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高齢者・子どもたちの笑顔あふれる街 四條畷市立教育文化センターは

四條畷市立教育文化センター
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〒575-0021 大阪府四條畷市南野5丁目2-16

 



(全5回)
第4回 下鴨神社、一乗寺下がり松大楠公戦陣跡、比叡山延暦寺
9月14日(木)
33年ぶりに御開帳された西塔・釈迦堂の内陣に大感激
下鴨神社境内に広がる糺の森、つかの間の森林浴堪能


 
 今回の正行ゆかりの世界は、同日、自主防災会の研修旅行と重なり、市役所の駐車場は東西に分かれて大型バスと、市のマイクロバスに向かう市民の列でにぎやかな出発風景となりました。東市長も「行ってらっしゃい。」と声をかけに来てくださいました
 このバスツアーは、3年前の第1回目からのことですが、ほぼ毎回定員いっぱいの25名の市民が参加されています。運転手、市の職員、教文の職員、そして扇谷と定員満杯の29名になりますが、補助席が皆埋まり、バスの中は顔、顔、顔の状態です。
 体調不良や急用等で、毎回キャンセルが出るのですが、キャンセル待ちの方が必ず参加してくださり、今回も、キャンセル5名、キャンセル待ちから5名と満杯となりました。
 「扇谷さん、次回もよろしくお願いします。」と声をかけていただいたキャンセル待ちの方がおられましたが、こればかりは私にはどうすることもできません。

  毎日新聞、バスツアーのための報道かと驚くタイミングの良さ
 さて、今回のバスツアーを予見する如く毎日新聞に下鴨神社の報道がありました。
 826日の夕刊1面トップで、りらくフォトコーナーで、「ずらり美顔祈願」との見出しとともに、下鴨神社境内にある河合神社の手鏡絵馬が紹介されました。
 河合神社は、女性の美の神様として信仰されており、女性たちが手鏡の形の絵馬に化粧をした自分の顔を描き奉納し、「美」を願うもので、写真は奉納された絵馬を背景に若い女性が写っています。
 また92日の朝刊には、名作の現場シリーズとして、第30回鴨長明『方丈記』が取り上げられ、鴨長明は下鴨神社の禰宜の家の二男として生まれ、兼好法師、西行と合わせ、中世の三大隠遁スターというイメージと紹介されています。
 そして糺の森に立つ案内人、酒井順子さんの写真、河合神社境内に復元された鴨長明の草庵の写真。
 新聞で見る写真と、今日、実際に見学する現地、を楽しんで味わってください、と車中で案内し、にぎやかに出発。

     車中の講話、太平記の件から京都市街戦の様子を

 車中の講話では、今日訪れる、建武2年の京都市街戦の様子を、太平記巻第十五、「建武2年正月16日の合戦のこと」「正月27日合戦のこと」「尊氏都落ちのこと」の件から紹介するとともに、この件を基に扇谷が作成した「建武の京都市街戦合戦要図」を見ていただきながらのお話となりました。
 太平記によると、下鴨神社附近から南死骸南北一帯に布陣した足利尊氏80万に対し、南朝方は、京都市街の山沿いに東方、南から北畠顕家3万、比叡山の僧兵1万、新田義貞、義助2万、洞院実世2万、そして楠木正成、結城宗広、名和長年の3千が布陣する配置で、正成は、尊氏方の上杉、畠山らと一乗寺から下鴨神社一帯で激戦を繰り広げたとあります。

<配布資料①>

建武二年正月十六日の合戦のことより
 一方、新田義貞は二万三千余騎を三手に分け、一隊は華頂山の将軍塚(粟田口)へ上らせ、一隊は真如堂(岡崎)の前へ、もう一隊は法勝寺を後ろにして二条河原に陣を取らせて、すぐさま合図の狼煙を挙げさせた。
 義貞自身は華頂山へ上がって敵の陣容を見渡すと、北は糺の森(下鴨神社)から南は七条河原まで、東西南北四十四町にわたって、馬の頭が尻にくっつき、鎧の袖が重なり合う状態で、立錐の余地もないほど煮詰めあって集結していた。

正月27日合戦のことより
 いよいよ合戦当日(27日)になると、楠、結城、伯耆の名和は人馬を休ませるために前日の宵のうちから三千余騎で叡山を通って西坂を下り、下り松に陣を取った。
 北畠顕家は三万余騎を率いて大津を抜け、山科に陣を取った。
 洞院実世は二万余騎で赤山明神(修学院)に陣を取った。
 延暦寺の僧兵は一万余騎で竜華越えを経て鹿谷に陣を取った。
 義貞・義助兄弟は二万余騎を率いて坂本から延暦寺東塔へ上がる今道を通って京都へ向かい、北白河に陣を取った。

<略>

 一方、楠正成、結城宗広、名和長年は三千余騎で糺の森の前から攻めていき、出雲路のあたりに火をつけた。尊氏はこれを見て、
〈尊〉「あれはおそらく神楽岡の敵どもだと思われる。山法師が相手なら馬上で戦う心配はない。急いで出向いて馬で追い散らせ」
 と命じて、上杉伊豆の守重能、畠山修理大夫国清、足利尾張の守(斯波高経)に五万余騎をつけて向かわせた。
 ところが、楠は元来勇気無双の上に智謀においては第一人者であったから、一枚板の軽々とした楯を五、六百枚作らせて、板の端に掛け金と留め金を打ちつけ、敵が攻めてくると楯の掛け金をかけて、城の垣根状の楯のように一、二町(約110~22㍍)の長さに並べ、すき間から思い切り矢を射させて、敵が退くと選りすぐった屈強の騎馬武者五百騎にだっと同時に攻めかからせたので、防衛側の上杉・畠山の五万余騎は楠の五百騎にきりきり舞いさせられて五条河原へ退却した。

 <略 粟田口から攻め込んだ顕家は、出陣した尊氏五十万騎の中を真っすぐ横切って駆け抜け、京都市中へ>

 と言うが早いか、鴨川や白河一帯や市中にびっしりと集まっていた大軍の兵士が、あわてて馬を前のめりに倒し、弓矢をかなぐり捨てて四方八方へ逃げ散ったが、それはさながら秋の木の葉が山おろしの風に吹き飛ばされているような光景だった

尊氏都落ちのことより
 楠正成は比叡山へ戻ると、翌朝に、三十人の僧を天台宗ならぬ律宗の僧に仕立てて京都へゆかせ、ここかしこの戦場で死骸を探させた。足利勢の兵が怪しんでわけを尋ねると、僧侶たちは悲嘆の涙を抑えて、
 〈僧〉「昨日の合戦で新田左兵衛督殿〈義貞〉、北畠中納言殿、楠判官以下主だった方々が七人も討死なさいましたので、供養のためにその死骸を探しているのです」
 と答えた。
 尊氏をはじめ、高、上杉などの人々はこれを聞いて、
 〈尊〉「敵の主だった者たちが皆一度に討死したとは、実に思いがけない。だから官軍は勝ち戦にかかわらず京都から出たのだ。どこかにその者たちの首があるだろう。探して獄門台にさらし、大路を引き回せ」
 といって、敵・味方の死骸を探させたけれども、これこそ、というような首はなかった。ともかく義貞以下の首が欲しかったので、顔立ちが似ている首を二つ獄門の木にかけて、「新田左兵衛督義貞、楠河内判官正成」と札に書いておいたところ、どんな憎まれっ子がしたものか、その札のそばに、
 「これはにた首なり。まさしげにも書ける虚言かな」

 (これはよく似たにせものである。よくも本当らしいうそを書いたものだよ。)
 と巧みに掛詞を使った言葉を書き添えて表示してあった。

 <略 同じ日の夜半、正成が松明二、三千本を持たせて大原や鞍馬の方角へ下がっていかせたのを見て、尊氏は、方々へ逃げる兵を逃がすなと、各方面に兵を差し向け、市中の大軍も大半が減ってしまったところへ、宮軍が攻撃、足利軍は雲散霧消して、尊氏は篠村の内藤左衛門入道の館に入った。その後、摂津の国豊島河原の戦いがあり、大友定宗の進言を受け、尊氏は大友の船に乗る事に。>


 さて、下鴨神社ですが、ここでは、思う存分森林浴を楽しんでください、とアナウンスしました。
      みたらし団子発祥の地には驚きと、楽しみが

<配布資料②>
糺の森
 下鴨神社境内にある社叢林。鴨川と高野川の合流地点に発達した原生林で、約12万4千平方メートル(東京ドームの約3倍の広さ)の面積があり、国の史跡指定を受けている。
 ケヤキやエノキ、クスノキなど、約40種、4700本の樹木が生育している。
 森の中を流れる川は、御手洗川・泉川・奈良の小川・瀬見の小川と4つの川があり、御手洗川は湧水のある御手洗池を水源としている。(写真上:御手洗川の前で 写真中:糺の森で毎日新聞掲載写真と同じアングルで 写真下:河合神社境内の鴨長明草庵前)

・流鏑馬神事
 葵祭の祭事に先立ち、毎年5月3日に行われる神事。
 狩り装束姿の射手が3つの的を鏑矢で射ぬく。
・御手洗祭り
 土用の丑の日頃に数日間開催される祭。
 御手洗池の湧水に足を浸して健康を祈願する行事。(足付け神事)

みたらし団子
 下鴨神社が行う御手洗祭りを語源とする。
 境内にある御手洗池の水泡を模してみたらし団子が作られた、とされる。
 鎌倉時代、後醍醐天皇が行幸の際、御手洗池で水を掬(すく)おうとしたところ、一つの大きな泡が出、続いて4つの泡が出てきた逸話による、との説がある。この泡を模して、櫛の先に一つ、やや間をあけた4つの団子を差して、その水泡が湧いた様子を表している。この団子が池の名前から『御手洗団子』と呼ばれるようになった。
 団子が商品化された大正末期は生醤油のみをつけて焼かれていたが、昭和20年以降、黒砂糖を加えくず粉でとろみをつけた飴を絡めるようになり、大いに人気をうる事に。
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河合神社
 神武天皇の御母神「玉依姫命」(たまよりびめ)が御祭神。玉のように美しいそのお姿から美麗の神としても信仰されている
 ここの「鏡絵馬」は、絵馬をご自分のお顔に見立て、願いを込めてお化粧の上、奉納するもの。

 ご希望の方は、自由時間に!


         こんなところに大楠公の碑が…
 下鴨神社では、本殿参拝、御手洗池見学の後、御手洗団子を買に行く人、糺の森を散策しながら河合神社に向かう人、茶店で「鴨の氷室の氷」と名付けられた初雪のような純白のかき氷を楽しむ人と、自由散策を楽しみ、一路一乗寺下がり松へ。
 楠木正成が陣を張ったという一乗寺下がり松には、大楠公戦陣跡の大きな石碑が立っています。敗れた足利尊氏は、丹波篠村から西に転戦をしながら、九州に落ち延びていく事になります。(写真:一乗寺下がり松大楠公戦陣跡の碑前)
「こんなところに大楠公の碑が…。」と多くの参加者が驚きを隠せいない様子で、その横には宮本武蔵と吉岡一門の決闘の場との碑も建っていました。
 さて、一乗寺下がり松を後に、バスは一路比叡山に向かいました。
 移動の車中、新田義貞の北国落ちの様子を太平記からお話しました。
    後醍醐天皇の権力欲、一方、北国落ちの悲運、義貞


<配布資料③>
太平記巻第17より
延元元年5月 湊川の戦で正成没
    6月 尊氏(東寺)、直義(三条坊門)、京都に入る
    6月 名和長年戦死。岸和田治氏、京都市街戦に参陣。帝、比叡山に臨幸。
    8月 岸和田治氏、八幡、八木城等、各地の戦いに参陣
    9月 岸和田治氏、橋本正茂、八木城に参陣。四条隆邦、河内東条へ戻る。
    10月 岸和田治氏、東条に戻り、こもる。

*尊氏、帝に使い

 このような情勢下、尊氏は、後醍醐帝に使いを出し、京の都への還幸を願い出る。 「この間の戦いは新田義貞との抗争が故であり、決して帝に謀反するものではない。
 ぜひ、皇居にお帰り下さい。」と。
*後醍醐帝、尊氏の甘言(伝教大師に誓う起請文)に騙され、都への還幸を決断・回答
  ~ 後醍醐帝の権力欲がにじみ出る一幕
    「(天皇を)欺くことはたやすいことだった)と、喜んだ尊氏
*洞院実世、帝の還幸のいきさつを、義貞に通報
*何も聞かされていない義貞は、堀口貞満を様子見に参内〈比叡山〉させる
*堀口貞満、まさに行幸の儀式が始まった所へ出くわし、御輿の轅(ながえ:前方に出た二本の坊)に取りすがり、涙を流して、帝に訴え
 「いったい義貞がどのような不義を働いたことから、長年に及ぶ身を粉にしての忠節をお見捨てになり、悪逆非道の尊氏にお心を移されたのでしょうか。
 今回の都での戦いにおいて、朝敵である足利軍の勢いが盛んで、我が官軍は次第に不利になっていきますことは、まったく戦いの失敗によるものではありません。
 もっぱら帝の威徳にかけるところがあったからでしょう。そのために味方に参戦する軍勢が少ないからではないでしょうか。
 わが新田家の多年にわたる忠義を見捨て、都にお帰りでしたら、先ずは義貞をはじめとして当家の士族50余人を午前に召し出し、首をはねてください。
*参内してきた義貞、義助に、後醍醐帝曰く
 「そなたに前もって内々に知らせたいと考えてはいたものの、ことが漏れて遠くまで広がれば、反って具合の悪いこともあろうと思ったので時機を見て伝えようとそのままにしていた。
 しかし、貞満の言によって、それが朕の過ちであったことを悟った。
 まずは越前へ向かい、北国を支配し、天下の守護役となってほしい。朝敵の汚名を着せられないように、恒良親王に皇位を譲り、ともに北国へ下そう」
  ~ この日、慌ただしい即位の議、そして還幸の準備で日が暮れた。
*明けて10月10日、後醍醐帝は700余騎で西(京都)に還幸
 恒良(つねよし)親王は、7000余騎で北(越前)へ行啓 尊良(たかよし)親王、義貞、義助、洞院実世ら
 (そん)澄法(ちょうほう)親王(しんのう)宗良(むねよし)親王)は遠江へ
 (かね)(よし)親王は吉野へ
 四条隆資(たかすけ)は紀伊へ
 それぞれ落ちていくことに・・・
*還幸供奉(ぐぶ)の人々禁殺されること
 法勝寺で出迎えたのは足利直義五百余騎
 三種の神器(偽物とすり替え)を渡した後、後醍醐帝は花山院に幽閉
 降参した武士は、大名の許へ預け囚人の扱いを
*北国下向で凍え死に
 河野、土居、得能(四国勢)は、馬は雪に凍えて動かず、兵は凍傷で指を落として弓を引くこともできず、太刀の柄も握ることができなかったので、腰の短刀を土に突き立て、その上にうつぶせに倒れ、身を貫いて自害した
 千葉貞胤は投降
 義貞は金ケ崎城(敦賀)に入る その後、田んぼで落馬し、非業の最期を迎える
 子、義顕は2千余騎で越後へ 弟、義助は1千余騎で南越前へ



       延暦寺最古の建物、釈迦堂前で記念撮影
 比叡山延暦寺では、まず最初に西塔の釈迦堂(重要文化財)を訪れました。西塔の中心で、正式には転法輪堂といい、現在の建物は、信長の比叡山焼き討ち後、秀吉が園城寺の弥勒堂を移して手を加えたもので、延暦寺では最も古い建物です。
 今回はラッキーなことにこの釈迦堂の建造物の内部が初めて開かれているという事で、僧侶から説明を受けた後、参加者全員が内陣の特別拝観をしました。堂内は、本尊の最澄自作と伝わる釈迦如来を守護するように東西南北に四天王像が立ち並び、内陣には4つの祠、文殊菩薩、元三大師、山王七社、八所明神があり、それらの扉も全て開かれ、神仏習合の悠久の歴史を感じ取ることができたようです。(写真上:延暦西塔釈迦堂の前で全員そろって記念撮影)

 そして、等々に移り、根本中堂に参拝し、僧侶の説明を受けた後、開創依頼の“不滅の法灯”が1200年の時を超えて輝き続けている様子を目の当たりに、一同大感激。
 その後、大黒堂横に立つ「大塔宮護良親王御遺跡」の碑の前に移動して、扇谷から、延暦寺の座主を務め、比叡山にきわめてゆかりの深い護良親王の生涯についてお話しました。(写真下:延暦寺東塔大黒堂横の護良親王御遺跡碑の前で)

<配布資料④>
護良親王の生涯
 護良親王は、後醍醐帝の皇子として延慶元年1308に誕生、11歳で比叡山延暦に入り、20歳より延暦寺天台座主(法名:尊雲)を勤めた。尊雲法親王は、この期間を比叡山の大塔<東山岡崎の法勝寺九重塔(大塔)周辺に門室を置いたことに由来>に在したことから、世に大塔の宮と称される。
 護良親王は、父・後醍醐帝が討幕計画(元弘元年・元弘の変)を企てると、元弘2年(1332)、天台宗・梶井門跡三千院門主を退き、還俗して吉野で挙兵、参戦する。元弘3年(1333)に入ると、正月、幕府方は大軍を投入して護良親王が立てこもる吉野の城に押し寄せるが、太平記には、村上義光が身代わりとなって護良親王を高野山に逃す件が綴られる。

 後醍醐帝が立てこもった笠置の様子を探るため、護良親王は比叡山を離れ、赤坂の地を経て奈良の般若寺に隠れる。
 太平記には、般若寺に迫った追手から、仏殿にあった三つの大般若経の唐櫃に難を逃れるという摩利支天あるいは十六禅師(般若経とそれを持つものを護る神)の加護ではないかという演出、特異な運命が描かれている。
 三つあった唐櫃のうち、ふたの空いている一つの経典の下に隠れたことが幸いし、追手はふたの閉まった唐櫃だけを確認して、立ち去ったとする件を記している。

 難を逃れた護良親王は、熊野、十津川を経て吉野山に入る。この頃、護良親王は隠岐の後醍醐帝や赤坂の正成と連絡を取り合い、全国の宮方武士に令旨を発し、指揮していたと思われる。
 護良親王と正成の連携が千早城の攻防を支え、後醍醐帝の隠岐脱出を成功に導いたのである。
 元弘3年(1333)6月、建武の新政が始まると、護良親王は自ら望み征夷大将軍に、尊氏は鎮守府将軍に任命されるが、長くは続かなかった。
 後醍醐帝、護良親王、足利尊氏、三人の確執の結果、その年の8月末、もしくは9月初めのころには護良親王は征夷大将軍を解任される。
 後醍醐帝は、当初、尊氏の野心を牽制する意味から護良親王の取り込みを図ったと思われるが、尊氏襲撃未発事件の証拠を基に、阿野廉子を取り込んだ尊氏の執拗な護良処分の訴えに、尊氏と妥協を図り、結果として護良親王を切ることになる。
 討幕の過程で配下になった武士や寺社勢力下の僧兵、修験者を背景に武家政治構想を持つ護良親王と、いかなる武家政治も認めず、公家一統の政治を目指す後醍醐帝の間には、もともと相容れないものがあったのだろう。

 しかし、この逮捕劇でも、正成の存在が浮かび上がる。
 建武元年(1334)10月、正成は北条の残党を飯盛山に攻めるため京を不在にしていた。後醍醐帝、尊氏の二人は、この正成不在の間隙を縫うように、護良親王の逮捕に踏み切る。護良親王が頼りとする正成の不在を狙ったことは明らかで、滝覚坊あての書状と言い、正成の苦悩、そして大きな存在が見て取れる。
 逮捕後、鎌倉・東光寺の石牢に幽閉されること9カ月、建武2年(1335)、中先代の乱の混乱に乗じ、足利直義の命によって殺害される。正行同様、波乱にとんだ短い人生を閉じる。
 五條市大塔町は、般若寺から熊野、十津川に難を逃れた護良親王が約半年の間逗留したと伝わる町。護良親王を助けた史実を郷土の誉れとするこの地は、明治22年、村名を『大塔村』とするが、「だいとうむら」では恐れ多いと、読みを『おおとうむら』としたと伝わる。

熾烈な権力闘争を繰り広げた後醍醐・護良・尊氏

 この頃の情勢から判断すると、後醍醐天皇、大塔の宮護良親王、足利尊氏の三者による熾烈な権力闘争が起こっており、その中で、護良親王に誼を通じ、帝を支える立場で、武士として武家の棟梁を任じる立場にあった足利尊氏を一定評価していた楠木正成は、三者の対立を解消し、建武政権の存続に向けてどのような解決策があるのか、悶々とした日々が続いていたと思われる。
 この事情を読み取ることのできる唯一の史料が、以下の滝覚坊あて書状である
 元弘三年((みずのと)(とり))十月と言えば、建武政権が誕生して間もなくであり、この一年後に護良親王は幽閉され、そして、その翌年中先代の乱の混乱に乗じて殺害される。

河内国観心寺の滝覚坊に送った正成自筆書状
此之間何等事候乎、抑為御祈祷観心寺大師御作不動可奉渡之由、被下綸旨候之間、申遣寺僧方候、明後日廿八日御京着候之様、可被奉渡候也、御共ニ御上洛候べく候、心事期面候、恐々謹言
   癸酉(元弘三年)十月廿六日
                                正成(花押)
 滝覚御坊

(読み下し)
 此の間何等ノ事候カ、ソモソモ御祈祷ノ為、観心寺ノ大師御作ノ不動、奉渡サルベキノ由、綸旨下サレ候ノ間、寺僧方ニ申シ遣ハサレ候、明後日廿八日御京ニ着キ候ノ様、奉渡セラルベク候ナリ、御共ニ御上洛候べく候、心事面ヲ期シテ候、恐々謹言

(要約)
 河内の国の観心寺には弘法大師作と伝えられる不動明王像が存する。
 それを十月二十八日までに京都に着くようにしてもらいたい。
 宮中の真言院に安置して祈祷を行うためである。
 観心寺の滝覚坊氏もご一緒に京都に上ってもらいたい。
 正成も心に思うことあり、ぜひ滝覚坊氏にお目にかかったうえで、申し上げたいと思っております。
 ~ 天下国家の行く末を見通し、意を尽くそうとしていた正成の姿。
   息子を斬り、吉野に沈んでしまった後醍醐帝。性急のあまり、身を滅ぼした護
   良。
   幕府を開いたものの、後醍醐帝の呪縛が解けず、身内の抗争が絶えなかった尊
   氏。
 帰路、眼下に広がる比叡山ドライブウエイからの雄大な琵琶湖の景色を堪能しながら、高速道路を一路四條畷へと向かいました。

 以下に、今回のアンケートからいくつか紹介します。
*この講座、調べていないと知り得ないことを知ることがたくさんあった。
*護良親王の碑、こんなところにという感じでした。
*正成公の行動範囲と戦の仕方、戦術の豊富さに驚く。
*護良親王と大楠公戦陣跡、よく見つけて案内してくださいました。やぶさめの道を歩いたことも、御手洗団子、氷室の氷もおいしく、白い萩も咲いていて、すべて良かったです。
*今回のツアーは私にとって初めての訪問先で、楠正行の関係性について知識を得ることができました。
*下鴨神社、一乗寺下がり松の大楠公戦陣跡、鴨川を挟んで戦があったことは太平記で知っていましたが、観光で行っておれば、大楠公のことなど思い浮かびませんでした。
*延暦寺の西塔の公開中を見学でき幸せでした。私も少しでも一日笑顔で過ごせるように心がけるつもりでいます。
*一乗寺下がり勝は、
2回ほど近くを歩いたことはあったけど、まさかこんなところがあったのはびっくりしました。やはり教えていただきありがとうございました。

                  第5回の1012
              天竜寺、等持院、東寺を訪れます
 次回1012日の第5回は、天竜寺、等持院、東寺を訪ねます。
 いよいよこの旅も最後です。雄大な天竜寺の構えと庭を堪能し、足利家ゆかりの寺院に触れ、南北朝期、京都市街戦の中心となった東寺を訪れます。(扇谷記)

                                    以上





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