との戦いに敗れ、高野に逃れ、更に吉野に入り、3年の後、壺坂に入っている。この時家栄は、京都の山名・細川の対立に乗じ、山名宗全に接近して義就の中央への復帰を画策するなど、応仁の大乱の勃発に家栄の策謀は大きい力を持っていた
 文正元年(1466)の暮れ、義就は念願の京進出を果たし、翌応仁元年(1467)正月、京都に陣した政長の軍を撃破した「御霊合戦」を以て、山名・細川の二大陣営の戦い、応仁の大乱が始まる。
 東軍は、御所を本陣に、主上・将軍を奉じ、細川勝元を中心に兵力16万、筒井一派も加わった。西軍は、山名宗全を大将にその館を本城に、畠山義就も加担、兵力9万、越智一党も投じた。主上を仰ぐ東軍に名分はあるが、西軍には欠いていた。ここに担ぎ出されるのが南朝の後裔で、その画策を越智家栄が果たしている
 「南主」を西軍に向かえたのは家栄の偉勲である。西軍の旗色が悪くなり、文明9年(1477)義就は河内に退去、その際家族を越智に下向させるなど、その関係の深さが想像できるが、応仁の大乱はここに終わりを告げる。大和戦国時代に入るが、大乱後、大和で成長したのは筒井ではなく越智家栄であった。
・越智家栄の活躍と越智氏の大名化
 家栄は、明応2年(14935月、転害の宿(奈良市)注④を立って京都に上り、伊賀の守に任ぜられる。
 家栄は、散在党成立以来の内衆、そして古市・箸尾・高田などの与力衆を抱える大きい武士団に成長した。直接的に勢力の及ぶのは内衆の占める範囲で「越智郷」と呼ばれ、間接的に広く大和一円に及ぶ与力衆を通じての支配であるが、その範囲は政局の推移に呼応して変化した。
 しかしその勢力範囲が大和一円に及ぶのは家栄の時代、しかも明応2年(1493)の後しばらくのことで、その衰退とともに越智郷さえ維持できなくなっている。越智郷は、広く高市郡から南葛城郡にわたり、この地が反銭の徴しうる範囲であった。
 明応4年(149510月、家栄の死とともに、越智党の凋落が始まっている。なお、家栄の死を明応9年(15002月とする説があるが、戦国時代の習いで喪を秘したものと思われる。

●大和武士とは
・春日社と興福寺の関係
 平安時代、藤原氏の勢力が台頭してくると、春日社は藤原氏の氏社から国家崇拝の大社として扱われるようになる。
 同時に、神仏習合が進み、興福寺が春日社の祭祀と関係する余地が生まれ、その第一歩は、春日社頭で行われる法花八講会(ほっけはっこうえ:法華経8巻を8口座に分けて、日に朝・夕2座講じて、4日間で完了する法会)であった。
 そして保延元年(1135)、若宮社殿が創立される。
 保延2年には、若宮祭礼がおこなわれた。
 そして、保延3年の「大乗院日記目録」には、興福寺執行の下に同寺大衆が参加する形で若宮祭礼が盛大に行われた事が記されており、この過程は興福寺の春日社支配確立への道とみなすことができ、大和を神の国として支配する体制が整ったものとみなされる。
 つまり、興福寺の大和国司としての支配を強化する体制が整ったものと考えられ、これは祭政一致の支配といえよう。
 若宮祭礼における流鏑馬勤仕
 流鏑馬=やぶさめ:疾走する馬上から的に鏑矢(かぶらや)を射る、日本の伝統的な
     騎射の技術・稽古・儀式のことを言う。 馬を馳せながら矢を射ることから
     、「矢せ馬(やばせうま)」と呼ばれ、時代が下るにつれて「やぶさめ
     」と呼ばれるようになったといわれる。
 鎌倉時代末期に見られる流鏑馬勤仕は、南北朝から室町にかけて、党を組織し、六党が流鏑馬を勤める状況がうかがえる。
 永川(箸尾氏が刀禰)、長谷川(十一氏が刀禰)、平田(本伴目代が刀禰)の3党は隔年に、葛上(楢原氏が刀禰)、戌亥脇(筒井氏が刀禰)の両党は5年に一度、散在党(越智氏が刀禰)は毎年勤めたことが知られる。
・興福寺の大和国内検断権の行使

 検断権=中世の日本において警察・治安維持・刑事裁判に関わる行為・権限・職務を総称した語
 文治元年1185 源頼朝は、国ごとに守護を置いたが、大和には設置しなかった。
 しかし、内々に沙汰があったようで、同年、興福寺には国司の上に重ねて守護職が付けられたようである。
 守護は、一般には一国の軍事・警察権の行使を行ったが、興福寺の場合は、軍事、つまり、幕府のもとにあって合戦等に参加する責任はなかった。大和一国内での非違の検断権と相論の裁判権の行使が興福寺にあったものとみなされる。そして、国司・守護の両権は、興福寺別当にあったものとみなされる。
・「貴種」の入寺

 貴種=摂政・関白らの息男
 白河天皇(10741086)の頃から、氏寺興福寺へ「貴種」が僧侶として入るようになった。
 このことは、それまでの受領(国司)等の子息に代わって、貴種が門主(一条院・大乗院等)、ついで別当となり、摂関家と興福寺の一体化を実現し、新興受領層を基盤として摂関家と対立する後三条天皇(10691073)・白河天皇・同院による興福寺の支配を排除しようとする体制であったと考えられる。
 承保元年(1074)、元関白の藤原頼通が没した後、覚信が興福寺に入寺する。
 覚信は、頼通の長男、時の左大臣であった師実の6男である。
 この覚信は、康和2年(1100)、36歳の若さで興福寺別当に任じられている。
・中世身分社会における大和武士、越智氏

 (国史大辞典より)
 中世大和の国南部の豪族。
 出自に関しては、伊予河野氏と同族説、大和源氏宇野氏の一族説、物部氏説、橘氏説などがあって一定しない。
 「続日本記」には延暦2年(7834月贄田物部首年足が越智池を築いて外従五位下に叙せられたことが見え、「新撰姓氏録」左京神別にも越智直が見える。
 越智の名称は奈良時代にさかのぼり、伊予河野氏とはおそらく無関係かと思われる。南北朝時代、一時南朝に降った足利直義が越智伊賀の守を頼ったことが「太平記」巻28に見える。
 春日社の神人である国民に組織され、南北朝内乱期から頭角を現したものと考えられる。一条院に属し、また南朝を支持し、南北朝合一後も後南朝と関係が深い。
 永享年間(142941)、維通が、将軍足利義教の弟義昭とともに円胤親王を奉じて幕府軍と戦い、同11年敗死。越智氏は一旦断絶したが、畠山持国を頼って復興。畠山氏の分裂後は家栄が義就を支持して活躍、応仁の乱後に南大和をほぼ統一し、高市郡越智城(高取町)及び高取城(同)を居城として越智氏の全盛時代を現出。
 子家全が継いだが、その後は戦国騒乱の過程で振るわなかった。戦国時代末期、玄蕃頭利之は筒井順慶の姪婿となり、小治郎利髙は織田信長に仕えたといわれるが、その後の動静は不明。系譜もまとめられたものはなく、また俗書に諸説あって詳細不明。
大和の国『国民』越智氏
 国史大辞典によると、越智氏は国民に組織されとある。
 大和武士を理解するうえで、中世の身分制度がもたらした影響を抜きに考えられない。
 中世身分制社会において、その基本構成は「貴種」身分、「司・侍」身分、「百姓」身分、「下人」身分、「非人」身分とされるのが通例である。貴種身分は政治権力を掌握している権門身分、司・侍身分は武人・官人ら支配者身分、百姓身分は公的な被支配者民衆の基本をなす身分、下人身分は私的な隷属身分、非人身分は支配隷属関係から外れた体制外身分を言う。(黒田俊雄説「中世の身分制と卑賤観念」)
 大和の国では、「貴種」出身の一条院・大乗院門跡は異例の早さで昇進を遂げ、俗世間でいう参議に比定される僧正にいち早く就くことができた。
 そして両門跡に分属し坊人となっている衆徒・国民は、大和国人として「侍」身分に比定される。ただし、衆徒は僧体であり、国民は春日社神主職保持者という相違点が認められる。
 即ち、衆徒は元来興福寺の僧全体を指す言葉であったが、13世紀半ば以降、僧侶の中でも特定の階層=下﨟分(げろうぶん:修行年数の浅い僧)を意味するようになる。
 また一方の国民は「国衛領民」に由来するといわれ、当初、多武峰を頼っていた土豪が、その衰退に伴い春日社の権威を頼ろうと、神主職を獲得して発生してきたようである。
 そして衆徒は、興福寺の権威のもと、官符衆徒になり、奈良中雑務検断職を有する等、他の大和国人に比べて優越的な権力を持つことができた。
 しかし、国民において官符衆徒のように雑務検断職を有した例は見られないことから、衆徒・国民は「侍」身分に比定できるものの、出自によって就くことのできる職が制限されており、国民は衆徒より下位に位置づけられていたといえる。
 南朝方、南大和の雄、「国民」の越智氏は、北朝方、北大和の雄、「衆徒」の筒井氏と対立・抗争を繰り返すことになるが、常に、衆徒に劣る国民としての、如何ともしがたい「身分」との戦い・制約を強いられたことを見逃してはならない。
 大和の国人は、興福寺の権威の下、僧官僧職を得て権威づけ可能な衆徒、そして衆徒の権威づけに立ち向かうために春日社の神職を得て対抗する国民が、藤原氏の氏寺である興福寺の二大家、一条院党と大乗院党に、更には南朝方・北朝方に入り乱れて、ある時は味方、またあるときは敵といった複雑な構造を繰り返していたのである。

 朝護孫子寺では、南朝年号の刻まれた石室仏に出会い、興雲寺では、越智氏末裔の本田さん、そして越智氏研究をしておられる浅見さんにお会いし、お話をお聞きすることができ充実した一日になったようです。

                第4回の914

            下鴨神社・比叡山延暦寺を訪れる
 次回914日の第4回は、下鴨神社延暦寺を訪ねます。
 下鴨神社周辺は正成も尊氏も戦った場所で、延暦寺は後醍醐天皇が還幸し、義貞の北国落ちの別れとなった場所です。

                                     以上


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