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             市民教養大学
          
  (全5回)


第2回 市民教養大学「楠正行研究」


 「埋もれていた正行像賛 発見の感動物語!!」

日時:平成27年12月8日 午後1時30分〜3時
場所:四條畷市立教育文化センター2階ホール
講師:扇谷昭
   (元・四條畷市産業振興アドバイザー 現・四條畷楠正行の会代表)


〈講義に入る前に〉
「楠」か「楠木」か、いずれが正しいのか?
 冒頭、アンケートに書かれていた質問に、扇谷がお答えしました。
 史料としての家系図も定かでない、正成の生年月日もはっきりしない、その出自すらが確たる史料に基づいて特定できない、この一族の悲哀を感じざるを得ません。
 さまざまな文献等でも、「楠」と「楠木」が混在しているのが実情です。
 私は、正成は「楠木」、正行は「楠」に統一しています。
 親子で姓が変わるというのもおかしなことですが、四條畷市教育委員会の解釈をもとにしたものです。最たる拠り所は、小楠公墓所の石碑に刻まれた大久保利通の「贈従三位楠正行朝臣之墓」に従ったものです。
 ちなみに、正成公を祀る湊川神社や一族の産土神社の建水分神社では「楠木」が使われています。湊川神社に置かれている「楠木同族会」も「楠木」を使っています。一方、田中俊資が執筆した全五巻本(評伝社刊)は、「楠正行」を使っています。
 更に、現存史料として建水分神社の扁額の裏書に正行の直筆文字が残っています。ここには「左衛門少尉橘正行」と、橘姓が記されています。


「四條畷市」か、「四条畷市」か?
 正式な自治体名は、「四條畷市」です。
 但し、JR西日本学研都市線の駅名は「四条畷」となっています。
 このことが混乱に拍車をかけています。そして、数年前までは、大阪府は「四条畷」を使っていました。国、四條畷では「四條畷」が使われ、大阪府は「四条畷」を使っていたのです。ですから、大阪府関係の施設は、例えば「四条畷警察」「四条畷保健所」となっていました。
 長年混在してきましたが、これは、四條畷が大阪府を通じて国に自治体名を申請した折に、なぜか誤って、大阪府では「四条畷」で受理され、国では「四條畷」で受理された、という手続きミスによるものです。
 四條畷市から大阪府に訂正を申し入れ、現在では、大阪府の関係施設もすべて「四條畷」に統一されました。
 しかし、この混在は長く市民生活に定着してきたことから、今も、市内外で誤って「四条畷」と使われることが多々あります。そしてJRの「四条畷駅」が拍車をかけています。因みに、JRの駅名は、市名に由来するものではなく、歴史的な地名に由来するもので、かつてこの辺りを“四条縄手”“四条畷”と呼んだことからつけられたものです。

 「楠」か「楠木」か、「四條畷」か「四条畷」か、名前そのものが持つ不確実性に、正行と四條畷市に相通じる因縁を感じるのは私一人でしょうか、と語りかけました。

〈講義の概要〉
神戸湊川の「嗚呼忠臣楠子之墓」に秘められた思い
 
碑銘の8文字は、孔子が呉の季札の墓に刻んだ文字「嗚呼有呉延陵季子之墓」に倣ったもので、光圀は「忠臣」の二文字、そして「楠子」という尊称を使い、光圀が楠公の徳を最大限著した思いを伝えています。
 そしてまた、墓石ですが、最上段の碑石は、大阪、和泉の産、贔屓(亀に似た架空の生物)という伝説上の生物を使った亀趺(きふ)は、京都、白川の産、中壇・下壇は、兵庫、御影の産、と楠木正成がその歴史を刻んだ地、一生を著したものと伝わっており、徳川光圀の当時正成に寄せた思いの大きさをうかがうことができます。

武家政権を天皇制に組み入れる論理の構築 
 慈円は、その著「愚管抄」で、朝廷と鎌倉幕府の関係悪化を修復する手法として、源平両氏を「朝家のかため」「守り」として位置付ける、いわば貴族政治から武家政治への移行期にあって、武家政権を天皇制に組み入れる論理を構築したといわれています。 そして、源平両氏が交替で覇権を握るという認識は平安末期に形成され、そのことを図式化したのが「平家物語」と云われています。
 14世紀の半ばごろに書かれたといわれる「太平記」は、社会や政治に対する鋭い批判・批評を加え、しばしば「史記」を引用して歴史の動きを意味づけ、政治を論じることで、更に強固な源平交代の物語を完成させることになります。

徳川幕藩体制の秘事
 徳川家康は、三河の国岡崎の松平家に生まれ、永禄元年、松平元康と名乗り、永禄6年、松平家康と改名します。
 しかし、永禄9年、朝廷から従五位下三河の守に叙任され、松平から徳川に改姓をしているのです。
 征夷大将軍を望んだ家康は、今まで藤原氏を名乗って来たが、実は、源氏嫡流の足利、新田二流であると、朝廷に系図を提出しているのです。
 これは、足利家の流れをくむ吉良家から系図を譲り受け、この系図によって、天皇に忠孝をつくす新田流徳川氏の由緒が確定したのです。だから、徳川家康は、将軍就任当時、朝廷では”新田殿”と呼ばれていました。
 徳川家康は、源氏―新田氏家康誕生を機に、武家社会のトップとして天皇に奉公する図式を完成させたのです。
 だから、江戸幕藩体制は、そのスタート時点から、頂点としての権威を天皇にとってかわられる危険性をはらんだものでした。
 ここに、徳川光圀に代表される尊王の事績が許容されるバックボーンが出来上がっていたといえます。

楠大石に化する図
 寛政9年1797、滝沢馬琴の書いた「楠正成軍慮知恵輪」の挿画に、菊水の旗を持つ正成が、火事装束の大石内蔵助に化した図があります。
 忠臣=正成が直ちにイメージされた当時の一つの証左で、足利一門につながる吉良上野介への復讐を企てた大石内蔵助の念頭に、忠臣正成のイメージがあったものと思われます。
  そして、この赤穂藩には「楠正成一巻書」を著した楠流兵法者・山鹿素行が一時お預けの身になっており、浅野内巧守も大石内蔵助も山鹿素行の教えを請うたようで、大石内蔵助と忠臣正成のイメージががダブル条件は整っていたものと思われます。

徳川光圀、大日本史編纂の目的と建墓の思い
 徳川光圀は、自ら生前に建立した墓“梅里先生之墓”の碑陰に、「皇統を正閏し、人臣を是非し、輯めて一家の言を成す”と記しており、当時の史書には誤り伝えられている天皇の系統を正しく直すとともに、過去の忠臣や婦人などについての誤謬を訂正する意図があったことが分かります。
  人臣の是非を明らかにする一つの行動として、正成の覚悟の戦死に、徳川光圀が「大義の正道」を見て、「嗚呼忠臣楠子之墓」を建立したことが読み取れます。
  大日本史編纂を通じて、南朝正統の信念を固めた徳川光圀は、南朝のために生涯を捧げた楠木正成の顕彰を考えたことでしょう。
  そして、この時期、太平記そして太平記読みの流行、加賀藩・水戸藩に連なる儒臣ネットワークの存在、そして貝原益軒、安東省菴、朱舜水らとかかわりを持った佐々宗淳の報告、これらが後押しをして建墓に至ったものと思われます。

 次回の第3回は、講師、扇谷が朱舜水の正行賛文を発見した感動の物語です。
  今年3月でしたが、国立国会図書館関西館で原典に接し、朱舜水の正行公賛を目にした時の興奮と感動は忘れようがありません。


↓第2回講義の様子

受付風景
      ↑開講1時間近くも前から始まる受付風景

ほぼ全員が参加して講義開始
      ↑第2回もほぼ全員が出席して講義開始

講師の話を熱心に聞き入る受講生
       ↑講師の話を熱心に聞き入る受講生


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