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高齢者・子どもたちの笑顔あふれる街 四條畷市立教育文化センターは

四條畷市立教育文化センター
お問い合わせはTEL.072-878-0020

〒575-0021 大阪府四條畷市南野5丁目2-16
 

過去のイベント紹介

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令和3年① 令和3年② 令和4年①          

令和3年度 開催のイベント



四條畷楠正行の会・創立8周年記念企画


公開講座「楠正行の生涯を学ぶ」


9
/14日スタート 全10回シリーズ 第1回
 

日時 令和3年9月14日(火) 
場所 教育文化センター 2階 ホール・会議室1


●四條畷楠正行の会・創立8周年企画公開講座が始まりました。

 コロナ禍対策もあり、他の教育文化センター使用クラブのご理解・ご協力を得て、会場を狭い会議室から広いホールに変更して開講しました。
 913日までの申し込みが6人でしたので、上々と思って教育文化センターにつきますと、「扇谷さん。今日も、午前中に申し込みがありました。」と教育文化センター・奥田所長にいわれ、「それは、嬉しい!」と2階ホールに上がり受付が始まりますと、会員の友人など公開講座の受講生は11名となり、準備した資料が足りなくなる状態で始まりました。
 四條畷市内からの方が7名、大阪市内1名、岸和田市内1名、そして生駒市内2名と、雨にもかかわらず、遠方からの参加者を得ることができました。ご出席ありがとうございました。
 ホールの窓も開け放し、換気に十分配慮しながら、長机に二人座っていただくなど、感染対策を万全に開講しました。


        受講の様子 

楠正行通信 第134914日発行
 
 ・大阪電気通信大学との産学連携事業第5弾
 ・正行ゲームは、協力型と対戦型の二つ
 ・5ジャンル8つのゲーム制作が順調に進んでいます。
 
公開講座「楠正行の生涯を学ぶ」
 

 第1回 正行の幼年時代
 以下、この日、扇谷が講義でスクリーンに投影しましたパワーポイントデータの一部を掲載します。
 正行幼年時代の史料はほぼ皆無といっても過言ではないでしょう。
 第1回「正行の幼年時代」は、正行誕生後、11歳までの間、父・正成のどのような姿を見て育ったのかという観点から検証しました。
 父、正成が後醍醐天皇と歴史的な出会いをし、その後、鎌倉幕府を倒し、建武の新政に参画し、最後湊川に散るまでの間は、たった6年間です。
 正行は6歳から11歳の時、父の活躍する姿を見ていました。







予告❣
 1012日の第2回は、正行11歳から13歳、第1期戦乱の時代です。
 楠氏の頭領になった正行は表舞台に登場しませんが、この頃の軍忠状の記録から楠氏の戦いぶりを見ていきます。

次回例会

 日時 1012日(火)、1330分~1500分
 場所 四條畷市立教育文化センター2階・ホール
 内容 公開講座第2回 正行不在・第1期戦乱の時代

 公開講座は事前申し込み制です。ぜひ、お申し込みください。
 詳しくは正行通信132号をご覧ください。

傍聴、入会大歓迎!
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターの2階を覗いてください。お待ちしております。


正行通信 第134号はコチラからも(PDF)




四條畷楠正行の会 8月の例会はお休みします。


 数年前から、8月の例会は酷暑を避けて休会することにしています。
 大阪府は緊急事態宣言下ですが、コロナ患者数は増加傾向が顕著で、第5波は今までにない医療ひっ迫が予想されます。対策は一つです。マスクの着用や消毒、不要不急の外出自粛等、一人一人が何よりも感染対策に努めることが求められています。

8回楠正行シンポジウムで谷口智則さんに描いていただいた楠正行の絵は、86日、四條畷市市民総合センター1階ロビーに掲示されました!
 

 3月から延期していました第8回楠正行シンポジウムは710日(土)、無事開催しました。ご協力ありがとうございました。
 当日150号キャンパスに描かれました楠正行の絵は、飯盛山を背景に朝日を浴びて、白馬にまたがった楠正行が明日を見つめて前に進む雄姿が描かれました。市民総合センターを訪れていただきますと、玄関入ってすぐ左側の壁面に掲示されています。ぜひ、ご覧ください。

楠正行通信 第132810日発行

 9月、公開講座「楠正行の生涯を学ぶ」を開講します
  ・己を空しうして生きる究極の美学の持ち主
  ・お陰様で四條畷楠正行の会発足8周年を迎えました

楠正行通信 第133810日発行

 ・谷口智則さん作・ライブペインティング「楠正行」
  ・86日、市民照合センター1階ロビーに掲示

次回例会

 日時 914日(火)、1330分~15時00分
  場所 四條畷市立教育文化センター2階・会議室

  内容 公開講座第1回 正行の幼年時代
   公開講座は事前申し込み制です。ぜひ、お申し込みください。
     詳しくは正行通信132号をご覧ください。

傍聴、入会大歓迎!

 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学 びませんか。
  例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
  お気軽に、教育文化センターの2階を覗いてください。お待ちしております。

正行通信 第132号はコチラからも(PDF)

正行通信 第133号はコチラからも(PDF)



四條畷 楠正行の会 第71回例会 

日時 令和3年7月13日(火) 午後1時30分より3時
場所 教育文化センター 2階 会議室1

●扇谷、講談調第4弾!講談「楠正行」で講談シリーズ完結!             この日は1部「講談楠正行」、2部「宝塚桜嵐記告知S放送DVD上映会」の2本立てを楽しみました。
 講談「くすのきまさつら」は、扇谷が文芸社から発刊した小説「楠正行」を原作に、扇谷が脚本を書いたものです。
 講談シリーズを4回続けてきましたが、今回の楠正行で一応の終了です。
 来月の8月はお休みして、9月から、公開講座「楠正行の生涯を学ぶ」10回シリーズで、楠正行について、最初からおさらいをします。郷土の歴史や四條畷神社、小楠公墓所などにご関心のある方はぜひご参加ください。丁寧に分かりやすく解説・勉強します。
 また、DVD上映は、宝塚「桜嵐記」CS放送・プレステージで30分番組に解説として登場した扇谷をはじめ、湊川神社鈴木さん、建水分神社岡山禰宜、如意輪寺加島副住職も登場、30分の放送番組の視聴で楽しみました。
 ナビゲーターの正成役と正行役の宝塚スター二人の案内で、正行ゆかりの地を訪ね、扇谷は「桜井の駅」「竹内峠」そして「渡辺橋」を解説しました。
 宝塚フアンならずとも、桜嵐記の正行と弁の内侍の恋物語を観劇したいと思う素晴らしい出来上がりとなっています。特にナビゲーター二人のトークが楠ワールドに知らず知らずのうちに誘導してくれます。
 上映後、このDVDの試写会を一般の方に開放して実施してはどうかとの意見が出ました。検討します。

710日、第8回楠正行シンポジウム「ライブペインティング楠正行」は子どもたちに大いに喜んでもらいました!

 昨年3月開催予定の第8回楠正行シンポジウム・絵本作家谷口智則さんによる「ライブペインティング楠正行」を、710日(土)、市民総合センターの市民ホール(712席)に会場を移して、約80名の市民等を集めて開催しました。
 楠正行のオリジナル・四條畷の楠正行肖像画が誕生しました。
 白馬にまたがった楠正行が、敵の放った矢をもろともせず、飯盛山を恥池に朝日を浴びて、視線は未来一転を見据える勇士として描かれています。
 この肖像画は、四條畷市と協議の上、適切な施設に掲示予定です。
 乞う、ご期待ください。
※詳細は楠正行通信131号に掲載

フォトニュース・第8回楠正行シンポジウム「ライブペインティング楠正行」
 ご来場いただきました皆さん、ありがとうございました。
 当日の様子をフォトニュースでお届けします。


↑当日の会場となった市民総合センター玄関の様子

↑市民総合センター内、市民ホール入り口の様子

↑開会挨拶をする扇谷代表

↑来賓代表挨拶をする林副市長

↑第1部、論文表彰式で扇谷代表から3人の受賞者に賞金・記念品
 を授与

↑向かって左から、広木氏、藤岡氏、西村氏、3人の受賞者

↑第2部 谷口智則さんによるライブペインティング「楠正行」が
 始まりました

↑まず白馬が登場し、馬上の楠正行が描かれます

↑馬上の楠正行像、ほぼ完成です

↑四條畷の楠正行、完成です。谷口さんに扇谷代表から
 インタビューをしました

↑完成した楠正行について、会場の子どもたちに向けて谷口さん
 からのメッセージを語っていただきました

↑会場に集まった子どもたちと谷口さんの記念撮影の瞬間です

↑第8回楠正行シンポジウムは、真木副代表の挨拶で閉会しました

楠正行通信 第131号 713日発行
 7/10 延期に延期を重ねた第8回楠正行シンポジウム晴れて開催
 ・谷口智則さんによる「白馬にまたがる楠正行像」150号キャンパス、完成!
 ・市民総合センター市民ホールに80名を迎えて

1部 講談「楠正行」/脚本公開しています。後段をスクロールしてください。
2部 宝塚桜嵐記CS放送プレステージ~歴史のトビラをたたく~ DVD上映会


報告
 ① 電通大・社会プロジェクト実習「畷の歴史・文化をゲームに 第2弾!」
   73日(土)、現地学習会を実施
 
 ② 四條畷楠正行の会・創立8周年記念企画



公開講座「楠正行の生涯を学ぶ  全10回シリーズ 

【開催の目的】
 四條畷楠正行の会は、平成26年発足以来、楠正行について学び、顕彰し、後世に長く広く語り継ぐ目的で活動しています。この度、創立8周年記念企画として、公開講座・10回シリーズ「楠正行の生涯を学ぶ」を開講します。
 この公開講座を通じて、この間、明らかになって来た楠正行の様々な事績や実像を学び、人間・楠正行像を再確認する学びの場にしたいと思います。
 会員に加えて、公開講座として実施し、広く市民に参加を呼びかけます。

【開催日時】
 令和39月~令和46月 該当月の第2火曜日 午後130分~3時の90
 但し、現地学習のみ午後1時~午後4時(教文集合・現地解散の予定)

【開催場所】
  四條畷市立教育文化センター 2階 会議室

【講師】 扇谷 昭(四條畷 楠正行の会代表)

【講座カリキュラム】

 

日 時

タイトル

主な事績

    

914日(火)

正行の幼年時代

正成の千早攻防戦、建武の新政、法華経奥書、桜井決別、湊川の戦 011

    

1012日(火)

1期戦乱の時代

足利との攻防~河内天野の合戦、後醍醐天皇吉野潜幸、北畠親房の東航作戦 1113

    

119日(火)

河内東条、平和の時代

建水分神社に扁額奉納、藤氏一揆の誘い、北畠親房の吉野帰還、正行の発した国宣 1321

    

1214日(火)

2期戦乱の時代

隅田城の戦い・藤井寺合戦・住吉天王寺合戦、渡辺橋の美談、吉野詣で・後村上天皇との別れ 22

    

111日(火)

四條畷の合戦

正平315日・6時間の激闘、5期の衝突、残る字地「古戦田」「ハラキリ」、正儀の時代 23

    

28日(火)

現地学習

四條畷神社・小楠公墓所・和田賢秀墓

    

38日(火)

江戸期の正行

狩野探幽画桜井決別図・朱舜水の楠正行像賛、高山右近日本訣別の書、太平記読みと楠氏、楠一巻書、貝原益軒の南遊紀行

    

412日(火)

近代の正行

小楠公墓所の拡幅・改修、従二位追贈、四條畷神社創建、逆菊水家紋入り瓦、四條畷中学校の創立、四條畷村の誕生

    

510日(火)

現代の正行

子供向け副読本発刊、小楠公像、観光可視化戦略、NHK大河ドラマ誘致活動、宝塚桜嵐記

    

614日(火)

私と正行

感想文の発表

定員】
 10名/窓口&電話で受け付け・申し込み先着順
 氏名・住所・年齢・電話番号をお伝えください。

【申込】
 四條畷市立教育文化センター
 〒575-0021 四條畷市南野5丁目216
  ☏ 072-878-0020
 又は 扇谷のメール・電話 090-3034-8288   a-oogitani@syd.odn.ne.jp

参加費】
 300円/各回、教室受付で徴収します。
 別途 資料代実費負担 「小楠公」第1号 ¥300

【主催】
 四條畷楠正行の会
【後援】
 四條畷市立教育文化センター 指定管理者・阪奈エンタープライズ㈱



講談「楠正行」

原作 扇谷「楠正行」文芸社
脚本 扇谷
講談 扇谷

― 序章
「正時はいるか。」
「兄上。正時は、ここに。」
「師直の首を挙げるか、我らが首を獲られるか。
二つに一つの戦いであったが、もはやこれまでか・・・。」
「兄上。正時は、兄上とともに、吉野朝復権という義の戦いに生きることができ、本望です。」「正時。よくぞ申した。今までこの兄についてきてくれた。礼を言うぞ。
しかし、いよいよ最期のときを迎えたようだ。河内東条に生まれ育ち、文武に励んだ日々が走馬灯のように浮かんでくる。
…正時、さらばじゃ。」
「兄上。正時も共に・・・。」
今から六百七十数年前の正平3年、1348年、15日、正行、正時は四條畷の地で最期を迎えた。正行、享年、23歳であった。

― 桜井の別れ

 皆さん。ようこそ、講談「楠正行」にお越しくださいました。
 楠正成の嫡男、正行は、23歳の若さで四條畷の合戦に散り、弟、正時と相刺し違えて討ち死にしました。
 今、四條畷雁屋の小楠公墓所に眠り、四條畷神社に祀られています。
 しかし、その生涯や人間像は意外と知られていません。
 本日は、私が、平成28年に文芸社から出版しました小説「楠正行」を原作に、講談「楠正行」として脚本化してお届けを致します。
 さあ、講談「楠正行」をお楽しみください。

 さて、時は、遡って延元元年、13365月、桜井の駅、楠正行が歴史の表舞台に登場したときに戻ります。
 ここは河内国、千早赤阪村は河内東条の楠館。
父、正成の湊川下向に合流する正行と、母、久子の会話の件です。

 「多聞丸。此度(こたび)の戦は父上にとって、朝廷への献策を退けられ、覚悟の出陣と存じます。父上に会うたら、存念を承り、父上の命に従うのですよ。」
 「母上。多聞丸は、楠家の嫡男として父上とともに、見事その務めを果たしてまいります。
 そして、必ずや帝に敵する足利尊氏殿を討ち取ってまいります。ご安心下さい。」
 「しかし、そなたはまだまだ武芸においては未熟なのです
母は、心配でなりません。」
 「母上、多聞丸も十一歳になりました。
初陣こそまだですが、武芸にもいささかの鍛錬を重ね、今では、水分の地で、私の右に出るものはおりません。どうぞ、ご安心下さい。」
 「分かりました。母は観心寺にこもり、父上とそなたの武運を祈ります。
 決して、その命を粗末にしてはいけませんよ。」

 舞台は移って、西国街道は摂津国の桜井の駅。
 正行は、櫻井の駅で、父、正成の軍と合流すると、初めての戦いを前に、身震いを抑えながら、戦の準備に従っていました。
 正成の本陣に呼び出された正行は、父、正成と対面します。

 「多聞丸、そちは何歳になった。」
 「はい。多聞丸は、十一歳になりました。」

 「そうであったか。父は、後醍醐帝の(まつりごと)に参画し、(みかど)を奉り新しい国づくりを目指してまいった。しかし、帝の政への武士の不満は募るばかりで、此度、足利殿を迎え撃つべく湊川へ下る仕儀と相成った。
 新しい国づくりに、公家の理解を得ることは至難であった。父が予想した如く尊氏殿の東上が現実のこととなり、兵庫に赴くこととなった。
 今、天下の形勢は、帝の政にはあらず、武家の頭領・足利殿にあることは明白である。
 父は、此度の戦を最期の戦と考え、自らの『死』を持って、自らが正しいと信じた義の道を貫き通す覚悟である。」
 「父上、私もぜひ此度の戦にお加え下さい。」
 「多聞丸。本日、ただ今より名を改めよ。正行と名乗るが良い。正しく生きるの意ぞ、良いな。」
 「ありがとうございます。多聞丸、本日、ただ今より、正行と名を改めます。」
 「正行、ここからが肝心の話だ。しっかり聞くが良い。
 獅子は子を産んで三日たつと、その子を数千丈の断崖から投げ捨てるといわれている。その子に獅子としての器量が備わっておれば、何も教えなくとも宙返りをして、死ぬことはないそうな。
 正行、良いか。そちは既に十一歳になった。
 父の話が分からぬはずはないな。」
 「はい。」
 「では、これから述べる父の教訓に決してそむくではないぞ。
事ここに及んでは、此度の戦は宮方と武家方の天下分け目の一戦になることは必定。この世で、そなたの顔を見るのもこれが最後と思う。」
 「父上の死なぞ、考えることが出来ません。父上が討死覚悟といわれるなら、私もいっしょに戦いとうございます。」
 「いや、それはならん。
 よいか。此度の戦で父が討死となれば、天下は、足利尊氏殿のものとなることは間違いない。だが、ここが肝心ぞ。足利尊氏殿の天下になっても、決して、楠家が仕えてきた帝への忠節を忘れて、足利尊氏殿に降参することがあってはならん。
 何よりも大切なことは、義に生きることぞ。
 良いか、正行。
 わが楠一族や若い家来衆の一人でも生き残っておれば、父が地の利と頼んだ金剛山中に籠もり、敵が攻め寄せてきたならば、命を懸けて戦い、帝に忠節を尽くすのだ。これが、そなたの行う第一に孝行と心得よ。良いな。」
 「父上とともに、との覚悟で参りましたが、分かりました。
 正行は河内に戻ります。」
 「正行、良くぞ申した。
 この短刀は、後醍醐帝よりお召しがあり、父が笠置に参上した折、帝から賜った銀鞘龍紋の名刀である。この短刀を、父の形見としてそちに授ける。
 さあ、受け取るが良い。」
 「はい。」
 「恩智左近。良くぞ、今まで、この正行を引き立て、補佐してくれた。この正成、改めて礼を申す。
 さて、正行を河内に返す。わしは七百騎を率い兵庫に向う。正行には、二千二百の兵をつける。ついては、そちにその供を命じる。良いな。」
 「お館様の目指された戦いは、此度が最後ではなく、まだまだこれからも続くということですね。分かりました。左近、正行様のお供をさせていただきます。
 そして、正行様をお助け申し、必ずや立派な楠の頭領にお育て申し上げます。どうぞ、ご安心くだされ。」
 「正行、直ちに出立の準備を整え、左近とともに発て。」
 「はい、父上。ご武運をお祈りいたします。」

― 父、正成の首級届く

 湊川の戦後の数日たったある日、ここは、楠氏の菩提寺、河内長野の観心寺中院。
 「正行様。ただ今、本坊に足利尊氏殿からの使いの者が参った、との知らせです。」
 「なに、足利殿の・・・。」
 「正行様に、直接お目にかかりたいとのこと。」
 「分かった。すぐ、参る。」

 正行が、本坊の勅使門に行くと、そこには変わり果てた父、正成の首級が置かれていた。
 母、久子も、呆然と立ち尽くしていた。
 正行は、今も、あのとき、桜井の駅での父の姿を忘れることは出来ない。櫻井の駅で別れたときの姿とは、似ても似つかぬ姿で、凛とした態度で遺訓を残された姿とは、全く別人であった。
 さぞ、ご無念であられたことか・・・。
 正行は、父の変わり果てた姿を見た瞬間、櫻井の駅で賜った遺訓を忘れてしまい、湊川に供しなかったことを悔い、とっさに中院の持仏堂に駆け込んだ。
 何も考えることはなかった。父の後を追わねば・・・。
 との思い一心で、櫻井の駅で父から賜った短刀を右手に抜き持ち、腹を切ろうとした、まさにその時、母、久子があわてて部屋に入ってきたのである。
 正行殿。一体、なにを血迷われたのですか。」

 「母上、お許し下さい。正行は父上のお供を(つかまつ)りとうございます。」
 「切腹など、なりませぬ。そなたは、もう十分道理が分かるはずです。櫻井の駅で、もし、父に万一のことがあれば、後を追え、とおっしゃったのですか。
 そうではありますまい。そなたは河内に戻り、一族を養い、束ね、必ずや再び合戦に及び、敵方・足利尊氏を滅ぼし、帝に安寧をもたらすことが勤め、と仰せのはず。
 そなたは、父上の遺訓を直接聞き、理解し、私にその旨教えてくれたではないですか。忘れてしまったのですか。」
 「母上・・・。」
 「正行殿。今、父上の後を追うことはたやすいことでしょう。かえって、父の遺訓を守ることのほうが苦難の道となるはずです。
 しかし、その苦難の道を進むことこそ、楠の嫡男としてのそなたの務めですぞ。
 分かりますか。しっかりしなされ。」
 「母上。お許し下さい。正行が間違っておりました・・・。」
 と、正行は、その場に泣き崩れてしまったのであります。
 母も、その正行に覆いかぶさるように泣き崩れていたのであります。

 この時の正行の心の動揺は、正行の人生最大のものであったと思われます。
 ― 父上、私は大きな間違いを起こすところでした。櫻井の駅で賜った遺訓の本当の意味を分かっていませんでした。お許し下さい。
 父上。私は、もう、今後一切涙しません。
 先ずは守りを固め、力をつけ、帝の安寧と父上の目指された新しい政治、義の戦いのため、心を鬼にして、これから生きてまいります。
 正行の、この後の人生を生きる覚悟の決まった瞬間でもありました。

― 吉野警護の日々始まる

 さて、湊川の戦のあった延元元年、1336年の12月、幽閉されていた花山院から吉野山に入った後醍醐帝は、吉水院を行在所とされ、蔵王堂南方に吉野の宮を置かれ、ここで執務を執られたのであります。
 世にいう南北朝時代の始まりであります。
 正行は、攻め来る足利軍と対峙するため、河内と吉野を結ぶ交通の要衝である紀見峠や大沢峠を背後から脅かす敵方の宮里城の攻略に重きを置き、大塚惟正を大将に岸和田治氏ら一党諸将を配しました。
 また、河内と京都を結ぶ位置にある八尾城、丹下城の攻略については、楠党の北軍、橋本正茂を大将に高木遠盛らを充てました。
 そして、正行のもう一つ大きな任務であった吉野の警護は、楠正家、恩地左近ら楠党の本隊で担うこととしたのであります。
 
 「吉野出仕の命が今朝ほど届いた。先ずは、正行自身が吉野に参上し、ご安心いただくことが何よりと考える。
 明日、早朝に出立しようと思うが、正時、同道するか。」
 「兄上、足利方の動きが気になります。此度は、正時、東条に残ります。」
 「正時、残ってくれるか。」
 「はい。」
 「此度、東条には正家殿も残し、恩智左近殿にも詰めてもらうとしよう。
 正時、留守を頼むぞ。
 行忠と正信は連れて行くとして、新発意、いや賢秀であったな。賢秀も連れて行くこととしよう。約束だからな。」
 「では、明朝出立のこと、伝えてまいります。」
 「正時、頼む。」
 正行の吉野警護の日々は、このように始まったのであります。

― 官途に就き、建水分神社に扁額奉納

 延元元年から延元31338年まで続く、正行第一期戦乱の時代、正行が登場する史料はほとんど残っていません。
 しかし、和田文書として残る数多くの軍忠状を繙くことで、湊川の戦後押し寄せた足利勢を、この間、岸和田一党や高木遠盛らの活躍で押し返したことが分かります。
 この頃、正行、正時や賢秀らは、戦線に出ることなく、河内東条で武術に励んでいたものと思われます。
 さて、興国元年134015歳になった正行は、後村上帝から「左衛門少尉」「検非違使」を仰せつかり、「河内守」に任じられ、正式に官途につくこととなりました。
 
 吉野を訪れた正行は、吉野朝廷で最も信頼する四条隆資卿を訪ねました。
 「正行殿、此度の左衛門少尉、検非違使のお役目、よろしくお願いします。
 帝が頼りにされるは、正行殿が率いられる楠・和田の武士団であり、正行殿には大きな期待をかけておられます。」

「四条隆資様.
 この正行は、願わくば京との和睦によって吉野の宮の復権がなれば、と思っております。しかし、京都の朝廷は形ばかりのことで、実質は、足利殿の意のままに動かされているのが実態。あくまでも、足利殿との和睦がなってこそ、京都と吉野の朝廷の統一が可能になるものと存じます。そのためには、吉野の宮に仕える武士団がいかに有利な状況を作り出せるかが肝要と心得ます。」
 「正行殿。今日、吉野の宮がこのように維持できているのは、ひとえに正行殿のお支えがあってのことと感謝しております。」
 「何を、もったいないお言葉。」
「此度のお役目に加え、河内守として帝の政を進めてもらうことになりますが、帝の御ため、忠勤に励んで下さい。」
 「はい。さて、四条隆資様。一つお願いがございます。」
 「正行殿。どのようなことかな。」
 「去る延元の二年、先帝から私ども楠家の産土神社であります建水分神社に正一位を賜り、先帝真筆の『正一位 水分大明神』扁額を賜りました。
 此度、国に戻りましたら、この扁額を建水分神社の鳥居に奉納いたしたく、帝にこの旨、お許しをいただきたいのですが。」
 「正行殿。その旨、私から帝にお願いしましょう。」
 「ありがとうございます。楠一族の産土神社に先帝のご真筆による扁額が奉納されれば、さぞ、領民は喜ぶことでしょう。われら、これからも吉野の宮のために存分に働かせていただきます。」
 「正行殿。今の言葉、帝にお伝えいたしましょう。」
 河内に戻った正行は、この年の四月八日、先帝ご真筆の表面「正一位 水分大明神」扁額の裏に、「延元貮年(ひのと)(うし)四月廿七日被奉授御位記 同五年(かのえ)(たつ)卯月八日 題草創之額 左衛門少尉橘正行」と記し、建水分神社の大鳥居に奉納しました。
 この扁額は木額で、墨書きに漆を施したものですが、風雪に耐え、後世ながく掲げられてほしい、と祈りつつ正行は筆を進めたのであります。
 この木額扁額は、今も、建水分神社の社務所に社宝として保存されています。
 680年を経た今日、扁額裏に残る正行直筆の文字に接するとき、誰しもが感動で身震いを覚えること、間違い有りません。達筆で、熟練された筆跡に、正行の文化素養、教養の高さを肌で感じることができます。
 ぜひ、建水分神社を訪れ、岡山禰宜にお願いして、この扁額を鑑賞してください。突然は駄目ですよ。事前に連絡を入れ、了解をとってくださいよ。

― 足利尊氏と対談

 官途に就いた正行は、いわば河内東条平和の時代、吉野朝廷を支え、宿願成就のため産業を振興し、武力の増強に励んだものと思われます。
 またこの頃、近衛経忠が画策した吉野朝分派行動、藤氏一揆への誘いに困惑したものと想像されます。
 藤氏一揆は、奥州に下った主戦派の北畠親房を追い落とし、和睦派を取りまとめ吉野朝を藤原氏中心に牛耳ろうとするものでしたが、頼りとする奥州の小山一族らが劣勢を強いられる中、この藤氏一揆は近衛経忠の失脚で幕を閉じています。

 さて、藤氏一揆に翻弄されながらも、正行は徐々に力をつけ、実質、吉野朝の主力武将としての地位を固めていきます。
 興国3年、1342年の年が暮れようとする師走のある日、黙庵禅師から使いの者が河内、東条に入りました。
 使いの者の口上によれば、後醍醐帝に仕え、今は、尊氏に近侍する夢窓疎石が、尊氏と正行の接触は事態の打開につながる大きな一歩になると、ひそかに足利尊氏と正行の対談を画策したのであります。
 

「正時、行忠。このことは、我ら三人のみの秘事である。他の誰にもこの事を漏らしてはならん。わしは、黙庵殿のお話を聞きに往生院に参る、ということにして、行忠一人を伴い、明朝に発つこととする。」
 「明朝ですか。それはまた急な…。」
 「まず、いったん往生院に入り、しばらくここにとどまり、夢窓疎石様からのご連絡を待って、京に向かう。京に向かう日は、とんぼ返りで、その日のうちに、河内に取って返すことになると思う。正時。しばらく留守にするが、よいな。頼むぞ。」
 「兄上。分かりました。留守居のことは心配ご無用。
 行忠、兄上が尊氏と会うとなれば、何が起こるやもしれん。くれぐれも頼んだぞ。」
 「はい、正時様。」

 往生院に入った三日後、夢窓疎石から連絡が入り、正行は直ちに京の南禅寺を目指した。
 正行は、南禅寺に着くと、勅使門をくぐり、天下竜門と称される立派な山門をくぐると、人目を避けるように、本坊の一角にしつらえられた書院に通されたのである。
 そこで待つこと半時、
 「お待たせいたしました。」
 と、夢窓疎石と足利尊氏が入室してきた。
 初めて見る尊氏は正面に着座した。
 頭から背後に延びる髪、そして黒々とした口髭とあご髭、全体に大きく広い顔で、太い眉、鼻筋が通り、高い頬骨と、見るものを引き付けるような顔立ちであった。
 「楠殿。よくぞ参られた。予が足利尊氏である。」
 「はじめてお目にかかります。楠正成が嫡男、正行にございます。」
 「正行殿。片ぐるしい挨拶は抜きとしよう。
 予は、父上、正成殿のことをよく覚えておる。そして、何よりも建武の新政を開いた第一の功労者と心得ておる。千早城での戦いがあったればこそ、六波羅を落とし、北条を倒せたものよ。そして、都に入られた武将の中では、正成殿は抜きんでた武将で、いろいろと教えていただいたものよ。」
 「父と尊氏様は、ともに政務をとることはなかったと聞いていますが…。」
 「故あって、予は建武政府の中には入らなんだ。しかし、吉野の先帝にお仕えする身として、父上と親しくさせていただいたものよ。」
 「父も尊氏様を高く評価しておりました。湊川の戦を前に、帝のご政道に異議を唱え、新田殿を切り、尊氏様と和睦をすることが、建武政府の唯一の延命策と、身体を張っての訴えを致しましたが、お聞き入れられず、湊川で尊氏様に敗れたのです。」
 「余は、何度も正成殿に助けられた。叶うことなら、戦いを避け、正成殿と一緒に新しい世を作りたかったものよ。
 湊川で相まみえることとなったが、まことに残念なことであった。」
 「尊氏様。今のお話をお聞きし、父の首級を河内にお戻しくださった思いを知ることができました。」
 「正行殿。頼朝公の開幕以来百五十年、武家政治は庶民の生活に根を下ろし、しっかりとした体制となっておる。力を無くした公家衆が、この体制をもとに戻そうとしても、もはや戻る道理がござらん。
 帝は直接『政』を担うのではなく、武家政治の上に立って、我らの政治を見守ってくだされば、それでよいのよ。
 しかし、帝を担ぎ、権限を持って、政に関わろうとする公家衆がいるから、困ったものよ。
 ・・・のう、正行殿。予に力を貸してはくれまいか…。」
 「尊氏様が描かれる政に異存はございません。この正行も、武家が力を持ってこそ、帝を支える政ができるものと思っております。
 しかし、その際、かつぐ帝は正統な帝でなければなりません。尊氏様は吉野の宮がおわすにもかかわらず、京都に新たに宮を立てられました。私は、吉野の宮が唯一の宮と思っております。」
 「正行殿。予も好き好んで京の宮を立てたのではない。吉野の宮をそのままにして、武家政治を進めることはできなかったのだ。・・・分かってくれ。」
 「父は申しました。天下は尊氏様のものとなると。しかし、その尊氏様に組みしてはならないとも。それは、正統な帝をお守りすることこそ、我ら楠の勤めと心得よ、との仰せと肝に銘じています。
 しかし、父が去って六年の歳月が流れ、河内でも戦乱の時代を乗り越え、今比較的穏やかな平和な暮らしが続いています。父の遺訓はあるものの、ともに武家が中心となる新しい世を認めるのであれば、吉野の宮を支えながら、尊氏様と和睦の道はないものか・・・、と。」
 「正行殿。予とて同じこと。
 ・・・が、吉野の宮を復権となれば、話は変わる。
 吉野の宮の復権では、公家政治への逆戻りとなってしまう。これは断じて容認できない。
 正成殿が身体を張ってなされた献策に耳を傾けることのなかった公家衆。今や、その公家衆の頂点に立つ親房に、建武政府失敗の反省の色はみじんも見えない。
 正行殿。心致されよ。
 正行殿が心血を注がれようとしている吉野の宮の復権だが、親房同様、公家優越、武家蔑視の考えは公家衆の皆が持っておることを。」
 「仰せのことは承知しております。しかし、親房様は身分が高く、天皇親政、それも公家政治に相当の執念をお持ちの方ですから…。」
 「そこよ。一筋縄ではいくまい。
 正行殿が目指す吉野の宮の復権とは、いささか違うと存ずるが…。」
 「尊氏様のお話、肝に銘じておきとうございます。」
 「正行殿。予に、吉野の宮を廃する考えはござらん。が故に、吉野の宮を支えておられる正行殿と誼を通じたいと申しておるのよ。
 今、予と正行殿が手を結べば、戦乱の芽は直ちに摘める。」
 「尊氏様が吉野の宮を廃する考えをお持ちでないこと、そのお気持ちが分かっただけでも、本日、ここに参りました甲斐があったというものです。
 この正行も、できれば戦いを避け、安定した武家政治の樹立と、吉野の宮の復権を成し遂げることができれば、と存じます。」
 「今日初めて会い、手を握ろうとは、あまりにも唐突であった。しかし、さすが、正成殿のご嫡男。これだけのお覚悟を胸に秘め、吉野の宮を支えておる。
 予のもとには、弟の直義、そして執事の高師直の二人の重臣がおる。
 心配は、義詮よ。
 予は、正成殿と手を結べなかったことを悔やんでおる。正行殿が義詮を補佐してくだされば、武家政治は盤石となり、ともに願う『政』ができると存ずるのだが…。」
 「尊氏様といえば、源氏の嫡流。全国の武士が、その頭領と仰がれるお方。一方、楠は田舎河内の土豪上がり。身分に天と地の開きがございます。それを補佐役などと…。」
 「正行殿。なにを卑下なさる。正成殿あって北条幕府を倒せたのであり、正成殿あって建武の新政が開かれたもので、この尊氏は正成殿にあやかって、今日があるのだから・・・。」
 「尊氏様。今はともかく、和睦の条件が整うようであれば、今一度お会いしたいと存じます。」
 「正行殿。約束はできん。しかし、予が正行殿と手を結びたい、また、義詮の補佐役に、と申したは偽りのないこと。
 まずは、奥州を抑え、わが幕府の体制を盤石にしたうえで、正行殿と再び会う機会が生まれるやもしれん。正行殿もしっかりとお勤めを果たされよ。」
 「仰せのとおり。奥州の成り行きが、今後の政に大きく影響することとなるでしょう。正行は、河内にあって、尊氏様との和睦の道、そして吉野の宮の復権の道、この二つの道がうまくできないか、探ってまいります。」
 「今日は、正行殿と語らうことができ、予は満足。
 では、正行殿。予が先にお暇する。くれぐれも気を付けて河内に帰られよ。では、さらばじゃ。」

― 弁の内侍との出会い

 この後、奥州は高師冬の攻勢が強まり、北畠親房が何度も書状を送り合力を望んだ結城親朝が北朝に帰順すると、奥州の吉野朝勢力はほぼ壊滅状態となり、興国41343年の12月、興良親王、北畠親房は命からがら吉野に戻ったのであります。
 藤氏一揆を仕掛けた和睦派の近衛経忠も失脚、吉野に入った北畠親房は朝廷トップに君臨し、持論の主戦論を展開、吉野朝廷を大きく主戦論に動かし始めるのであります。
 翌興国5年には、最初の全国開戦令が発せられるとともに、九州大宰府でも、宇治惟時に「立つべし」との綸旨を送っています。
 そして、興国6年夏、征西将軍宮・懐良親王が、宇治惟時に「近畿の宮軍と呼応して立て」と臨書を与えていたころ、正行に思わぬ出来事が起こります。
 この頃、何度かの吉野警護の任務に就いた正行でしたが、ある時、高師直の手の者が京から吉野に向けて南に向かったとの情報を得たのであります。
 この頃、正行が吉野に向かう道は、水分越え、千早越えで吉野川に降り、吉野川に沿って吉野に入るか、賀名生から山伝いに入るかの、いずれかでありました。
 しかし、高師直の手のものが南に向かったとの情報を得、この時は、吉野警護の帰途、これらの道を使わず、これら峠の更に北方にあたる竹内峠を目指したのであります。
 竹内峠を越える竹内街道は、丹比道と称し、日本最古の国道として、奈良県の当麻から河内、千早の北方、古市につながる道でありました。

 「正行様。」
 「おう、太吉か。高師直の手のものの動きはつかんだか。」
 「正行様。今、竹内峠を西に向かう輿に、何やら不穏の気配がございます。身分の高い方が乗られる輿と見受けますが、前後に、この輿を護りながら、ただ事ではない殺気を感じさせる侍どもが控えているのです。」
 「何。立派な輿とな。」
 「正行様。私の見立てでは、あの侍どもはこの辺では見かけたことのない者ども。おそらくは師直の手のものと考えます。殺気から察しますに、要人を警護しているというよりは、周りからの攻撃に備えていると見えました。」
 「太吉。お前の申すことに間違いがなければ、おそらく高師直の手のものであろう。輿の人物は、吉野の宮につながる方かも知れん。
 皆の者。急ごう!高師直の手のものとすれば、逃すわけにはまいらん。
 太吉。案内せよ。皆の者、我に続け。」
 急ぎ駆けつけると、立派な輿と、その前後を固める二十数名足らずの侍一行に追いつくことができた。
 「待たれよ! どなたの輿か。また、どこに向かわれるのか。」
 「・・・。」
 「返事のないところを見ると、高師直の手のものか。」
 「・・・。」

 侍どもの返事のないまま、殺気を(みなぎ)らせてきた。
 「予は左衛門少尉楠正行である。高師直の手のものとあれば、このまま返す訳にはまいらん。皆の者、この者どもを一人残らず捕えよ。そして、輿を護るのじゃ。かかれ!」
 「ご安心くだされ。賊は一人残らず召し取りました。」
 「正行様。お助けいただきありがとうございました
 私は吉野の宮で、帝にお仕えしております弁内侍でございます。帝のお使いに出かけ、吉野への帰途、高師直の手のものに襲われ、京へ連れて行かれるところでした。諦めておりましたが、助けていただき、お礼の申しあげようもございません。本当にありがとうございます。」
 「弁内侍様でしたか・・・。確か、日野俊基公のご息女と伺っております。
 高師直の手のものが吉野方面に向かったとの情報があり、急ぎ、この峠に駆けつけてまいりました。もはやご安心ください。この正行が、吉野までお送りいたします。」
 「正行様。ありがとうございます。」
 正行は、弁の内侍を吉野の宮に送り届け、帝からねぎらいを頂戴することになりました。
 この弁の内侍との出会いは、この後の正行に待っている幾多の戦いを前に、その心のよりどころとなる出来事でありました。

 この正行と弁の内侍の件は、太平記には描かれていません。
 吉野朝の説話を収録した室町時代の説話集「吉野拾遺」の上巻9話に載っています。
 弁の内侍を救った正行に、後村上天皇は「弁の内侍を妻に」と薦めますが、正行は、『とても世にながらふべくもあらぬ身の 仮の契りをいかで結ばん』と近づく決戦を前に断ります。
 そして、四條畷の合戦で正行の討ち死にを知った弁の内侍は、追慕の情断ちがたく、如意輪寺で黒髪を下し、吉野山を下り、山口村の西蓮華台院に庵を結び、正行の菩提を弔いました。
 この時、弁の内侍は『大君に仕えまつるも今日よりは 心にそむる墨染の袖』と、出家詠草の歌を遺しています。
 宝塚歌劇、月組の桜嵐記でも上演された正行と弁の内侍の儚い恋物語でした。

― 直義の南進命令、隅田城攻略

 正平元年1347年を迎えるころになると、主戦論の北畠親房と、和睦論の正行が、吉野で行われる軍議で、ことごとく対立激化の様相を呈し始めます。
 北畠親房は、なかなか動かない正行に業を煮やし、正行と和田一族の分断策まで画策するに及びます。加えて、九州の吉野朝勢力が各地の水軍を動員し、積極的な薩摩上陸作戦に動き出すと、足利尊氏は、九州での宮方の攻勢に神経をとがらせていたのです。
 特に、幕府の基盤固めを急ごうとする直義には、尊氏、師直以上の危機感がありました。
 『楠が武具の調達に動いておる。』―このような情報が届くに及び、直義は尊氏に楠討伐を申し出たのであります。
 八月九日、足利直義は使いを送り、細川顕氏と畠山国清に、楠討伐に向け南進を命じます。
 そして、この直義の南進命令の情報は、その日のうちに正行のもとにもたらされたのであります。
 いよいよ、正行、破竹の快進撃の開始で、四條畷の合戦に連なる正行第2期戦乱時代への突入です。
 正行は、八月九日の夕刻、水分の館に本隊を集め、直ちに出陣しました。
 しかし、事は隠密裏に、敵に悟られぬことが大事でした。
 隅田一党二十五人衆の長たちは、その日の早朝、楠が南に向かったことを知り、これは一大事と続々と隅田城に駆けつけました。しかし、結果は明らかでした。宮方と足利方に組みする一族が拮抗しており、直ちに楠と一戦交えるという状況にはなかったのであります。
 隅田二十五人衆の結論は開城に決まります。
 正行は、この後続く戦いの初戦を、無血開城という、最も良い形で収めることができたのであります。吉野との連絡路を確保し、後顧の憂いを断って前面の敵に集中できる体制が整ったのでした。

 藤井寺の合戦

 その後の、池尻、八尾の戦いは、正行と細川顕氏の正面対決ではなかったが、幕府内では敗れた細川に対する非難、攻撃の動きはすぐに広まりました。
 尊氏に願い出、楠討伐のための南進命令を下した直義にとって、このまま放置できなかったのです。直義は、細川顕氏を呼び出し、直ちに兵を整え、河内東条に兵をすすめよ、と命じました。
 正行は、九月十四日、楠館に軍議を招集します。
 「此度の戦いは、幕府軍との正面対決を想定しての前哨戦であったが、いよいよ幕府のおしりに火をつけたようだ。直義は、細川顕氏の讃岐の兵は無論のこと、赤松の摂津の兵、佐々木の近江の兵に出陣を命じたようだ。既に河内東条に向かっているとのことだ。」
 「正行様。細川、赤松、佐々木の三軍ですか・・・。
 此度、敵の軍勢は如何ほどに・・・。」
 「惟正殿。報告では、細川の主力部隊が千七百、赤松が七百、佐々木が五百ということだ。」
 「二千九百ですか・・・。」
 「三千の兵か。これは手ごわいぞ。」
 「賢秀。三千か、五千か、といった兵の数が問題ではない。もともと大軍相手の戦いはわかっていたこと。いかに戦うか、が大切なのじゃ。」
 「正家殿。これはうかつなことを申し上げた。お許しくだされ。」
 「正行様。して、どのような策を・・・。」
 「惟正殿。いや、皆の者。
 此度は、敵が油断しているところへ夜討ちをかけようと存ずる。細川顕氏の本隊をできるだけひきつけ、八尾、藤井寺あたりで本陣を構えた、まさにその夜、奇襲をかけることとする。
 わが方の陣は、敵に悟られないように山沿いを進み、敵陣の背後から、一気に攻めかかり、細川顕氏大将の首一つをめがけて突撃する。よいな。」
 「正行様。して二千九百の敵に対し、我らは如何ほどで出陣を。」
 「正茂殿。此度は、ほぼ全軍を一か所に集中し、山陰に何隊にも分けて伏せ、合図とともに出撃をする。本隊は、この正行を先頭に、惟正殿、正茂殿、そして正時、行忠、賢秀らの兵六百五十騎とする。
 正武には、百騎の兵で和泉方面に布陣し、堺浦から攻め上がってくる赤松に対する陽動部隊を勤めてもらう。助氏には、八尾城の搦め手に回ってもらう。
 おそらく、敵は数日後に八尾、藤井寺に到着するであろう。早ければ明日、遅くとも明後日の内に八尾付近の山陰に移動を完了させねばならん。直ちに出陣の準備に取り掛かれ。」

 幕府軍は、正行の見立て通り、十六日夕刻、八尾藤井寺に入ったのです。
 かねての手筈通り、正行軍は、何隊にも分かれて誉田八幡宮の背後の山陰に本隊を隠し、夜陰を待ったのであります。

 この藤井寺の戦いでは、正行軍の策が見事はまり、突然、山陰に放ったおびただしい松明(たいまつ)の明かりとともに、敵兵の寝こみざまを襲った夜襲に、大軍襲来と慌てふためく敵兵は烏合の衆と化し、たちまち総崩れとなりました。
 大将の細川顕氏は、命からがら天王寺から京都に逃げ帰ることとなり、赤松隊も堺浦から摂津へ逃げ帰ったのであります。
 そして、この時の合戦では、佐々木氏頼の弟、佐々木氏泰を討ち取っています。
 正行は、藤井寺の勝利の余勢をかって、八尾城そして丹下城をことごとく破壊したのであります。

 ― 正行の吉野詣で

 この頃、京の都では、足利方の中で、直義派と師直派のさや当てが続いていました。
 藤井寺の合戦で敗れた細川そして直義を攻め、なじる高師直と、一方、細川の敗戦の汚名ばんかいと、新たな陣立てを急ごうとする直義であった。
 直義は、兄、尊氏に願い出て、河内守細川顕氏とともに、伊豆守山名時氏の二人を大将に据え、再び河内東条に向けて発向させることとしました。
 直義は、細川軍の四千と山名軍の三千を主力に、応援部隊として、赤松の摂津、播磨の兵千、佐々木、土岐、明智の連合軍千四百、合わせて九千四百と、藤井寺の戦いのほぼ三倍の兵力を差し向けることとしたのであります。

 この年、十一月、ある日、正行は、迫りくる決戦を見通しながら、吉野に向かいました。
 四条隆資公から、急ぎ吉野の宮に上がるようにと使いが来たこともありましたが、和睦への誘導に向けて、吉野の宮との地ならしをしておく必要があったのであります。
 吉野に上がると、まずは帝のもとへ参内しました。
 「左衛門少尉正行。隅田城、池尻、八尾城そして藤井寺と、見事な戦いと聞いておる。身体は大事無いか。」
 「吉野の宮のお心安らかを祈り、精進を重ねておりますゆえ、ご安心ください。」
 「先の軍議で決まったとはいえ、幕府との戦いを、一人左衛門少尉正行に頼らざるを得ない吉野の在り様。申し訳なく思う。
 体を大切に、これからも良しなにな。」
 「ありがたいお言葉を頂戴し、まことに恐れ入ります。今後も、吉野の宮のため、誠心誠意お勤めいたしますゆえ、何卒、心安らかにお過ごしください。」
 「さて、今日呼んだは、ほかでもない。予に仕える弁の内侍を救ってくれたこと、改めて礼を申す。二、三日、ここ吉野でゆるりと過ごすがよい。」
 「ありがたきお言葉、まことに恐れ入ります。」

 翌日、四条隆資公から、「お茶の会を催すゆえ、如意輪寺に参られたい。」との使いがありました。
 如意輪寺につくと、若い僧の案内で、一室に通されると、正行はびっくりしました。
 「左衛門少尉正行様。吉野の宮にお仕え致します弁の内侍でございます。先ごろは、私の危ういところをお救い下さり、ありがとうございました。今日は、帝のおぼしめしで、正行様にお茶を差し上げ、お礼を申し上げよとのお許しを賜りました。どうぞ、ゆるりとお過ごしください。」
 「弁の内侍様。四条隆資様から、弁の内侍様がお健やかにお過ごしとお聞きし、正行、安堵しておりました。」
 「戦でお疲れのことと思いますが、帝にこのような時間を作っていただき、私もうれしく思います。
 今や、吉野の宮の運命は、正行様の双肩にかかっておると申す者ばかりでございます。そのように大切な方を、私一人が独占できる喜びでいっぱいでございます。」
 「弁の内侍様。この正行とて、同じこと。戦いは、これからが本番を迎えます。このように佳境の時に、今日のような時が持て、この正行、生涯の喜びでございます。」
 「正行様。今日は、お会いでき、大変うれしゅうございます。」
 「弁の内侍様。この後も戦いは続きます。しかし、必ずや吉野の宮に安寧をもたらす思いでおりますれば、どうぞ、ご安心くだされ。」
 「正行様。吉野の宮のため、いや・・・。どうぞ、お体を大切にお過ごしください。」
 「弁の内侍様も。今日は、馳走になりました。では、ご免…。」

 「正行殿。弁の内侍様のご様子はいかがでしたか。」
 「隆資様。帝の思し召しで、弁の内侍様とひと時の安らぎの時間が持てましたこと、戦いの中にある、この正行にとりまして、思いもよらぬことと感謝しております。」
 「それは上々。お二人が安らぎの時を持たれたとは嬉しい限りです。
 此度の、正行殿の吉野入りは、帝が強く望まれたことです。そして、帝の思し召しがありますので、お伝えいたします。」
 「帝から、私へのおぼしめしですと…。」
 「正行殿。帝は、正行殿の妻に弁の内侍を、とのおぼしめしです。」
 「弁の内侍様を、私の妻に・・・。」
 「そうです。帝は、二人は似合いの夫婦になるとおぼしめしです。」
 「隆資様。このお話は弁の内侍様はご存知でしょうか。」
 「弁の内侍様は、いまだご存じありません。帝は、今日のお二人のことをお聞きの上で、弁の内侍様にお話しされるおつもりでしょう。」
 「この正行、妻をめとるなど考えもしておりませんでした。弁の内侍様は素晴らしいお方です。私ごときの妻にとは、あまりにももったいないお話と存じます。日野俊基公のご息女などと、高貴なお方を・・・。」
 「正行殿。なにも、そのように卑下することはない。今や、正行殿は吉野の宮にとって欠くことのできない大切なお方です。昇殿をも許され、軍議の席では、帝はいつも正行殿のご意見をお聞きになるほどです。
 どうか、帝の思し召しをありがたくお受けなされ。」
 「いや。その儀ばかりは・・・。」
 「正行殿。帝には、私から良しなにお伝えいたしましょう。
 弁の内侍様のご様子からは、おそらくは異存はないものと心得ます。」

 住吉天王寺の合戦
 
 ここは、正行が吉野から河内東条に戻った、楠館。
 「正時。太吉からの連絡によると、今日、直義が山名、細川らを集めて軍議を開き、明後日の二十五日に布陣を終えるようにとの命があったとのこと。
 知らせでは、搦め手の山名軍は住吉に、大手の細川軍は天王寺に、そして陽動部隊として赤松と佐々木の二軍が堺方面と阿倍野方面に向かうとのことだ。
 ほぼ、今までに入ってきた情報通りの動きのようだ。
 二十五日着陣とあれば、時をおかず、二十六日早朝に手筈通り攻撃を仕掛けることとする。
 この旨、わが軍に知らせよ。そして、直ちに出陣できる体制を整え、下知を待てと急ぎ伝えよ。」
 「兄上。分かりました。全軍にこの旨知らせます。我らの策に乗って、敵を瓜生野に向かわせれば、おのずと勝利は間違いないでしょう。」
 「正時。油断するではない。
 瓜生野におびき寄せ、一気に攻撃を仕掛けるのは我らの一番の策であるが、それよりも大事なことは、戦いの場を分散化させてはならないことと肝に命じよ。
 住吉、天王寺に陣を構えられ、長期戦になると神仏に向かって弓矢をかけるという思わぬ事態になるやもしれん。瓜生野から一気に押し出し、敵方を一本の線で追い込むことが必要と心得よ。第一陣を蹴散らし、その敗走兵が敵軍の中央を折り返すような形にすることが、此度の戦いに勝利を収める策と心得よ。」
 「兄上が申されたとおり、敵の雑兵には目もくれず、大将めがけて一目散に攻め上がること、この事ですね。」
 「そうだ。敵の大将、山名時氏、そして細川顕氏を、縦串に突き刺すように攻め上がるものと心得よ。そこに必ずや勝機が生まれる。」
 「この旨、合わせて全軍に伝えます。では、ごめん。」

 二十六日早朝、石津周辺に火の手が上がり、戦いは始まりました。
 戦いは正行の読み通りの展開となったのです。
 天王寺に構えていた細川軍は攻撃を仕掛けるいとまもなく、正行の放った火勢の勢いに押され、退却する山名軍、赤松軍、そして佐々木連合軍で極度の混乱に陥り、楠軍手ごわしの風聞も加わり、退却せざるを得ない事態に陥ったのであります。
 戦いは、まさに正行の想定した通り、赤松、山名、佐々木、細川各陣が瓜生野、住吉・阿倍野、天王寺と縦串のようになって、渡辺橋に一直線に退却、集中したのであります。
 大川にかかる渡辺橋は騒然となりました。我先に京の都へ逃げ帰ろうと渡辺橋に集まった敵兵は、統率は全く取れず、正行軍の攻撃を背に、逃げ惑うこととなり、勢い多くの兵は大川に落ちることとなり、その数はおびただしいものでした。
 「攻撃を止めよ。」
 「お館さま。一網打尽の好機、なぜに、攻撃を止めるのですか・・・。」

 
「向かってくる敵に攻撃を仕掛けるは戦いの習わし。しかし、今、目の前で大川に落ち、おぼれる兵に戦意はない。このような兵に追い打ちをかけるは、武士にとってあるまじき行為と心得よ。我らの義の戦いは、その目的を十分に達することができた。
 おぼれる兵に手を差し延べ、川から救い出せ。そして、火を焚くのだ。暖を取らせ、衣服を与えよ。傷の手当てもするのだ。急げ!」
 「分かりました。」
 川におぼれた多くの敵兵は、手を差し伸べられ、急場しつらえの救護所で、傷の手当てを受け、衣服を与えられ、暖を取り、回復を図ったのです。
 「楠の大将、正行様は慈悲深い方だ。敵の我らをお助け下さった。」
 「ありがたいことだ。我先に、と逃げてしまった我らの大将とは大違いではないか。」
 「そうよ。細川様は、真っ先に船で脱出された。」
 「なに。大将が真っ先に船で脱出したと…。何ということか。」
 「楠の兵は、我らと動きが違う。大将の下知に従い、攻めるときは一目散に攻め、引くときには功を焦らず、全員が一斉に引く。そして、此度のように敵、味方なく手を差し伸べるときには、武器を置き、ひたすらに手厚く介護される。
 わしはこの恩義を忘れんぞ。何とか、恩返しがしたい。」
 「わしとて、同じじゃ。」
 「わしもじゃ。」
 「どうじゃ。楠の大将、正行様にお詫びのうえ配下にお加えいただくようお願いしては。」
 「わしは、もう京には戻らん。一糸乱れぬ、楠の兵の戦いぶりは、我らをお助け下さった大将、正行様によほどの信頼があるのであろう。
 此度の恩に報い、この先を生きることこそ、わしの誉れと決めた。
 誰の為でもない。わしは、わしのために、楠の大将殿についていく。配下にお加えいただけずとも、恩に報いる方法はあるはず。」
 「わしも、決めた。」
 「わしもじゃ。」
 渡辺橋で川におぼれる敵兵を救った正行にとって、思わぬ再会がやってこようとは、この時は想像もしなかったのであります。

 弁の内侍に文

 住吉天王寺の圧倒的な勝利で、軍事的優位を示した正行は、かねてからの和睦の機到来と期待しましたが、和睦への動きを見せることなく、吉野朝は正行の勝利に酔い、一層、親房の主戦論が力を増したのでありました。
 戦い数日後のある日、ここは楠館。
 「皆の者。四条隆資公からはなんの知らせもない。そして、吉野の宮から軍議の招集があった。
 おそらく、この間の我らの勝利をよいことに、親房公の主戦論のみが走り出しておるものと存ずる。既に、足利方は五万近い兵がこの河内、東条に向かうとの知らせが入っておる。
 共に総力戦を避けられるものではない。この正行も義の戦いを収めるつもりはない。此度足利方をこの河内、大和に誘い込み、くぎ付けにし、戦うことで、和睦が整うのであれば、我らにとっては大きな収穫となる。
 足利方にひるむことのない宮軍総出動と、吉野の宮復権を勝ち取る和睦の動き、この二つの作戦を同時に進めることが大切なのだ。今を置いてない機会ぞ。我らの戦いは、この時の為に進めてきたのだ。
 明日の軍議には、この二つの作戦を進めるという強い決意で臨みたいと存ずる。」
 「正行様。我ら一同、もとより正行様のお考えに、誰ひとり異論をはさむものはおりません。のお、皆の者。」
 大塚惟正の発言に、居並ぶ全員が、「おー!」と、応えた。
 この夜、私は一通の書状をしたためた。

 正行の本貫は、ひとえに父、正成の遺訓を守り、吉野の宮の復権を成就することにございます。
 桜井の駅で父、正成と別れ、早や十一年の歳月が過ぎ去りました。しかし、父の遺訓を護り、ただひたすらに力を蓄え、帝の政をお支え申し上げ、好機到来を待っておりましたが、今、そのことが成就できる一歩手前までたどり着くことができました。
 八月隅田城攻略以来続けてまいりました義の戦いは、足利尊氏殿に吉野の宮強しとの思いを抱かせるに十分の戦果を挙げ、吉野の宮復権のための環境が整いつつあります。
 しかし、吉野の宮復権の為には、吉野の宮方が思いを一つにして、総力を挙げて足利尊氏殿に立ち向かわなければ、戦力の差は如何ともしがたく、雌雄を決する戦いに突入してしまえば、父、正成同様湊川の二の舞となることでしょう。
 今、吉野の宮をお支え申し上げ、楠そして和田一族を束ねるこの正行が総仕上げをする時機到来と心得ています。
 吉野軍議の知らせが届き、この文とほぼ時同じくして正行は吉野の宮に参内を致します。吉野の宮に参りましても、お会いすることがかなわないものと心得、この文をしたためました。正行は、吉野の宮、そして内侍様の安寧を心から願っております。
 とても世にながろうべくもあらぬ身の 仮の契りをいかで結ばん

 正平(ひのと)()二年十一月

                                 楠正行

  弁の内侍様


帝に別れの挨拶、そして如意輪堂に辞世の句

 師走も押し迫った十二月二十五日、高師直は手勢七千騎を率いて、八幡に着陣したのであります。
 そして、この師直の着陣に合わせて八幡、山崎、樟葉、真木、桜井、水無瀬、神崎と、京から尼崎に通じる一帯に敵方四万の兵が満ち溢れたのであります。
 正行は、いよいよ決戦到来と、十二月二十七日、吉野の宮に参内しました。
 そして、正行は四条隆資公を通じ、帝にお別れの挨拶をします。
 ― 父、正成は、たとえ一族が一人になろうとも、金剛山に籠り、力を蓄え、朝敵を滅ぼし、正統なる帝を京にお戻しするのだ、とこの正行に桜井の駅で遺訓を残し湊川に散りました。
 今、正行は壮年に達しました。この度の戦いは、すべての力を出し切って戦う場と心得ます。そのことが、父、正成の遺訓に応えることになり、また一方では吉野の宮に組みする武将の望むところと心得ます。
 其れゆえに、此度の戦いは、我が身命をかけて戦い、高師直、師泰の首を討ち取るか、はたまたこの正行の首を討ち取られてしまうか、いずれかで合戦の勝敗を決することとなるでしょう。
 既に、高師直、師泰は京を発し、河内に迫ろうとしています。年明け早々にも戦いの時を迎えることとなるため、この世において、今一度帝のお顔を拝せんがため、ここに参内いたしました。

 四条隆資公が正行のお別れの挨拶を奏上し終える間もなく、帝は御簾を高く巻き上げさせ、正行以下うちならんで付した楠の兵をご覧くださり、正行をおそば近く呼び寄せ、次のように仰せられたのであります。
 ― 藤井寺、住吉天王子の戦いは見事であった。そなたの父、正成から親子二代にわたる手柄で、感心である。足利軍は全軍を挙げて攻め寄せてくるそうであるから、次なる戦いは天下分け目の戦いとなるであろう。
 軍勢の進退は、時機に応じて対処するのが勇士の心するところであるので、次なる戦いでも私が命令を下すことはないと思う。しかし、好機を逃さないため進むという判断も、退くという判断も、いずれも後の勝利を確実にするためである。
 私にとって、そなたは、私の手足のごとく最も頼りとする臣下である。
 進退の判断を正しくして、命を全うするように。

 父、正成は、身体を張っての献策にもかかわらず、「急ぎ兵庫に下るべし」と先帝の命を受け、「君の戦破るべし」と、負け戦・討死覚悟の兵庫下向となりましたが、正行は、帝から「私の手足のごとく最も頼りとする臣下」とのお言葉に加え、「命を全うするように」と、生きて還れとのお言葉まで賜ったのであります。
 これにすぐる喜びはありません。が、正行の決意も、また揺るぎのないものでありました。
 正行は、続いて、この日同道した正時、賢秀らを従え、先帝の御陵に参拝しました。
 先帝の御陵を下った後、如意輪寺の如意輪堂に向かいました。
 そして、過去帳に、楠一族百四十三名の名を書き連ね、最後に以下の文をしたためたのであります。
 各留半座乗花臺 待我閻浮同行人
  さきだたばおくるゝ人を待ちやせん ひとつ蓮のうちを残して
  願以此功徳平等施一切 同發菩堤心往生安楽国
 
 この文の意は、「私が先に浄土に生まれましたら、後から浄土に来られる貴方のために、蓮の台を整えてお迎えいたしましょう。同じ志をもって生きてきた仲間のお前たちより先にあの世に行くが、この世と同じように一つ屋根の下で住もう。そして、何よりも、自らを信じ、その信じている喜びを多くの人に伝え、人として生まれてきてよかったと言いあえるような生きざまをしようではないか」と、義の戦い一筋に生きてきた正行の思いを綴ったものでありますが、同時に、弁の内侍への思いをも込めて記したものでもありました。
 正行は、過去帳を書き終えると本堂に納め、如意輪堂の板塀の前に立ちます。
 ―もう、ここに戻ることはない。それは、ここにおるものすべて一緒。よくぞ、ここまで、この正行についてきてくれた。礼を申す。
 と念じつつ、鏃を以って、板塀にこの思い其のままに刻んだのであります。


 かゑらじとかねておもヘハ梓弓 なき数に入る名をぞとどむる


 二度と生きて還るまいと決めた覚悟。その覚悟を決め、死にゆく者の名をここに書き記す、と刻み込み、居並ぶ者全員が、正行の刻んだ文字をかみしめ、決意を不動のものにしたのであります。
 そして、正行を先頭に全員が髻を切って仏前に投げ入れました。
 如意輪堂を後に、正行は吉野を発ちましたが、弁の内侍がひそかに書院から見送っていたことを知る由もなかったのであります。

 正行、河内往生院に着陣

 吉野から河内、東条に戻ると、矢継ぎ早に情報が飛び込んできました。
 八幡に着陣した高師直は、自らは動かず、四條畷を主戦場に想定し、飯盛山から生駒山にかけて、大手軍を進めてきたのであります。
 生駒山、飯盛山を手中に収めることが、この戦を有利に進める条件でありましたが、平群から生駒山、飯盛山に向かう右軍の大将は四条隆資公で、しかもその部隊は伊勢、大和、紀伊の混成部隊でした。後れを取っていることは明らかでしたが、正行にはどうすることもできなかったのであります。
 正平三年元旦、この日穏やかな年明けでありましたが、それとは裏腹に心中は覚悟の年明けでありました。
 「母上。いよいよ父の遺訓を実現するための大戦に臨みます。
 此度の戦いは、藤井寺、住吉天王寺の戦いとは異なり、敵将高師直、師泰を討ち取るか、この正行が討ち取られるかの、いずれかで決することでしょう。
 万が一、私が討死とお聞きになられても、決して悲しまないでください。父の遺訓、そして私の思いは、正儀に託してあります。父亡き後、母上の庇護のもとこの正行が楠を率い、今日を迎えましたように、正儀のことをよろしくお願いします。
 
先帝、そして帝にお別れを申し上げ此度の戦に臨む覚悟は如意輪寺に刻んでまいりました。 今は、晴れ晴れとした気持ちです。
 只今より、出陣します。」
 「正行殿。母は、もはや何も申しますまい。ただ、ご武運をお祈りします。」

 まず弓隊の百、そして槍隊の百が出発。
 続いて、正行を先頭に、正時、正家、正信、助氏、良円、西阿、了願、刑部、忠能ら楠勢を主体にした前陣の騎馬隊四百が出発。
 最後に、惟正を先頭に、惟久、正連、行忠、賢秀ら和田勢を主体にした後陣の騎馬隊四百が一糸乱れぬ隊列を組んで進んだのであります。
 ――― 兄上。必ずや勝利してくだされ。河内、東条はこの正儀が必ずや死守いたします。
 正儀を先頭に、正行の部隊を見送る留守居の兵、そして集まった多くの河内、東条の民、百姓等は、いつまでも見送り続けてくれました。
 そして、母は 『もしや。これが最期か。』 と、一人泣き伏していたのであります。

 縣下野の守と野崎あたりで戦端開く

 正平三年一月五日、正行にとって、人生最後となる最も長い一日が明けました。
 「正行様。我らは、昨年十一月、住吉天王寺の合戦において、渡辺橋でお助けいただいたものにございます。あの時の御恩は忘れるものではございません。
 此度、正行様の天下分け目の戦いとお聞きし、何としてもその一員にお加えいただきたく参上しました。」
 見れば、百名を超える兵がひれ伏しているではないか。
 渡辺橋で助けた兵百余名が加わり、いやが上でも士気が上がる中での出陣となったのであります。
 正行の率いる前陣を先頭に、ややおいて惟正率いる後陣と続き、この日、千百余名の部隊は整然と、河内往生院から出陣をしたのであります。
 生駒の峰に布陣した佐々木道誉は、正行らの動きを見るも動かず、生駒の峰に布陣したままとどまっていました。
 最初の衝突は、往生院からほぼ二里の距離にある野崎の東方に陣した縣下野守率いる白旗隊三千二百でした。
 ここでは、我が方の兵もほとんど失うことなく勝利しました。そして生駒の峰の佐々木道誉も動かず、背後に対する備えを万全にしながら、兵を大道に沿って北に進めたのであります。


十念寺西方で武田伊豆の守と激戦、半数の兵失う

 正行そして正時を先頭に、十町近く大道を北へ進んだところで、敵兵の姿を捉えました。
 飯盛山の真西に当たる北条辺りまで来ると、小旗部隊の精鋭、四十八騎が北条神社付近の小松原から松木立をかき分けるように駆け下り、飯盛山を背後にしながら、楠の兵の前面、北方を遮断するように陣したのであります。
 正行は、この時、まさに虚を突かれてしまいました。
 この好機を佐々木道誉が見逃すはずはありませんでした。
 生駒の峰に陣し、動く好機を探っていた佐々木道誉率いる三千の兵が、急遽、山道を返し、三手にわかれて楠の兵の背後に迫ってきたのであります。
 正行も慌てたが、最も慌てたのは惟正でした。
 武田勢との激突に加え、新たな小旗衆の襲来に気を取られ、佐々木道誉の背後からの襲撃に十分態勢を整えることができず、集中的に反復攻撃を受ける羽目になってしまったのです。惟正率いる後陣は総崩れとなり、その大半の兵を失うこととなってしまいました。
 正行の率いる前陣部隊も、敵将、長崎彦九郎や松田小次郎ら、屈強な四十八騎の攻撃に加え、佐々木道誉の部隊も加わり、虚を突かれた不利な要素もあり、攻めあぐね、力を出し切れず、ほぼ半数近くの兵を失う結果となってしまったのです。

南野一帯で楠兵法駆使するも衆寡敵せず

 巳の刻(午前十時)、野崎あたりで始まった衝突は、(うま)の刻(正午)を過ぎ、北へ十町ほどの北条、南野に移っていました。
 ここでも正行の策は的中する形となり、第一陣の一番手、細川相模守清氏五百五十騎を破り、二番手、仁木左京太夫頼章千八百騎を蹴散らし、三番手の千葉介貞胤、宇都宮遠江入道貞泰合わせて三千三百五十騎とは、押しつ引きつ三度の戦いを繰り返し、ようやくにして退却をさせることができました。
 しかし、三番手の千葉介貞胤の兵との交戦で、正行の兵も百騎を失う結果となってしまいました。まだまだ精鋭ぞろいとはいうものの、残る兵は大よそ二百騎余りになったのであります。
 正行は、早朝より続いている合戦の疲れも相当な様子の兵を見、また、第二陣に構える敵兵の動きを探る意味からも、兵を一時休ませることとしました。
 「正時。権現川の南手に、兵が休める田間を見つけよ。少し休息をとるがよい。そして、皆に兵糧食、水を与えよ。」
 「兄上、分りました。」
 束の間でしたが、田間で休息を取り、兵糧食を口にした兵たちは、英気を養い、態勢を整えることができたのであります。
 敵の第三陣は、高師直の本陣と、もう目の前ともいえる中野の地に布陣していました。

師直本陣目前の中野、偽首に諮られる

 巳の刻に戦端を開始したこの日の戦いは、幾度となく衝突を繰り返しながら、(ひつじ)の刻を過ぎようとしていました。
 野崎から北条、南野、中野と四條畷の地を北に前進を続けてきた正行は、南北に走る大道、東高野街道と東西に交差する清滝道の手前までたどり着くことができました。
 この間、二万を超える敵兵を蹴散らしたものの、楠の兵も多くを失い、百騎余りとなっていたのであります。
 「正時。いよいよ師直の本陣も近い。よくぞ、ここまで来られたものよ。多くの兵を失いはしたが、目指すは師直の首一つ。抜かるではないぞ。」
 「兄上。もとより。」
 「わずかの兵となった今、もはや、策を講じることは難しい。
 体力の残る精鋭を前に出し、この正行を先頭に、一丸となって師直の本陣を突くこととする。よいな。」
 「兄上、承知。
 残っております槍隊を前に出し、わずかですが弓隊をその後ろにおいて、兄上の命のもと、一塊になって師直に臨みましょう。」
 
 しかし、この後すぐ、敵の放った矢が初霜の足と胴に突き刺さり、正行は下馬を強いられることとなり、(ひと)(かたまり)となった楠の兵は全員が歩いて前進しました。
 ついに、師直の本陣まで約半町のところまで迫った、その時であります。
 「楠の兵よ。あっぱれな戦いぶりであった。我こそは、武功天下に顕れたる高武蔵守師直なり。いざ、決戦!
 正行をはじめ、楠の兵はこの叫びに色めきたちました。
 長年、宿敵とその首を討ち取ろうとしてきた足利の執事、高師直が眼前に現れたのであります。
 正時、賢秀、刑部、行忠、正家ら楠の重臣が馬上の師直を取り囲み、落馬をさせたので、正行は、師直ののどを刺し、「敵将、師直の首、討ち取ったり!」
 と、絶叫したのであります。
 正行の絶叫に合わせるように、
 「おおー!」と、楠の兵は一斉に勝鬨を挙げました。
 正行は、師直の打ち首を槍にさし、頭上高く掲げました。
 「正行様。これは師直の首ではございません。」
 「なに!」
 「これは、上山六郎左衛門の首にございます。」
 「なに、さては諮られたか。偽首とな・・・。師直の首と見たは誤りであったか。
 しかし、敵ながらあっぱれであった。見事な最後であった。師直のもとにもこのように志ある勇敢な武士がおったとは。
 上山。そちの首は皆と一緒にせず、丁寧に弔うぞ。」
 と、正行は自らの小袖を破り、上山の首を丁寧に包み、清滝川堤の上に差し置いたのであります。
 博愛精神あふれる、武士道の人、正行、面目躍如の一場面であります。

 敵はこの一瞬を逃すはずもなかったのです。
 束の間のぬか喜びに浮沈する楠の兵に、師直の本陣から高師冬の兵数百騎が襲いかかってきたのであります。
 正行は、高師冬の兵を迎え撃ち、最後の力を振り絞り、退散をさせると、直ちに、雁屋方面に向かってススキの中を南に退いたのであります。この頃には、正行の兵は五十騎ばかりに激減をしていました。


雁屋で、須々木四郎の放った矢を膝頭、頬、目じりに受ける

 「正時。師直の首が偽首とは不覚であった。」
 「兄上。しかし、にっくき師直は目と鼻の先です。今一度、態勢を立て直し、師直と相まみえましょう。」
 「正時。もちろん。このススキ野の中で、これだけの小人数ともなれば、敵もそう簡単には我らを見つけることはできまい。どこか、適当な場所を見つけて、手当ての必要な者には手当を施し、武具を整えることといたそう。」
 と、雁屋のほぼ中心、田間のススキ野原に差し掛かった時、楠の兵に向けて一斉に矢が放たれて飛んできたのであります。
 敵もさるもので、高師兼の献策を受けた師直は、正行らの行く手を囲むようにススキ野に弓隊を配置し終え、一斉に弓を引いてきたのであります。
 敵の弓隊の中心、須々木四郎は、九州の武士で、素早く多くの矢を射ることのできる名手と謳われていましたが、この須々木四郎のいる強弓は、次々と楠の兵を射とめていったのであります。
 早朝からの戦いで、楠兵の鎧は破れたり、体温で暖まって伸びきったりして、いたるところに隙間ができており、須々木四郎の放つ矢はことごとく兵の身体深くまで突き刺さったのであります。
 楠の残兵は、ことごとく重傷を負うこととなりました。
 正時は、須々木四郎の放った矢で、眉間と喉の脇を射られました。
 正行も、この須々木四郎の放った多くの矢が身体に突き刺さり、左右の膝頭を三か所、右の頬、左の目じりを射られてしまったのであります。

正行、最期の地は津の辺

 正行は、
 「敵の手にかかるな!」
 と、叫びながら、最後の力を振り絞って、権現川沿いの堤の上、津の辺辺りまでたどり着くと、「正時はいるか。」
 「兄上、正時はここに。」
 と、正時の声をかすかに耳にすると、
 「もはや、これまでか。」
 「兄上。この正時、兄上の目指された義の戦いを共に戦う事ができ、本望にございます。」
 「正時。よくぞ申した。
 何としても吉野の宮の復権をと、師直の首一つめがけて臨んだ、ここ四條畷での戦いであったが、もはやこれまでのようだ。
 敵の手にかかるまい。
 共に、父上が待っておられる所に参ろうぞ。」
 「兄上。共に。」
 と、正行と正時は相刺し違えて、命を絶ちました。
 時に、正平三年一月五日、申の刻になろうとしていました。
 享年、正行23歳、正時21歳でした。
 
 今、正行は、四條畷市雁屋の小楠公墓所に眠っています。そして、四條畷神社に祀られています。
 明の儒臣、朱舜水は、吉野朝復権ただ一筋に生き抜いた正行を、中国千年の英雄、元に屈しなかった南宋の義士、文天祥になぞらえ、称賛した正行像賛を遺しています。
 最後の一節を紹介しましょう。

 人生古より誰か死なからん。丹心を留取し、汗青を照らす。

 どうせ死ぬのなら、至誠忠義の心をしっかりと世に残し、長く歴史に輝かしたいものだと、元に最後まで屈しなかった文天祥と吉野朝復権という至誠忠義を貫いた正行の生きざまは、まさに同じであると称賛しています。
 郷土、四條畷が誇る武士道の人、楠正行の生涯、一巻の終わりでございます。
 ご清聴、ありがとうございました。
                                       (了)

次回例会
 
日時 914日(火)、13301500分
 場所 四條畷市立教育文化センター2階・会議室

 内容 公開講座「楠正行の生涯を学ぶ」第1回
           ~正行の幼年時代~

傍聴、入会大歓迎!
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターの2階ホールを覗いてください。お待ちしております。


正行通信 第131号はコチラからも(PDF)


楠正行の会 6月の例会はお休み 
日時 令和3年6月9日(火) 
場所 教育文化センター 2階 会議室1

●緊急事態宣言下、教育文化センター閉館のため、例会は5月に続き休会
 
 大阪ではいまだに病床ひっ迫に加え、自宅待機者が多く、加えて変異ウイルス蔓延のリスクも加わり、自粛生活が強いられています。
 引き続き、マスクや消毒、不要不急の外出自粛等、一人一人が何よりも感染対策に努めることが求められています。
 安心して学び、交流できる日が、一日も早く訪れることを願うのみです。

8回楠正行シンポジウム、710日開催の予定です。

 3月から延期しました第8回楠正行シンポジウムは710日(土)、午後2時~、市民総合センターでの開催を予定しています。
 しかし、620日以降、緊急事態宣言が続いたり、まん延防止措置等のコロナ禍対策が求められるようであれば、更なる延期・中止も判断しなければならないと考えています。
 6月四條畷市広報誌には、開催案内を掲載していただきました。
 延期・中止の場合は、市の公式ホームページや教育文化センター公式ホームページで告知を致しますので、ご注意ください。

楠正行通信 第130号 68日発行

 ・大阪電気通信大学・社会プロジェクト実習/市民・自治体・大学連携事業
 ・「畷の歴史・文化をゲームに 第2弾!」
 ・「楠正行ゲーム」2作品他、合わせて8ゲームの政策が進んでいます!

次回例会
 日時 713日(火)、1330分~1500分
  場所 四條畷市立教育文化センター2階・会議室
  内容 講談「楠正行」
      その他

●傍聴、入会大歓迎!
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターの2階ホールを覗いてください。お待ちしております。

正行通信 第130号はコチラからも(PDF)




四條畷 楠正行の会 5月の例会はお休み 

令和3年5月11日(火)●緊急事態宣言下、教育文化センター閉館のため、例会は休止 
 大阪での新型コロナ陽性患者の発生が下げとどまらず、重症患者病床は全く不足の状態が続いています。
 マスクや消毒、不要不急の外出自粛等、一人一人が何よりも感染対策に努めることが求められています。
 安心して学び、交流できる日が、一日も早く訪れることを願うのみです。

楠正行通信 第128号 511日発行

 ・講談第3弾!「西郷隆盛」~明治維新の功罪両面を最もよく見た男
 ・坂本龍馬談「西郷は馬鹿なり。大馬鹿なり。」
 ・「西郷のことは、俗物には到底わからない」「一個の高士だもの…」と語った勝海舟

楠正行通信 第129号 511日発行
 ・多感そして純真、磨かれざる大器だった青年・西郷隆盛の略年譜
 ・俗物には分からない西郷という人物
 ・710日、延期していた「第8回楠正行シンポジウム」開催!

次回例会
 日時 68日(火)、1330分~1500分
 場所 四條畷市立教育文化センター2階・会議室
 内容 講談「楠正行」
     第8回楠正行シンポジウムについて
     その他
傍聴、入会大歓迎!
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターの2階ホールを覗いてください。お待ちしております。

正行通信 第128号はコチラからも(PDF)

正行通信 第129号はコチラからも(PDF)


四條畷 楠正行の会 第70回例会 
日時 令和3年4月13日(火) 午後1時30分より3時 
場所 教育文化センター 2階 会議室1
●扇谷、講談調第3弾!講談「西郷隆盛」に挑戦!
 
講談シリーズ第3弾は、「西郷隆盛」です。
 波瀾万丈の西郷隆盛の生涯を短時間に謳いあげることは至難の業でした。幕末動乱期から明治維新、そして明治新政府のスタートに、薩摩の下級武士から始まり、混乱期の真っただ中では、二度の遠島を経験、また新政府のトップに上り詰めるや、一転、薩摩に帰り賊軍となっていく乱高下の激しい生涯。
 しかし、子どものような純粋な心を持ち続け、民を愛し、多くの人を引き付けてやまなかった西郷。直情的であるが故、思いつめたらびっくりするような行動に出たり、一方、二度の遠島生活では島の人々にこよなく愛された西郷。
 正行の静かで、ある意味穏やかな生活(分からないが故もあるが)に比べ、なんと、忙しく、常に動き回る生涯であったことか。
 しかし、正行の博愛精神同様、遠島時代の農民や漁民に示した愛情や薩摩の民に示した愛情に、あの大きな体の中にあった高い志を思わざるを得ない。
 
 第3弾「西郷隆盛」は、嬉しいことに、この講談が聞きたいとひとり飛び入りがありました。
 だんだん、メリハリも付いて良くなってきた、との会員の反応をそのまま信じてよいのかどうか。しかし、まんざらでもない。
 5月は、講談シリーズも一応の幕として、講談「楠正行」を演じることに。
 乞う、ご期待!

710日、第8回楠正行シンポジウムの開催決定!
 昨年3月開催予定の第8回楠正行シンポジウム・絵本作家谷口智則さんによる「ライブペインティング楠正行」は、710日(土)開催に決定しました。詳しくはアップしていますチラシをご覧ください。
 但し、412日から大阪市に「まん延防止等重点措置」が適用となり、コロナ禍第4波を迎える今日、先を見通すことが難しい状況です。開催時には、コロナ禍対策を万全に講じ、実施の計画ですが、状況によってはさらなる延期・中止を余儀なくされるかもしれません。
 四條畷市ホームページ・教育文化センターホームページ・四條畷市広報誌等で告知を徹底しますので、ご確認ください。

楠正行通信 第126号 413日発行
 ・まさに裏吉野朝といえる全国をめぐる活躍ぶり
 ・児島五流山伏頭領を務める風雲児、児島高徳
 ・後醍醐天皇の宿舎に忍び込み刻んだ漢詩 天莫空勾践 時非無范蠡
楠正行通信 第127号 413日発行
 ・斎藤監物作 児島高徳桜樹に書するの図に題ス
 ・おかやま人物往来㊺ 児島高徳
 ・全国3か所に残る墓 米子市・赤穂市・群馬県大泉町

西郷隆盛と正行
 講談「西郷隆盛」
 「西郷隆盛」脚本:本文末尾に全文公開!
(主な出来事)
文政101827  薩摩藩下級藩士の西郷吉兵衛の長男として生まれる。
嘉永71854  島津斉彬の参勤交代に伴って江戸に赴き、庭方役になる。28歳
安政31856  13代将軍徳川家定と斉彬の養女・篤姫を結婚させるために奔走
安政51858  京都の西郷のもとへ、斉彬急死の報届く。32歳
        殉死を思うも、僧月照に止められる。
        9月、安政の大獄から月照を保護するため京脱出 10月帰藩
        1115日夜半、錦江湾で月照と入水自殺を図る。
        12月、職を解かれ、奄美大島潜居を命じられる
文久21862  2月、大久保らの嘆願を受け、鹿児島へ。久光に謁見。36歳
        4月、久光の捕縛命により鹿児島送還、徳之島遠投を命じられ         る。
文久41864  2月、鹿児島帰還 3月京都へ 38歳
        流刑生活から一転、活躍の場が与えられる
        7月、禁門の変で軽症負う
        9月、勝海舟と面談
慶応21866  1月、薩長同盟結ぶ
慶応31867  10月、朝廷より倒幕の密勅下る
        12月、王政復古の大号令
慶応41868  1月、鳥羽伏見の戦い 42歳
        3月、江戸城で勝海舟と会談。総攻撃中止を決める。
明治41871  1月、新政府に出仕するため鹿児島を出港 45歳
        6月、参議になり、正三位
        大久保・木戸らと廃藩置県を議す
明治51872  7月、参議兼陸軍元帥・近衛総督に
明治61873  5月、徴兵令実施に伴い陸軍大将兼参議に
        西郷の朝鮮使節派遣が中止となり、職を辞し、鹿児島に帰郷
明治71874  3月、佐賀の乱で敗れた江藤新平来訪
        6月、私学校創設
明治101877  2月、私学校の生徒らが火薬局・海軍造船所を襲う 51歳
        この後、西南戦争へ
        220日、戦端開く
        320日、田原坂奪取され、熊本まで撤退
        8月、西郷、自軍に解散令を出す 半数が投降
        91日、西郷軍370人、城山突入
        924日、政府軍の総攻撃を受け、西郷隆盛自決 享年51
(死後)
明治221889  罪が赦され、正三位を追贈
明治311898  上野の西郷像の除幕式
昭和121937  城山の銅像が除幕
平成21990   NHK大河ドラマ「翔ぶが如く」 主演 西田敏行
平成302018  NHK大河ドラマ「西郷どん」 主演 鈴木亮平

報告

 
① 
電通大・社会プロジェクト実習「畷の歴史・文化をゲームに 第2弾!」
 ≪毎回 1650分~ 10号館101教室≫
 0428日 学生との対面
 0512日 扇谷講義①
 0519日 扇谷講義②
 ② 宝塚大歌劇「桜嵐記」観劇の件


日時 64日(金)1300公演


③ 
CS放送・プレステージ 収録について
 扇谷の収録 417日(土)/桜井駅、竹内峠、渡辺橋の3か所
 ≪シナリオ・予定≫ 30分番組 5月初旬放送予定
 オープニング ― ナレーション ― スタジオ:鳳月(正時役)、輝月(正成役) ― 湊川神社(鈴木さん) ― 桜井の駅(扇谷) ― 建水分神社(岡山禰宜) ―   竹内峠(扇谷) ― スタジオ:かるた大会(鳳月と輝月~一人2枚づつ交代で読み手と取り手交代して) ― 渡辺橋(扇谷) ― 如意輪寺(加島副住職) ― 四條畷神社・小楠公墓所(ナレーション) ― スタジオ/エンド
④ 四条隆資卿研究会から講師依頼
 日時  令和310月(詳細未定)
 場所  八幡市

⑤ 8回楠正行シンポジウムの開催、決定!
 = 同時開催 楠正行に関する論文大募集表彰式&楠正行ポスター展 =
 ≪日時≫ 710日(土) 午後2時~4時
 ≪場所≫ 四條畷市市民総合センター・展示ホール




★講談 「西郷隆盛」全文公開! 
   講談 「西郷隆盛」
  原作  田中惣五郎 吉川弘文館 人物叢書「西郷隆盛」
   参考  文藝春秋 平成2912月特別増刊号・永久保存版「西郷隆盛を知る」
   脚本  扇谷 昭


 楠正行の会、講談調講座は、足利直義、児島高徳に次いで、第3作目、西郷隆盛と相成りました。
調子に乗って続けてきましたが、明治維新を動かした張本人であり、明治維新の功罪両面を最もよく見た男、西郷隆盛について語ってみたいと思います。
  どうぞ、最後まで、お付き合いのほど、よろしくお願いします。

 西郷隆盛ほど、波乱に富んだ人生を送った人物はいないといえるでしょう。
20代後半まで、薩摩藩の小吏、乃ち地位の低い役人であった人物が、わずか20年後、46歳にして明治新政府の首相兼陸軍元帥・近衛都督に上り詰め、そしてまた、そのわずか5年後の51歳にして賊として討伐され、悠然と死についた生涯という、まるでエレベーターで急上昇・急降下するような生涯を送っているのです。
 人物叢書の著者、田中惣五郎が言う西郷隆盛像は、以下のとおりです。
 『西郷の偉いところは、私心がなく、愛情に豊かであった上に、純粋に藩主に仕え、国に尽くし、農民を愛し、そして友にも後進にも、父母にも妻子にも、豊かな愛情を捧げ、いわば生一本な自然児的存在であった』、と。
 だから、打算が働かず、他人を疑わぬ正直者が故に、つまづいて二度も流罪になっているのです。

文政101827、薩摩藩77万石城下町の鹿児島を流れる甲突川ほとりの鍛冶屋町に、その産声を上げました。
 父、九郎は150石以下を与えられる小姓組勘定方小頭で、まずは安定した生活が送れるはずでありましたが、吉之助以下6人の兄弟がおり、西郷家も相当貧しかったようで、一枚の布団を引っ張り合って寝たという西郷の懐旧談が残っているぐらいです。
 しかし、西郷家は貧しくはありましたが、この家の人はそろって肉体的には恵まれていました。
 これは父祖伝来であり、五代の祖、吉兵衛は身長6尺あまり、約182㎝もあり、腕力絶倫といわれ、江戸時代の力士九紋竜の小結時代に、これと引き分け相撲を取ったとの逸話が残るほどであります。江戸時代の182センチの身長といえば、よっぽどの大男だったでしょう。
 西郷もまた堂々たる体格で、身長59寸あまり、今でいうと17877㎜の身長で、体重は29貫あまりというから、これも今でいうと約110キログラムの巨漢でありました。加えて巨眼重瞳(ちょうどう)で、太い眉毛と引き締まった口許は正に偉丈夫といえました。この体格は、西郷の生涯に大いに幸いし、封建的英雄主義の時代には指導者としての第一条件であったのであります。
 西郷は8歳、9歳のころから、藩の聖堂に通って読み書き・そろばんを学びましたが、体の大きい無口の気の利かない少年として扱われた、といわれています。要は喧嘩に強い鈍重の型であります。
 仲間には、2歳年下の竹馬の友、大久保正助、のちの利通、他には有村俊斎、吉井幸助らがおり、議論にたけていたのが大久保で、西郷は黙々と大久保の論に耳を傾けていた、というのです。
 そして18歳の時、郡方(こおりかた)書役(かきやく)(たすけ)になり、当時記した西郷の農政意見が残っています。
― 享保年中に行われた検知では、もし高が増えたら村の所有高にするとのお触れであったので、農民はできる限り高が多くなるよう測量して報告した。が、検知が終わると、その増し分は藩の支配にしてしまって、大いに民心を失った。
 この度、検知を断行し、民苦を取り除かれることはまことに結構な事ではあるが、今の役人では、いろいろ不公正なことをして私腹を肥やすことになる。
 この場合、永年の弊風を除き、満潮の人身が改まって、清廉の風が行われて後に行うのでなかったら、結局は無意義に終わり、万古にわたって光を放つ政治は行われまい。
 西郷の、このような「制度より精神」という考え方は、彼の一生を通じてのことでもあります。西郷の愛民・愛農の思想は、島流しの時代や征韓論に敗れて下野したのちの晩年にも現れ、廃藩後の鹿児島県を、農民第一主義の古風な県に仕立て上げ、西南戦争の原因にまで持ち込んでしまうのであります。

 島津斉彬と久光を取り巻く人々による家督争いの「お由良くずれ」で一掃された斉彬派でありましたが、幕府が乗り出し斉興の退隠を諷し、嘉永418512月に斉彬が藩主の地位につくと、藩の立て直しに動いた西郷・大久保らのグループが生まれるのであります。
 しかし、この翌年の嘉永51852は、西郷にとって、人生の中で最も悲しい1年となりました。
 祖父龍右衛門の死に続き、9月には父吉兵衛が、さらに11月には母が他界したのであります。
 西郷の末弟、小兵衛はまだ3歳の幼児でありました。貧しい西郷家にとって、悲嘆にくれる中、重なる葬儀の費用は耐えがたい負担であったことでしょう。しかし、兄弟間の仲睦まじさは有名で、特に、長弟の吉次郎は兄思いで、世事にたけていたので、西郷は吉次郎を信頼し、年は下だが「お前は兄だ。」と言いとおしたと伝わるほどです。
 西郷が、家のことを忘れて、国事に奔走できたのは、一つには吉次郎の人柄によるところが大きかったといえるでしょう。
◆◆◆
 さて、藩主となった斉彬は、嘉永71854、藩主就任最初の参勤交代の出府の年、西郷は中小姓にとり挙げられ、晴れの行列に随うこととなります。この行列が藩境の水神坂上で休息したとき、斉彬は、初めて西郷を引見したのです。
 この時、斉彬は28歳の偉丈夫な西郷に大変満足したものと思われます。出府の翌月、斉彬は西郷に「庭方役」を命じています。斉彬の非公式な密事を取り扱う秘書的な役目で、中小姓からいきなり斉彬の傍衆に取り上げられ、西郷、最初の仕事は水戸との連絡でありました。
 そして、この頃、西郷が藤田東湖と面会した感激を、次のように語っています。
― 東湖先生宅を訪問すると、まるで清水の中に浴したような塩梅(あんばい)で、心中一点雲霞(うんか)なく、ただ清浄なる心になり、帰路を忘れてしまう。
 藤田東湖は、安政21855の江戸の大地震で圧死しましたが、水戸斉昭の政策もこの知恵者を失い一挙に後退することになりました。
 西郷が、49歳の東湖にあおられて、目を細くして陶然としている光景が、眼に見えるようです。
◆◆◆
 さて、徳川中期ごろから、問題としてくすぶり続けてきた欧米列強の日本進出問題がありました。 この欧米の日本進出問題は、各国の思惑に加えて、開国派と攘夷派の対立が絡み、将軍の世継ぎ問題として顕在化するのであります。
 徳川13代将軍、家定は、将軍然としない暗愚で、病弱に加え、実子がなかったのであります。
そこで、開明的な考えを持ち、勤皇家でもあった薩摩藩主・島津(なり)(あきら)は、外圧に抗するため越前・福井藩主の松平(よし)(なが)らと結んで、水戸の徳川(なり)(あき)の子、一橋慶喜を次期将軍に押そうと画策をするのであります。
 家定が二人の夫人に先立たれ、独り身であることに目を付けた斉彬は、老中、阿部正弘と相通じ、島津一門の姫であった篤姫を、親戚の間柄にあった近衛家の養女として、家定の御台所に送り込むことを企てるのであります。
 この時、斉彬の命を受けて奔走したのが西郷で、この話に反対する水戸家説得にも出かけているのであります。しかし、西郷が具体的にどのような活躍をしたのか、明らかにすべき文献資料は見当たりません。私は、NHK大河ドラマ「篤姫」の1シーン、斉彬の命で篤姫の嫁入り道具を調達する西郷の姿が、なぜか、今も鮮明に記憶に残っています。まるで、この講談「西郷隆盛」の脚本づくりを見透かしていたのかもしれないほどです。
 水戸斉昭の反対に加え、老中にも反対者がいたため、斉彬は3年の歳月を要して、安政31856、この政略結婚は実現しているのです。
 将軍の跡継ぎ問題でありますが、一橋慶喜を押す斉彬らに対し、譜代大藩の彦根藩35万石、井伊直弼らは、南紀紀州の徳川慶福(よしとみ)を擁立しようとしたのであります。
 開国問題と将軍世継ぎ問題が複雑に絡み合いながら、対立の構図は徐々に明らかになっていきました。水戸斉昭・一橋慶喜・越前松平慶永・薩摩島津を結ぶ線、そして一方、紀州徳川・江戸城大奥・譜代大藩・彦根藩井伊直弼を結ぶ線の対立構図であります。
 この水戸派と南紀派の対立が、やがて大きな政争となっていくのでありますが、この頃、西郷は斉彬の命を受け、松平慶永の懐刀、橋本佐内と共同戦線を張ることになります。
 松平慶永の教示を受けた西郷は、橋本の訪問を受け、江戸にある斉彬夫人から天璋院夫人へ運動する材料の説明を受けるのでありますが、西郷は説明が複雑で難しいので書類にしてほしいと頼むのであります。
 このとき橋本左内の記したものが「一橋公御行状記」でありました。この一橋公御行状記は、西郷が城山で自決したとき現れております。若くして死刑となった同志、橋本左内の形見として、西郷は一生身に着け保存していたのでしょう。こういうところにも、西郷の人間性を見てとることができるのです。
 当時の二人の作戦について、人物叢書「西郷隆盛」は、以下の通り記しています。

 相談は幾度も練り直され、一橋一本槍では強引だから、御三家の中からも候補を出し、いよいよ決着するとき、天璋院から将軍に一橋が一番よろしいと云わせるのが上策だということになった、と。
 御三家というのは、紀州家から慶福という少年候補を立てていたからであります。
斉彬らが慶喜を推薦する趣旨は、非常時に適応しうる「賢」にして、「年長」なる人物という点にあったのです。
 さらに西郷は、斉彬の意見によって戸塚静海という幕医を通じて、堀田老中を説かせることとしました。諸侯は主として松平慶永・橋本左内の福井藩が担当し、京都方面は近衛家・月照を通じて有志を動かす、という一見万全の策が立てられたのでありました。
 しかし、当時最大の問題である開国問題が複雑に絡み合うことによって、意外な方向に事態が展開していったのであります。

 彦根藩、井伊直弼の登場であります。
 幕府は彦根藩主、井伊直弼を大老に押し上げたのであります。
 井伊は、大老に着くや、矢継ぎ早に政策を打ち出します。井伊は、世継ぎを紀州慶福と決定し、次いで条約に調印、その翌々日には朝廷に報告するという事後承諾で強引に進めたのであります。
 紀州慶福が世継ぎと決まった5日後、西郷は状況報告のため帰国の途に就いています。急ぎ帰国した西郷から直接、生々しい江戸での情勢報告を聞いた斉彬は、この上は朝廷の威力によって幕府を改革する以外道なしと、急ぎ、再び西郷を上京させたのであります。
◆◆◆
 しかし、京に入り精力的に動き回る西郷のもとに飛び込んできたのが、藩主斉彬の急死の報でありました。斉彬自ら、天保山の練兵場で炎天下に練兵を指揮していましたが、帰邸の後、床に就き、手当ての甲斐なく死去したという悲報でありました。
 この時、西郷が、苦悶の末たどり着いた結論が『殉死』でありました。
 水戸の藤田東湖によって、300諸侯中唯一の名君と讃えられた斉彬公でありました。その人が自分を引き立てて秘書格として抜擢してくださり、他藩の、そして将軍夫人の、更には京都の近衛家の、そのいずれもの連絡係・交渉役まで任せていただいたのであります。
 西郷が、多少でも人に知られる人間になりえたのは、全く斉彬公のおかげでありました。その人が、今国家の一大事というとき、突然逝去されてしまったのであります。生きる目当て、目標を失った西郷の取るべき手段は、殉死することでありました。
 しかし、事態がそれを許さず、西郷を現実に引き戻すのであります。❕
 朝廷から水戸家への密勅差し下しの使者として、西郷が選ばれたのであります。西郷は、斉彬の死を知った直後の高ぶりもあったのでありましょう、月照を通じてこの使命を買って出たのであります。
 しかし、その西郷が向かおうとした水戸藩を取り巻く環境は、この密勅を受け取る事すら困難な状態にありました。
 世にいう安政の大獄の始まりでありました。
 井伊大老による大弾圧が始まったのであります。小浜藩の儒学者で、ペリー来航に対し条約反対・外国人排斥による攘夷を訴えて尊王攘夷を求める志士たちの千峰となって幕政を批判した梅田(うん)(ぴん)、橋本左内と逮捕者が相次ぎ、月照の身にも危険が迫っていたのであります。
 あくまでも勅書を得て各藩に下り、これを手掛かりに各地に連絡しようとした西郷でありましたが、近衛家ではそれどころではなかったのであります。
 近衛家から西郷への指示は、以下のとおりでありました。
― 今、月照への嫌疑が濃く、囚われそうであるから奈良の知り合いに匿いたいので、西郷に一緒に行ってほしい。勅書は、三条公の直写しのモノができたので、これは有馬に持たせて江戸の土佐藩主へ、それから宇和島藩主へ回すこととする。阿波と因幡の両公からは、すでに勅書の請書が来ている。
 西郷と有村は、月照、月照僕重助と4人で、急ぎ奈良へ出発します。しかし、街道筋にはスパイらしき人物が多く、もはや奈良に隠れるのは危険と判断し、月照らを薩摩へ落とすこととして、一旦、西郷一人京に戻ったのであります。
 大坂で斉興、京で近衛家への差配を済ませ、大坂から船に乗って薩摩に戻った西郷は、月照隠匿を承認させるため帰藩します。が、すでに月照の人相書きが手配され、藩の重臣は難を恐れて月照を匿うどころではなかったのであります。結果、藩は月照を日向の国境への「永送り」と決定したのであります。永送りとは国境で斬り捨てることであります。
 月照は、身の危険を感じながら、九州各地を転々と身を隠しながら、平野次郎の案内で鹿児島の存竜院にたどり着いたのであります。この時、存竜院から報告を受けた藩が、日向国境への永送りと決めたのは1115日でした。
 思案に余った西郷が頭に思い浮かんだのが「死」でありました。
 西郷と平野、月照と僕重助の4人は、この日夜半、磯部から船に乗り、錦江湾へと出たのであります。
 冬の月が凍り付くように住んでいる中、月照は
「大君の ためには何か をしからん 薩摩の瀬戸に 身は沈むとも」
と、そして西郷は、
「二つなき 道にこの身を 捨小舟 波たたばとて 風吹かばとて」
と、歌を取り交わし、西郷は月照を抱きかかえるようにして海に投じたのであります。
 その後、助け上げられた二つの死骸の内、月照は帰らぬ人となり、西郷は奇跡的にも蘇生をしたのであります。
 この時、薩摩藩は西郷も同様死亡したと幕府を偽り、そっと西郷を大島へ流したのであります。
 安政61859,正月、打ち砕かれた西郷を乗せた船は大島に向かいました。時に西郷33歳。
 しかし、時代はやがて西郷を必要となって大島から呼び戻すことになるのですが、西郷の青春時代は入水事件によって一つのピリオドを打つこととなったのであります。
◆◆◆ 
 この後、幕府による弾圧、世にいう安政の大獄が続くのであります。
 関白職、大臣の更迭、青蓮院の宮らには謹慎・蟄居、土佐藩主山之内豊信の隠居・謹慎、近衛と鷹司の罷免等、朝廷の尊王攘夷派は一掃され、斉昭の永蟄居、慶篤は差し控え、慶喜は隠居謹慎、藩士らの切腹・死罪・獄門・遠島など水戸藩の断罪が矢継ぎ早に行われました。さらに橋本左内、吉田松陰には死罪が言い渡されたのであります。
 朝廷と三家副将軍の水戸を中心とした大獄でありました。
 安政の大獄に対して、朝廷は非力が故、当然ながら妥協の道を選び、一方、水戸は抵抗の姿勢を見せるのであります。
 安政71860、桜田門外の変の勃発であります。
 水戸の決死の士と江戸にあった薩摩の誠忠の士、17名は、32日夜に愛宕山に集結、上巳(じょうみ)の節句のため幕府に出仕する井伊大老を桜田門に迎え撃ち、雪が降り、花が舞う中で、井伊の首は薩摩からただ一人参加した有村治左衛門の手によって挙げられたのであります。井伊大老ひとりで支えていた幕府であっただけに、この暗殺は痛烈な打撃でありました。
 この時、大島にあって飛報を得た西郷は、突然刀を抜いて庭に飛び降り、「えーえー!」と庭の松に斬りつけ、酒肴を整えて島民を呼び集めて祝杯を挙げた、というのであります。
 西郷が、島にありながら、この知らせをいかに喜んだかがよく伝わってくるではありませんか。
 さて、ところ変わって、安政618591月に大島に入った西郷は、龍郷村(たつごうそん)の空き家を借りて自炊生活を始めていました。藩から6石扶持を受けて、村の子どもに読み書きそろばんを教え、好きな狩猟にも出かける悠々たる生活でありました。
 この時、島の娘、アイカナとの間に菊次郎を設けていますが、この菊次郎は後の京都市長になっているのであります。
 島の見聞役の計らいで18石扶持となり、その一部を島民にも分け与えたとありますが、最初は恐ろしげな容姿の西郷を敬遠した島民たちも、その自然児ぶりに徐々に引き付けられ、信頼も深まり、龍郷の先生として畏敬をうけるに至るのでありました。

 西郷が大島に入る間、薩摩では斉彬を崇敬する若い志士たちによって誠忠組が組織されていきました。菊池源吾、大久保一蔵、有村俊斎、有馬新七、高橋新八、西郷吉次郎ら49名の士で、維新の太い柱になった志士たちであります。
 誠忠組の誕生は、久光が斉彬を信奉する青年志士を取り込み、自らの天下的運動の野心を満たすための策であり、一方、それを承知の上で久光の策を利用しようとした大久保の妥協の策でもありました。
 安政51858に結ばれた日米通商条約は、関税非自主権・治外法権を内容とする不平等条約・反植民地的条約で、日本の首を徐々に絞めていき、攘夷思想も神国思想を中心とする排他的なものから、不平等条約が民衆を苦しめる条約であるから「攘夷」するという風に内容転換が起こっていました。
 この頃、薩摩藩でも、皇国復古の大業を成し遂げるためにと大久保らによって出兵東上策が練られていきます。
 こんな矢先の文久218621月、幕府老中の安東信正が水戸藩士らに襲われ負傷するという坂下門外の変が勃発します。
 皇国復古の大業を成し遂げるため、大久保らの策、薩摩から出兵・東上し、一橋慶喜、松平慶永を担いで幕政の改革に乗り出そうとしていた薩摩藩主・久光は、坂下門外の変勃発を機に、一挙に出兵東上を進めるべく、誠忠組の中心人物、西郷を大島から呼び戻したのであります。

 大島3年間の遠島生活の間に、諸藩を取り巻く環境や薩摩藩内の情勢も大きく変わっており、戸惑う西郷でありましたが、持ち前の正義感からかたちまち政治の渦の中に入っていくのであります。この辺が凡人でない西郷の西郷たる所以でありましょうか。
 久光に謁見した西郷は、時未だ熟せずと久光の上洛に反対し、不興をかうのでありますが、妥協案として、西郷は下関で待機するとの命を受け、鹿児島を発つのであります。
 しかし、西郷の登場を待ち受けていた志士たちは西郷に決起を促すのであります。情勢の変化を感じた西郷は、すっかり興奮し、久光の下関滞留の命を無視して大坂へ向かうのでありました。これまた西郷の西郷たる所以でしょうか。感性の人、西郷を象徴する場面でもあります。
 久光の到着を待たずして勝手に大阪入りしたことに加え、西郷を非難する久光側近を罵倒するに及び、再び「西郷は帰国、流罪」を申し渡されます。徳之島へ流され、ここで「沖永良部島へ遠島申し付ける」と、再び沖永良部島に移され、和泊(わどまり)村の牢獄に入ることとなったのであります。
 西郷二度目の遠島生活は、二坪ほどの獄舎で、戸も壁もない荒格子の作りで、半分は居所、半分は板で仕切った便所というものでありました。

 西郷は、髭は伸び放題で、衣服はあかづき、冷や飯と焼き塩の食事でやせ細っていましたが、悠然と座ったその姿勢は崩れませんでした。
 西郷のこの態度に胸を打たれた獄舎の番人、土持正照は財番所に建言して、新たな座敷牢を新築、入浴もできるようになったのであります。西郷は、この厚遇の中で、読書に没頭、時には島の若者や子どもたちに古今の武勇談を聞かせ、楽しんだのであります。
◆◆◆
 西郷が沖永良部島の座敷牢で生活していた文久31863は、長州改革派の台頭後、改良派の逆襲によって長州改革派は孤立化を深めるなど、時代の転換点特有な政治混乱の中にありました。
 そこに外圧が加わり、この年5月には長州藩がアメリカの商船を襲うという下関事件が勃発します。さらに、7月には生麦事件の処理をめぐって薩英戦争が始まったものの、逆に和平交渉の中で薩摩と英国は友好関係に発展していくのであります。
 8月、天誅組の変が発生し、大和五条の代官所が襲撃されます。翌日には818日の政変が起こり、薩摩と会津の組んだ公武合体派が尊王攘夷派の要人を京都から追放したのであります。
 9月、島津久光が東上、11月、一橋慶喜入京、12月、徳川家茂入京すると、元治元年1864の春は、公武合体派の勝利で終わり、将軍家茂は従一位に叙せられ、久光は朝議に列することとなったのであります。
 そして、この年の正月、公武合体派の行き詰まり打開の策として、大久保らの計らいもあり、西郷の赦免が決まったのであります。再び西郷の登場であります。
 吉井幸輔、西郷(さいごう)(つぐ)(みつ)らが迎えの使者として永良部島に到着したとき、ワクワクした西郷は斉彬拝領の羽織を探すのに手間どる有様であったと云います。
 鹿児島に戻った西郷は、まずは斉彬の墓参りを済ませ、疲れた体で京に向かい、久光に謁見、軍賦役を仰せつかったのであります。斉彬の秘密秘書役から久光の軍譜役となり、いよいよ、軍人としての西郷の活躍が始まるのであります。

 元治元年18646月 京都守護職配下の新選組が、長州藩などの尊王攘夷派武士を襲うという池田屋事件が発生します。そして、この事件発生は長州の上京を早めることになったのであります。
 719日、蛤御門で、皇居に押し寄せた長州勢を迎え撃つ朝廷方の主力は薩摩勢、そしてその軍賦役は西郷隆盛であります。西郷はこの戦いで足に弾丸が命中し、負傷しています。
 この後、征長の勅命が一橋慶喜に出され、総督は尾張の徳川慶勝、総参謀が西郷隆盛と決まりました。西郷は、この時中国・四国・九州23藩の大軍の総参謀となり、西郷の軍事的身分はここに決定的になったといえるでしょう。
 長州征伐にあたり、西郷は、ここで初めて勝海舟とあっています。当時の勝海舟は、咸臨丸による最初の太平洋横断に成功した後、軍艦奉行並みとなり、元治元年の頃には神戸に海軍操錬所を開き、盛んに天下の志士たちと交わっていたので、幕府ににらまれていたのであります。
 大坂であった勝はこの時、西郷に以下扇動をしているのです。
― 今は国内で争うときではない。幕府はもはや天下を統一する力がないので、むしろ雄藩の尽力で国政を動かし、幕府第一主義者の奸臣(かんしん)らに一撃を加えて、局面を打開し、国内の正しい統一を図るが宜しかろう、と。
 この時、西郷は勝の発言に大いに感激し、勝海舟は佐久間象山以上の人物と褒めたたえ、敬服したといわれています。
 西郷は、勝との会談で得た情勢分析のもと、「戦わずして勝つ」という方針を立て、自らの征長強硬論を捨て、長州、幕府、あちらもこちらもあいまいにしながら、いわゆる古い型の「腹芸」を駆使し、長州藩が一応形式的には伏罪するということで「解兵」までもっていったのであります。西郷の風貌と、その一本気な性格を背景とすると、効果満点となり、このような交渉術のできることが西郷の人気の大きな源泉であるといえるでしょう。そしてまた、この間に薩摩藩と長州藩との融和が整う道が開かれたのであります。
◆◆◆
 この後、長州では尊王攘夷派が藩の実権を奪い返すにあたり、幕府内では、第二次の長州征伐の意見が大勢を占めたのであります。
 しかし、西郷はこの時鹿児島に戻り、藩の態度を出兵拒否でまとめています。当時他藩に送った手紙に「私戦に出兵する道理はない」と、かなり反幕的立場に軸足を移していたことが分かります。このような中、薩摩と長州には対外関係において接近する機運が高まり、攘夷よりも藩力の強化を第一として幕府に対抗しようと武器の輸入を考えるのでありますが、長州は公然と輸入ができない事情から薩摩に接近することとなるのであります。この時、2藩の間に介在したのは言わずと知れた土佐の坂本龍馬でありました。
 元治元年1864,坂本龍馬は初めて西郷隆盛とあっています。
 この時、坂本龍馬は、西郷について次のように述べ大いに関心しています。
― 西郷は馬鹿なり。大馬鹿なり。
 然るに小さくたたけば小さく鳴り、大きくたたけば大きく鳴り、
 その馬鹿(バカ)の幅が分かり申さず。
 慶応21866121日、場所は京都の小松帯刀別邸。
 長州の木戸(たか)(よし)、薩摩の小松帯刀と西郷隆盛、仲介人の坂本龍馬4人による2藩の首脳会議が行われたのであります。
 しかし、双方から提携の話を切り出すことなく、会議は膠着しましたが、坂本竜馬がこの空気を吹き飛ばし、一気に薩長連合は成立なったのであります。
 この時の密約六か条は、大要、以下のとおりであります。
1つ、長幕に戦起こった場合、薩摩は兵を出し、京坂を固める
2つ、長州勝利の折には、朝廷に働きかけ立場を好転させる
3つ、もし負けても12年持ちこたえ、その間薩摩が尽力する
4つ、戦にならず幕兵が東帰したら、朝廷へ長州の無実を証明する
5つ、長州が京に進出した場合、これを拒むものがあれば薩摩は決戦を覚悟する
6つ、えん罪お許しの上は、双方誠心をもって相和し、皇国のため砕身尽力する
 六か条の要点は、今日より、皇国のため皇威を輝かすことを強調点の基本となし、外国に対応できる統一国家建設へと進もうとする了解点に達したのでありました。
◆◆◆
 薩長同盟がなると、西郷は帰国し、藩政改革と海陸軍拡張を進言し、根本政策となる人材登用・富国強兵策を推し進めたのであります。
 慶応218666月、将軍家茂は第二次長州征伐を開始します。
 火ぶたが切られましたが、長州の海軍総督、高杉晋作の軍は、幕府軍を撃破し、形勢は次第に好転していきました。また大村益次郎の洋兵術を駆使した戦略も功を奏し、いたるところで善戦し、幕軍は窮地に陥っていくのであります。
 7月には、将軍家茂が病死し、12月には孝明天皇が崩御します。
 12月、将軍宣下を受けた徳川慶喜は、天皇崩御を機に、征西軍の解兵を決意し、勝海舟を長州に派遣し休戦協定が成立するに至ります。
 そして、慶応318670に入ると、幕府はフランスの援助を受けて幕府の強化を図る動きを見せるのに対して、西郷、大久保は薩摩・土佐・宇和島・越前の四藩会議の開催を画策し、幕府権力を薩摩藩を中心とする諸侯会議に移すべく動き出すのですが、その歩調は遅々として進まず、西郷はいよいよ倒幕へと進むことになるのであります。
 四藩会議によって一気に事を運ぼうとして失敗した西郷は、長州藩からの密使に対して、兵力をもって突き進む決意を伝えたのであります。
― 京都藩邸の千人の兵を3隊に分け、1隊は御所を守り、1隊は会津邸を急襲、そして1隊は堀川辺りの幕府の屯所を焼く。国許からは、別に兵三千を上京させ、大坂城を攻撃し、軍艦を破砕する。江戸の千人は、水戸の浪士も加え、甲府に立て籠もり幕府軍の上京を阻止する。
 勝敗は期しがたいが、わが藩に続く藩あるを期待してやるつもりである。
 この一貫した西郷の決意が、大政奉還への傾斜の導火線となって、大政奉還の建白書が老中の手にする所となり、1014日、徳川慶喜によって有名な大政奉還の奏上が行われたのであります。
 しかし、西郷らは京都岩倉村に蟄居していた岩倉具視を担ぎ出し、天皇が日本の真の権力者であり、徳川幕府の秕政・悪政を突き、朝廷が今こそ大権を運用すべきと、1013日、薩摩藩宛ての倒幕の密勅をひきだしたのであります。翌14日には同文の長州藩宛ての密勅も交付されるに及び、ここに、幕府の命運は極まったのであります。
 129日、明治天皇臨席のもと、小御所会議が開かれ、王政復古の大号令が発布されるのでありますが、この日、土佐の山内容堂が「徳川慶喜以下を除外しての会議はいかがなものか」と主張し、会議が大いに揺れます。が、西郷の「今となっては口舌ではらちが明かぬ。最後の手段をとるべし。」と、“山内容堂を葬れ”との一断でことは決着します。ここに天皇政府が出発をしたのであります。
◆◆◆
 慶応4186812日、大坂方幕府軍は外国6国に薩摩藩主追討を宣言し、敵方への武器・軍艦供与の禁止を申し渡し、出発しました。
 しかし、朝廷の三職会議は、3日朝になっても会議は動かず、岩倉の断行論にも返答するものがいなかったのであります。この時、この静寂を破ったのが青年参与、西園寺公望でした。西園寺公望は「議論は無用。すでに倒幕の密勅があり、大号令が発せられた今、何の躊躇かある。この戦は私闘に非ず。大義名分のためである。」と放言するに及んで、大勢は決したのでありました。
 3日夜、錦旗・節刀を賜り、兵士は用意の錦切れを肩章(けんしょう)として進軍を開始。鳥羽街道で会津勢と衝突、鳥羽伏見の戦いはその戦端が開かれたのであります。
 しかし、錦旗輝く朝廷軍に対し、幕軍は混乱極まり、劣勢におびえた慶喜が大坂城を抜け出し、江戸に下ってしまっては、幕軍は音を立てて崩れ去ってしまったのであります。この時、西郷は伏見戦線、八幡戦線を視察しています。
 この後、西郷は、高輪の薩摩邸で勝海舟と会見を行い、当初慶喜切腹の線を主張していましたが、2日目の会見で、慶喜の取扱いについて隠居の上、水戸表謹慎とする黙約が生まれ、江戸城総攻撃を一時中止し、411日、江戸城を開城させ、朝廷のもとに移り、慶喜は江戸を去り水戸へ退隠したのであります。世に有名な江戸城無血開城であります。
 98日、慶応を明治と改元し、20日、明治天皇は京都を発し、1013日、江戸改め東京に入り、江戸城で親裁を始められたのであります。
 西郷は、1030日、軍功により太刀料金300両を下賜され、帰国した上、()当山(なたやま)温泉に浸って、自らの労を慰めたのでありました。
◆◆◆
 明治改元となった後、西郷は明治政府スタート時の政局混乱の中で翻弄されながら過ごすこととなります。西郷は、新政府の対立とごたごたが耐え切れないのであります。
 明治21869、新政府からの出仕を促されるもこれを固辞します。しかし、湯治中だった日当山温泉を藩主久光が直々に訪問し、藩政参画を要請されるに及び、これをしぶしぶ引き受けることにしたのです。
 その結果、藩政と島津の家政を分離し、内務局と知政所に分かち、その上に参政西郷が首相格に任じられたのであります。この結果、薩摩藩の新政府は、城下に歩兵4大隊と砲兵2大隊、地方に常備兵17大隊あまり、予備隊20大隊あまり、大砲隊91分隊という精兵を擁した組織となったのであります。
 翌明治3187010月、欧州視察から戻った弟、(つぐ)(みつ)に促され政治改革のため上京を決し、翌明治41月、鹿児島を出港します。この時、西郷としては、不満やるかたなき中央政府の政策を、得意の武力によって改革する良い機会であると考えたのでしょう。
 しかし、この年6月には参議に列し、政策を離れて機構いじりをしている間に、西郷利用の「廃藩置県」の議論・大転換が着々と進んでいたのであります。廃藩に伴う混乱を最小限に食い止め、藩士派の放棄を西郷によって抑圧しようとするのが大久保らの政策でありました。西郷が参議になったのが625日。そして、たった20日後の714日には、早くも廃藩置県が発表されたのであります。ここに一応の全国的統一が成し遂げられ、いわゆる天皇制絶対主義のスタートは切られたのであります。
 郡県制度に反対していた西郷が、わずか半年足らずで、木戸や大久保が唱える廃藩置県に、なぜ同意したのでしょうか。「思想を持たぬ政治家の悲劇」と言ってしまえば簡単なことです、後世の史家が言うように、“もともと西郷は政治家ではない”のであって、哲人、詩人、否あるいは高士といった方が良いのかもしれない。逆に、見通しの鈍い西郷は、この時担がれて政府の首座にあって、この廃藩を強行することで張り切っていたのであります。
 勝海舟は、西郷を評して、このように言っています。
― 西郷の人物を知るには西郷くらいな人物でなくてはいけない。俗物には到底わからない。あれは政治家やお役人ではなくて、一個の高士だもの…、と。
海舟は、西郷は俗性から離れた高潔な人物である、というのであります。
そして、明治518727月には参議兼陸軍元帥・近衛都督まで上り詰めています。そして、翌明治6年、徴兵令の実施に伴い元帥が廃止されると、陸軍大将兼参議となっているのです。
 しかし、自分の不在に付け入って発布された徴兵令は西郷の心事をひどく害したのであります。急遽帰国した西郷に、桐野から「いっそのこと、党中動揺の矛先を韓国に向けたら、どげんでしょうか。」との提案に、その腹が決まり、西郷は維新断行の糸口を征韓論に見出していくのであります。
かくして、西郷を中心とする征韓派と、岩倉、大久保らの内治派の白熱した論議は約半年にわたって繰り返されました。
 しかし、結果として、西郷の征韓論は破れたのであります。
 負けたとなるととにかく潔い。官職一切の辞表を書いて太政官に届け出ると、編み笠をかぶり、猟銃を担ぎ、犬を引つれ、下男の熊吉を連れて家を出たのであります。隅田川のほとりの小梅の里で猟や釣りを楽しんだ後、東京を去ったのが明治618731028日でありました。
 その時、西郷はこう言い残しながら去ったのであります。
― 「東京には一蔵どんがおりもす。
 おいどんがおらんでん、ちっとも心配はござりもはん。」
かくて、西郷は他日の悲願達成を私学校等の育成にかけていきます。
西南の風雲児、これより急を告げるのであります
◆◆◆ 
 鹿児島に帰った西郷は、再び「武村(たけむら)(きち)」として自然児の生活に帰り、馬を引き、肥料を運ぶ姿の西郷に戻ったのであります。
 しかし、当然のことですが、周囲に彼を取り巻く士族派の大群がおり、西郷の設計による新型の鹿児島県が存在するのであります。日本の大部分が一応は半封建制に代わったのに比べて、ここ鹿児島だけは見事に八割封建制が残っているのであります。新政府は曲がりなりにも資本主義的方向に進もうとするのに対し、ここ鹿児島は農民中心の士族政治が行われているのであります。しかも悪いことに、西郷の帰国以来、歴も太陰暦に戻し、租税すら中央政府に送らないという、いわば半独立の様相を呈し始めているのであります。
 そして、明治718746月、西郷は私学校と砲隊学校を創設します。
 土佐の板垣の立志社とは全く反対の、古めかしいものと言わざるを得ません。
 この頃、農耕に、狩猟に、そして子弟の世話にのみ務める西郷でありました。明治10年の初めに至るまでの、西郷の生活ぶりといえば、県の重要問題は後進に任せ、最後の一断だけを下し、あとは好きな温泉につかりながら、犬を連れての狩猟に心身を養うという生活でありました。
 私学校での教科は、精神訓話と漢籍の講読、加えて厳しい軍事訓練でありました。そして、西郷自筆の教育要綱は以下の通り記しています。
1 道同じく議(かな)うて以て暗に集合す、乃ちますます其理を研究して、道義に於いては一  身を顧みず必ず践行すべし
2 王を尊び民を憐れむは学問の本旨なり。乃ち此の理を究め、王事民義に於いては、一意  難にあたり、必ず一同の義を立つべし。
 この中で、西郷は「王事民義」と謳っているが、この意は王事に尽くすばかりではなく、人民のためにも奉仕せよとの意で、これが西郷の胸中に秘められていた理想主義の正体であったのではないかと思います。
鹿児島に戻ったときから、西郷には、世直しの意味で、機会があれば打って出るつもりはあったと思われるのであります。しかし、その機会というのは、現政府が外交その他の国政に行き詰まり、民衆に見放された時でなけれなければならなかったのであります。
 しかし、悠々たる西郷の百姓らしい生活のもとには、新政府に不満な薩摩隼人が群集し、事を好む私学校党の若者も少なくなかったのであります。
 私学校はたちまちその規模は膨れ上がり、1年後には本校へ毎日2000人が集まり、分校の生徒も合わせると、その数実に3万人にも達したのであります。そして、政府の懐柔と密偵の手が入るたびに、問題が起こり、対立は増していったのでありました。
◆◆◆
 私学校党の勢力は膨らむばかりで、反政府の気勢は燃え、もう爆発寸前でありました。
 そんな明治101877131日、政府は大阪鎮台から汽船赤龍丸を回し、弾薬庫から4000発の弾丸を積みだそうと、提灯の明かりで夜になっても、その作業を続けたため、私学校党の怒りを買いました。
「人家の立て込むところで何事か!」と、450人の生徒が押し掛け、抜刀して運搬を妨害、その銃砲弾を奪い去り、そればかりか、その夜、数百人の私学校生徒が赤龍丸を襲い、すでに積み込んであった弾約2000発も残らず奪って引き揚げたのであります。その翌日には、数千の暴徒が鹿児島の造船所を襲って、弾薬や雷管を奪ったのであります。
 この時、大隅半島の古根(こね)(じめ)で狩猟中だった西郷は、この報を受けて、「しまった!」と、口走ったといわれています。
 事態は戦争への第一歩を踏み出したのでありました。
 西郷にとって、立つべき時はまだはるか先にかすんでいました。今はまだ少し休みたかったのです。しかし、西郷にはそれが許されなかったのであります。
 「ああ大事は去った。おはんらに、わしの命を挙げ申そう」
と、西郷は公然と大山県令に出府の届け出をし、15000の兵を率いて国境を出たのであります。
 西郷は決して不平士族ではなかったのです。単身、鹿児島に帰ったのも、薩摩出身の近衛兵が自分を担いで東京で暴発するのを防ぐためでもあったのです。西郷の巨眼は、もっと先のこと、南下するロシアとの正面衝突、乃ち日露戦争がもはや避けられないことを見抜いていたと思われるのであります。
 ために、私学校をつくったのも、士族とその子弟に正道を教え、暴走を防ぎ、来るべき国難に備えるためでありました。
 しかし、西郷周辺に集まる士族たちの決起は高まるばかりで、もはや西郷をもってしてもその勢いを止める状況にはなかったのであります。
 武器と人数は官軍が優れ、士気は西郷軍が勝っていました。西郷軍は万事が古風で、官軍は重点主義に戦ったため、西郷軍が熊本城に固執している間に、西郷の牙城、鹿児島は海軍によって奪取されていたのであります。
 万事休した西郷は、残兵と命からがら鹿児島に戻り、城山の土屈に立て籠もることにします。
 西郷軍の鹿児島新発は、明治102月、城山での西郷自決は924日でありますから、戦闘は7か月以上にわたって続き、政府軍は熊本城周辺と田原坂に3か月以上も釘づけにされたのであります。
 924日早朝、官軍は「全員降伏か、さもなくば午前4時総攻撃開始」と伝えてくると、西郷は「回答無用」と、総攻撃の開始を待ったのであります。
 谷底めがけて殲滅戦の銃砲弾が集中投下されるや、西郷は洞窟を出て、弾雨の中に立ち、「さあ。そろそろ出かけるか。」と、島津応吉邸の前まで来た時、銃弾が西郷の腹とモモに命中します。
 「晋介ドン。もうここらで良かろう。」
 「そうでござりまするか。」
 ・・・
  「先生、お許しください。」
 紫電一閃、西郷隆盛の首は大地に墜ちたのでありました。

 講談、西郷隆盛、一巻の終わりでございます。
                                                 (了)
明治221889  罪が赦され、正三位を追贈
明治311898  上野の西郷像の除幕式
昭和121937  城山の銅像が除幕
平成21990   NHK大河ドラマ「翔ぶが如く」 主演 西田敏行
平成302018   NHK大河ドラマ「西郷どん」 主演 鈴木亮平

次回例会

 日時 511日(火)、1000分~1130分
 この日は午前に変更となります。ご注意ください
 場所 四條畷市立教育文化センター2階・会議室
 内容 講談「楠正行」
     第8回楠正行シンポジウムについて
     その他
傍聴、入会大歓迎!

 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターの2階ホールを覗いてください。お待ちしております。

正行通信 第126号はコチラからも(PDF)



四條畷 楠正行の会 第69回例会 

日時 令和3年3月9日(火) 午後1時30分より3時
場所 教育文化センター 2階 会議室1

●扇谷、講談調第2弾!講談「児島高徳」に挑戦!                   
2月例会は、初めての試み講談「足利直義」に挑戦しました。
 授業に近い講義スタイルよりも、気楽に楽しく聞いていただけたと好評をいただいた(?!)ことから、今月取り上げる「児島高徳」の勉強も、講談の第2弾として挑戦しました。
 前作同様、約1時間の講談調?!でしたが、前回よりも慣れ、分かりやすく語れたようです。
 今月も脚本をアップしていますので、ご参考にしてください。
 
うれしい新会員、一人を迎えました。

 久々の入会がありました。2月入会ですが、お仕事の関係で、今月が初参加の女性です。
 聴いてびっくり!
 この会員は、宝塚の大フアンで、5月が引退公演となる大好きなスターが、正行を演じるということが動機で、私たちの会の存在を知ったとのことです。
 宝塚歌劇の公式ホームページに、514日からの公演「桜嵐記」の案内が出ています。楠正行通信第108号で紹介しましたが、コロナ禍のため延期となっていた公演が、珠城りょう・美園さくらの二人が正行・弁の内侍を演じます。
 関心のある方は、ぜひ、宝塚公式ホームページをご覧ください。


          受講の様子

楠正行通信 第125号 39日発行
 二頭政治から観応の擾乱、そして鎮魂と供養
 室町政権の基礎を築いた直義の生涯
 正行の会、初めての試み講談「足利直義」上演

 講談「児島高徳」
(資料) 児島高徳年表
     児島高徳の生涯をたどる軌跡
     おかやま人物往来㊺ 児島高徳
     ~岡山県総合文化センターニュース掲載
 1) プロローグ
 2) 序章 ― 児島高徳プロフイール
 3) ― 船坂峠、後醍醐救出の試み
 4) ― 隠岐の島、後醍醐島抜けのこと
 5) ― 建武政権混乱期の高徳のこと
 6) ― 南北朝時代突入期の高徳のこと
 7) ― 興国年間、諸国に転戦した高徳のこと
 8) ― 高徳、正平年間の戦いのこと

講談「児島高徳」脚本全文


 講談 「児島高徳」
原作 火坂雅志
    小学館文庫 「太平記鬼伝 児島高徳」
参考 鈴木 (ゆう)   勉誠出版 「完訳太平記」
    岡山県総合文化センターニュース
    「おかやま人物往来㊺」

    藤井駿   山陽新聞社「吉備地方史の研究」
    井上良信 京都大学学術情報リポジトリ「太平記と領主層:南北朝時代における畿内     の戦力について」
脚本 扇谷 昭

― エピローグ

 前回の足利直義に続き、本邦初公開、講談の第二弾は、児島高徳であります。
 どのようなことになりますか、お付き合いのほどよろしくお願いします。

 この児島高徳ですが、国史上、その存在が疑われる時期もありました。明治二十年代の重野講演や久米論文による児島高徳抹殺論がその端緒でありました。
 しかし、明治四十年代に入り、田中養成が「歴史地理」に高徳復活論を唱えたことを皮切りに、高徳実在論が有力となり、大正十一年、八代国治の「児島高徳史疑」発表によって復活論はほぼ定着を見るのです。
 そして、藤井駿は「吉備地方史の研究」の中で、太平記以外の周辺資料、とりわけ児島高徳の一党といえる今木・大富両氏の史料によって、児島高徳を実在の人物とした論文は児島フアンにとって必読の書といえるでしょう。藤井は、児島高徳と同じく、「太平記」以外の文書記録にその名の発見されなかった今木・大富両氏の根本史料、東大寺文書の中に発見し、その分析によって児島高徳の実在は明らか、と実証したのであります。
 また、京都大学の井上良信は、太平記の史料的価値を分析する論文の中で、太平記の土豪クラスの氏名は、確実な素材立脚による記述で、氏名の正確さを物語ると主張し、児島高徳についても、今木、大富ら一族同様に、備前邑久郡の土豪であったことは確認できる、としています。
 もちろん、本日は児島高徳実在論に基づいてお話を進めさせていただきます。

 さて、正成、正行、正儀らの楠氏は、いわば吉野朝との関りでは表街道を歩み続け、その名を歴史に刻み残し、多くの人に知られる存在となったことに比べまして、これほど、歴史の表舞台には登場せず、しかし、吉野朝のありとあらゆる場面に関わりながら、後世に名を知られてこなかった、いわば吉野朝の裏街道を、ただ「義」一筋に走り続け、影の様な存在として生きた人物、児島高徳には驚きを飛び越え、感嘆を禁じ得ないのであります。
 いわば、歴史の大転換点となった日本史上の三大改革、大化の改新、建武の新政、明治維新の一つに数えられる建武の新政の発端となった、後醍醐天皇の隠岐脱出を見事成し遂げたことに始まり、早くからの足利尊氏からの誘いを受けるも己の「義」ゆえに断り、建武の新政では尊氏と対立抗争を繰り広げる護良親王を支え続け、北国に墜ちていった新田義貞、脇屋義助の軍司として同道し助け、足利政権が内部の対立抗争で揺れ動く中で大いに翻弄されることとなった後村上天皇の政務の支えとなり、更には後村上天皇の意を受け九州に下り懐良親王の九州征政府樹立に貢献するなど、これほどに南北朝時代の要・要の時期・事柄・人物を支え続け、活躍した人物を知らないのであります。
 岡山県は児島をスタートに、東は陸奥の国、西は薩摩の国と、生涯をかけて、日本全国その歩いた距離は、戦国時代の大名に比べてもびっくりするほどの長さになるのではないでしょうか。
 私は、児島高徳こそ、南北朝時代を知り尽くし、吉野朝一筋に支え続けた「裏吉野朝」といえる一時代を画した人物として、改めて世に知らしめたいと思う次第であります。
 しかし、不思議なことに、正成、正行の楠氏との接点は驚くほどないのです。
 しかも、修験の道や水運に携わるなど、高徳は楠氏に極めて近似し、近しい存在であったと思えるのに、であります。
 
― 序章 児島高徳プロフイール

 太平記、船坂峠の件で有名な児島高徳ではありますが、他の資料・文献にその名が登場せず、実に不思議な人物であります。
 その太平記の中でも、児島高徳は、児島備後三郎高徳、児島備後三郎、児島三郎高徳、児島備後(びんごの)(かみ)高徳、三宅三郎高徳、今木三郎高徳など実に様々な名前で登場します。また、「児島ト河野トハ一族ニテ」とあり、「児島、今木、大富が兵船を揃えて」上洛する件が見えますことから、高徳は、和田氏や邑久郡豊原荘の地頭でありました今木・大富両氏や伊予の河野水軍とも同族関係にあり、瀬戸内海に足掛かりを持っていたと考えられています。
 また、高徳には単独もしくは少人数での行動が多く、主に偵察や攪乱、連絡などが主な任務でありましたようで、太平記の「三宅・萩野謀反の事」の件では、将軍を暗殺するため京の都に向かうシーンの高徳の配下にいた人物について、「究竟(くっきょう)の忍び」「元来死生不知(しらない)者共(ものども)」と書かれていますことから、高徳は忍びの統率者であったことを思わせます。また、高徳の拠点が児島にあり、この児島は五流山伏の本拠であったことを併せ考えますと、高徳は修験道に関係した人物であったことが推測できるのであります。
 いずれにしましても、冒頭に申し上げました如く不思議な人物であったことは間違いがないようであります。そして、播磨・備前・美作(みまさか)三ヶ国の備作(びさく)地方では、多くの武士が南北朝の内乱期に北朝側に転じて生き延びましたが、児島・今木・大富・和田各氏は一貫して吉野朝側につき、早く歴史の舞台から姿を消していきました。
 児島五流系図によりますと、高徳の父は、児島五流筆頭の(そん)滝院(りゅういん)を継いだ(らい)(えん)、母は備前邑久郡豊原庄の武将、和田備後二郎(のり)(なが)の娘で、三男一女の三男でした。母方の和田家は、東大寺領豊原庄の庄官を務め、瀬戸内海の水運にも携わる備前きっての富裕な家柄でありましたが、範長に男子がいなかったことから、7歳の時、和田家に養子に入り、和田備後三郎高徳と名乗るようになったのであります。
 
 さあ、それでは、南北朝時代のありとあらゆる場面に登場し、吉野朝のいわば裏方として全国を駆け巡って活躍しました、児島高徳の物語をお聞きいただきましょう。

― 船坂峠、後醍醐救出の試みのこと

 元弘二年(1332)三月、元弘の変失敗により笠置城が落城し、囚われの身にあった後醍醐は隠岐に配流(はいる)されることになります。
 千葉介(さだ)(たね)、小山五郎左衛門、佐々木堂譽が道中の警護を命じられ、東洞院から南へ向かう後醍醐の姿を見た京中のあらゆる人々は、「臣下の身でありながら、天下の主であるお方をお流し申し上げるとは、嘆かわしいことよ。幕府の命運もこれまでか」と、(はばか)りなく云う声が巷に満ち、嘆き悲しんだのであります。
 後醍醐は、桜井の宿を過ぎるとき、東に見える石清水八幡宮を伏し拝んで、再び京の都に帰還できるようにと祈ったといわれています。一行は、湊川から須磨の浦、明石の浦、高砂と進み、杉坂峠を越えて美作(みまさか)の国、今の岡山県津山市に入ります。ここでも、後醍醐は伯耆大山を眺め、真摯な心と深い思いを込めて経文を唱えたといわれています。
 この時、本日の主人公、児島備後三郎高徳は、備前の国にいました。

 「論語にもある。何が正義かを知りながら、それを行動に移さないのは勇気がないからだ、と。ここは、いざ行幸の道中でお待ち申し上げ、(みかど)を奪い取り申し上げて大軍を起こし、たとえ(しかばね)を戦場にさらすとも、我らの武名を子孫に伝えようではないか。」
 「おおー
 「では、帝が通られる備前と播磨の境界、船坂峠で隠れ伏そう。」

 が、後醍醐一行は、山陽道を経ずに、播磨から山陰道に入り、既に津山・院の庄に入ったというのであります。
 船坂峠に集結した高徳一行は、やむなく撤退ということになりますが、高徳の帝への思いは募るばかりで、せめて高徳の気持ちを帝に伝えたいと、姿を変え、院の庄・後醍醐の宿所に忍び込みます。しかし、拝謁はおろか、近づくこともままならず、止む無しと、庭の太い桜の幹を削って、大きな文字で詩を一句書きつけたのであります。

 「天莫空勾践 時非無范蠡」
 天勾践(こうせん)(むな)しうすることなかれ 時に范蠡(はんれい)なきにしもあらず と刻したのです。
 この文意は、「天よ、中国春秋時代の越の王、勾践を見捨てないでください。あるいは范蠡の様な忠臣が現れるかもしれませんから」、ということで、隠岐の島にも范蠡の様な忠義者が必ず現れますので、決して気落ちせず、希望をもって生きてください、と高徳の思いを伝えた一句でありました。
 警固の武士たちはこの一句を見つけますが、誰一人、その意味が分かりません。図りかねて、後醍醐にこの出来事を伝えました。すると、後醍醐は直ちに詩の意味を悟り、ひときわうれしそうな表情になって、笑みを浮かべたのでありました。
 世に有名な高徳、船坂峠、天勾践の件であります。
 そもそも、この詩のいわんとする所は、中国の春秋時代、呉と越という国があり、何十年と戦い続けていましたが決着がつきません。しかし、今はその時ではありませんと范蠡が止めたにもかかわらず、越の王、勾践は范蠡の諫言を振り切って戦いを仕掛けます。が結果は遂に、呉の王、夫差(ふさ)が勝ち、越の王、勾践の妻で天下に二人といない絶世の美女であった西施(せいし)を差し出させ、豪華な御殿を建て、快楽にのめりこみ、国政には耳を貸さず、酒宴を重ね、情欲にかられるままに日々を送っていました。
 このように、国政が乱れる(さま)に絶望した、呉王、夫差の家臣、伍子胥(ごししょ)は「敵と戦うのはもちろんのこと、主君に逆らってお諫めし、忠臣としての道義を全うして死ぬのは臣下の取る道であります。どうか私の目を(えぐ)り出して東門に掛け、首をはねてください」と申し上げたので、諫言に反省するどころか逆に夫差は怒り、いわれるままにしたのです。
 この事を伝え知った范蠡は、「いよいよその時が来た」と、自ら大軍を率いて呉国へ攻め入り、夫差を捕らえ、顏をさらして東門を通り過ぎます。その時、伍子胥の両目はカっと見開き、夫差を見て笑っているように見えたといいます。呉の兵も誰一人涙を流す者もおらず、夫差は会稽山(かいけいさん)の麓で首をはねられたのであります。
 世のことわざに、「会稽山の恥を注ぐ」とはこのことを言うのであります。
 高徳は、この一句を刻すことで、越王を後醍醐に、范蠡を高徳に見立て、必ずやお助け申し御上げますとの強い思いを伝えたのでありました。
 この話は、院の庄の忠臣児島高徳の故事として広く知られ、すでに江戸時代の貞享五年(1688)には、津山森藩の家老、長尾勝明がこの事を顕彰して「院庄(のこし)(ぶみ)」を遺しているほどであります。

◆会員の辻総一郎さんに吟じていただきました。

詩吟  児島高徳桜樹に書するの図に題す
     斎藤監物 1822~1860
踏破千山萬嶽煙  踏み破る千山(せんざん) (ばん)(がく)の煙
鸞輿今日到何邊  (らん)輿()今日(こんにち) (いず)れの(へん)にか(いた)
單蓑直入虎狼窟  (たん)()(ただ)ちに()る 虎狼(ころう)(いわや)
一匕深探鮫鰐淵  一匕(いっぴ)深く(さぐ)る (こう)(がく)(ふち)
報國丹心嗟獨力  報國の丹心獨力(どくりょく)(なげ)
回天事業奈空拳  回天の事業 空拳(くうけん)(いか)んせん
數行紅涙兩行字  (すう)(こう)紅涙(こうるい) (りょう)(ぎょう)の字
附與櫻花奏九天  (おう)()附與(ふよ)して 九天(きゅうてん)(そう)す

― 隠岐の島、後醍醐島抜けのこと


 さて、隠岐の島に後醍醐が配流(はいる)され早二回目、元弘三年(1333)の正月を迎えました。
 この頃、隠岐にあった高徳らのもとには、河内の国では死んだと思われていた楠木正成が再び反幕を掲げて立ち上がったとの情報や、播磨では赤松円心が、更には伊予では河野一族や土居、得能らの武将が挙兵の準備を整えているとの情報が続々と入っていました。
 荒れ狂う海を眼前に、海士村の番小屋には、高徳を始め児島五流の山伏たちが漁師姿に身をやつし、横座になって十数人が集まっていました。

 「先日、千草忠顕様にお目にかかることができた。帝は、今の境遇に苛立ちを感じておいでの様子とか…。」
 「たとえどのような危険を冒してでも、帝は一刻も早く島を抜け出し、諸国の味方と合流したいと仰せとのこと。」
 「どうする。高徳殿。」
 「海はあれている。・・・春にならねば船は出せぬ。」

 そして、何よりも島抜け成功のためには準備を怠ってはならなかったのであります。
 高徳は、まず、船の準備や屈強な漕ぎ手となる水手衆を確保するため隠岐村(おきむら)上家の村上行氏の助力の約束を取り付けます。次に、伯耆では帝を受け入れてもらう名和長年とも気脈を通じた上で、決行の日を待ちました。
 そして、穏やかな東北島、アイの風が吹き出した二月二十三日、救出作戦を決行したのであります。
 高徳の立てた作戦は、ちょうど、臨月を迎えた三位の局、阿野廉子を隠れ蓑にして、島抜けを行うというものでありました。

 「そなたは産所より迎えの者か。」
 「はい。」
 「遅かったではないか。三位の局様がお待ちかねぞ。」
 「はい。」
 ― そして、身持ちの三位の局を乗せた輿が門へ向かうと、
 「待て! 下すだれが妙に膨らんでおる。改めさせてもらう。」
 「なりませぬ。臨月の大切なお体。手荒な真似をして帝のお子に万一のことがあってはいかがなさる。」
 「おお…。 早く行け!」
 後醍醐と三位の局を乗せた輿は、間一髪のところで、無事黒木御所の門をくぐり、更に守護所の大手門を抜け、やっとのことで外へ出ると、一目散に山越えの麓までたどり着きました。

 「恐れながら主上。ここからは輿を()り、(かち)にて山を越えていただかねばなりません。」
 「何を申すか。輿を使え!身の程もわきまえず、帝に指示をするような口を利くとは、何たる()れ者。」
 「痴れ者はどちらですかな。」
 「なに!」
 「無理を言うでない、少将。朕は皆とともに歩く。一刻も早く島を抜け出すことが肝要ぞ。」
 「はっ。」

 千草忠顕が(ぬか)づき、主導権をとった高徳の先導で山越えし、浦郷の湊で待っていた村上家の(こも)(ぶね)に乗り込み、出港するや否や、隠岐守護所も2艘の船を繰り出したのであります。何とか瀬戸へ誘い込み、敵の船を難破させ、後醍醐を乗せる船が名和の湊に入ったのは、翌朝でありました。

 さて、児島五流山伏ですが、備前の国児島を本拠とする彼らの祖は、紀州熊野本宮にいた長床(ながとこ)衆と呼ばれる山伏で、平安時代末期、瀬戸内海交通の要衝であった備前の児島に移り住んだのが始まりでありました。
 畿内と九州を結ぶ海上交通の要を抑えた五流山伏の勢威は、やがて熊野の本山をしのぐようになり、独立した一大勢力となり、巨大な経済力、軍事力を有するようになります。五流山伏の棟梁といえる長床(ながとこ)老衆を務めるのは(そん)(りゅう)院、伝法院、太法(たいほう)院、報恩院、建徳院の五つの寺院で、鎌倉時代、隠岐に配流となった後鳥羽上皇の第四皇子、冷泉宮(れいぜいみや)(より)(ひと)親王の長子道乗(どうじょう)が座主の座につき、残る五人の子どもたちにそれぞれ五つの寺院を継がせたことから、朝廷ともかかわりが深く、諸国の山伏の中でも特異の地位を占めるようになったといわれています。
 高徳の父は、(そん)滝院(りゅういん)を継いだ第二子(らい)(えん)で、後鳥羽上皇の孫にあたる人物なのであります。
 なお、諸国に山伏の巣くう霊山は多く、実に百数十か所を数えます。
 それらは京都聖護院の管轄する熊野系の本山派と、醍醐三宝院の管轄する真言系の当山派に分かれていました。良く知られているところでは、陸奥の岩木山、出羽三山、東海の霊峰富士山、北陸の白山、畿内では愛宕山、吉野山、信貴山、金剛山、熊野三山、中国の書写山、伯耆大山、四国の剣山、九州の阿蘇山・・・といったところでしょうか。

 さて、この年四月、京都市中で行われた合戦で思うような戦果も得られず、後醍醐は千草忠顕を頭中将に任じて、官軍の大将として京都へ向かわせました。この軍勢は伯耆を出るときわずか数千騎であったものが、途中各地で軍勢が馳せ加わり、二十万騎を超えたのであります。
 この時、千草忠顕は、大軍が集まったことに(おご)り、手柄を独り占めにしようと、なんと四月八日早朝、単独で六波羅へ攻め寄せていったのであります。
 
「今日は、お釈迦様が生まれた日。よりによって精進すべき日に合戦を始めるとは・・・」

と、京の人々はあきれ返ったのでありました。
 案の定、六波羅勢の勢に押し返され、桂川まで退却をしましたが、この時、高徳と名和の軍勢は一歩も退かず、一進一退を続け、戦い続けたのであります。そして、千草忠顕は「山城の国まで後退し、今一度軍勢を整えよう」と下知しましたが、高徳は、「この陣を今下げるのはよろしくない」と踏みとどまることを進言、自らは七条にとどまり警備を強化したのでありました。
 深夜になって、高徳が峰の堂の本陣の方に目をやると、星のように輝いて見えていたかがり火があちこちでスーと消えていくではありませんか。高徳は、大将千草がいるはずの峰堂の寺の本堂に急ぎ行ってみると、よほど慌てて逃げていったのか、錦の御旗や(よろい)直垂(ひたたれ)まで捨てられているさまでした。
 「こんな大将のもとで戦ってきたのか」と、悔やまれ、腹を立てながらも、急ぎ下山し、丹波、丹後、出雲、伯耆へ退却していく軍勢と合流し、丹波の国、高山寺の城に立て籠もったのであります。
 千草は、いつ敵が夜討ちを掛けてくるかもしれないと不安になり、八幡を指して逃げてしまっていたのであります。
 高徳と千草は、後醍醐救出劇の出会いのときから衝突をしていますが、義を第一に果敢に行動した高徳と、公家という身分を笠に着た実力のない千草の違いがよくわかる場面であります。
 
― 建武政権混乱期の高徳のこと

 京の都に戻った後醍醐は、この年の六月、建武の新政を始めます。
 しかし、この建武政権は、出発当初から、それぞれ思惑の違いからか、天皇親政を目指す後醍醐と、尊氏の武家政権樹立の動きを阻止しようとする護良親王、そして武家の棟梁を任じ武家政権を目指す尊氏との、三者の思惑が衝突する極めて不安定な政権でありました。
 火坂の書いた「児島高徳」では、高徳は、この年十月、護良親王に会い、「尊氏邸に侵入し、足利(いえ)(とき)置き文、遺言状を盗み出すべし。」と、密命を受けています。この置き文は、世に有名なもので、「わが(いえ)には八幡太郎義家が七代の伝え有…」と、この遺言の七代にあたる家時が武家の頭領の地位に登れなかったことから、家時の三代目、即ち尊氏時代に頭領たれと言い残し、自害をしたといわれる置き文を盗んで来い、と命じられるのであります。
 高徳が首尾よく盗んだ置き文は、この小説の中では、後醍醐によって尊氏に示され、尊氏の思惑に対して大いにけん制をする場面として描かれています。
続けて、護良親王から密命の第二弾を受けています。
 「吉野山山中を探索し、『(かね)御嶽(みたけ)』を探し出して来い!」 というのであります。要は、軍資金調達を命じられたのであります。
 小説では、高徳は吉野山山中深く入り込み、(かね)の御嶽を守る井光(いびか)の里で、そこの長老から盟神探場(くがたち)の洗礼を受けます。本当に宮の使いの者かどうかが試されるのであります。盟神探場(くがたち)とは、古代、事の真偽を明らかにするため、煮えたぎった湯窯の中に手を入れた神事で、正しい者は手が(ただ)れず、よこしまな者は大火傷(やけど)をすると云われたものであります。
 この時、高徳は、「ええイッー!」と一瞬にして煮え湯に手を突っ込み、見事、窯の底の小石を拾い上げるという件となっていますが、その仕掛は、ガマの油に(むらさき)(ぐさ)(さん)梔子(しし)などの薬草を練り合わせた(ねり)(こう)といわれるものを、指先からひじに掛けて塗り付け、肌に油の膜を作り、難を避けたのでありました。
 しかし、探索の結果、(かね)の御嶽は先人、大海人皇子、後の天武天皇によって掘りつくされたとのことで、高徳は黄金を手にすることはありませんでした。
 この後、高徳は護良親王を支えるため、事態打開に向けて諸国の山伏の根拠地を訪ね、合力を求める行脚の旅に出てまいります。
 建武元年(1334)夏の終わりごろ、ある者は富士へ、ある者は北陸へ、ある者は美作・中国へ、そして高徳は出羽三山へ向かうこととし、「よいか。再び三か月後、京に集まるのだぞ。」と五流山伏は諸国へ散って行ったのであります。
 数千人の山伏がいるといわれる羽黒山(はぐろさん)月山(がっさん)湯殿山(ゆどのさん)の出羽三山では、当地の山伏たちは、高徳を概ね好意的に迎えてくれたのであります。
 そして、さらに足を延ばし陸奥にも出向き協力の約束を取り付けた高徳に、思わぬ情報がもたらされるのであります。

 「大変なことになりました。」
 「一体、何があったのだ。」
 「宮様。大塔の宮が、足利の奸局(かんきょく)()ち、捕らえられました。」
 「なにっ!」
 「去る十月二十二日、清涼殿に参内した護良親王を、結城親光、名和長年が捕縛し、数日を経ずして親王の身柄は尊氏に引き渡され、おそらくすでに鎌倉に移されたものと存じます。」
 「待て。京には親王と親しい楠殿がおられるはず・・・。」
 「楠殿は、北条残党成敗のため紀州、飯盛山に出陣の折だったとのことです。」
 「尊氏め、諮ったか。」

 「無事でいてくだされ…。」と、高徳は祈るような気持ちで、鎌倉目指して闇の中をひた走りに走ったのであります。
 ここは相模、江ノ島。

 「で、宮は、今いずこに。」
 「宮様は、二階堂ケ谷(にかいどうがやつ)の東光寺・土牢に幽閉されておいでです。」
 「寺の土牢とな?」
 「ただ押し込めただけではござらぬ。直義の命で、宮のお食事に少しづつ鴆毒(ちんどく)が仕込まれているとのことです。」
 「それは確かか。むごいことをする。」

 高徳は、直ちに策を講じ、警護の者たちが混乱に陥っているうちに、土牢に忍び込んだのであります。
 体力が消耗し、やせ細った護良親王を配下の者に背負わせ、牢の外に出ると、富士山中の村山修験の根拠地にお運びしましたが、多くの山伏たちの必死の手当ての甲斐もなく、一ケ月後、護良親王は宿坊の一室でひっそりと息を引き取ったのであります。
 高徳、生涯忘れることのできない護良親王、最期の言葉は
 「国を治める者にとって、最も大事なことは”民をいつくしむ仁愛の心”でなければならない。戦ってくれ、高徳。
 敵は大きいが、誰かが戦わなければ、この国に信義というものがなくなる。信義無き国は亡びに向かう。頼んだぞ・・・。高徳!」
 というものでありました。
 護良親王、二十八年の激しくも短い生涯でありましたが、高徳、生涯忘れることのできない別れとなりました。

― 南北朝時代突入期の高徳のこと

 建武二年(1335)七月、最期の執権北条高時の遺児、時行が信濃の国で挙兵し、鎌倉に迫りました。いわゆる中先代の乱の勃発であります。
 出陣した直義が敗北し、三河に逃げ帰りますと、尊氏は、これ幸いと直義救援を名目に東国に下り、北条残党を蹴散らすや、そのまま鎌倉に居座り将軍然とした態度で、武家政権樹立の志を明らかにしたのであります。
 後醍醐の行った(まつりごと)は、武士の思惑と大きくかけ離れ、天皇・公家中心の、時代に逆行するものでありました。
 「朝敵、尊氏を討て!」と、後醍醐は尊氏追討軍を送りますが、惨敗し、逆に尊氏軍が京に攻め込み、後醍醐は比叡山に逃れたのであります。が、楠正成らの活躍と、奥州から駆け付けた北畠顕家の大軍参戦もあり、京都市街戦に敗れた尊氏、直義は九州へ墜ちていくのであります。
 
 尊氏が九州へ墜ちたことに力を得た後醍醐は、中国地方を抑えようと新田義貞を総大将とする軍勢を山陽道に派遣します。しかし、船坂峠に立て籠もる足利軍の先遣隊に阻まれ、西進を食い止められたのであります。
 京都市街戦では動かなかった高徳でした。
 その胸中は、このようなものでした。
 
― 足利の大軍と楠、新田らの宮軍が入り乱れて戦う大合戦に加わったとて、今の自分に何ができる。何れ、自分の力が必要とされる時が必ずやってくる。それまで待とう。
 高徳は、「時が来たか」と、静かな闘志を胸に刻むのでありました。
 早速、新田勢が本陣を置く船坂峠東麓に向かった高徳は、ここで初めて新田義貞の弟、脇屋次郎(よし)(すけ)に会うのでありました。

 
「児島殿。兄、義貞は赤松殿のもとへ出向き留守故、お話しはそれがしが。」
 「されば。今日は一つ献策に参った。差し出がましいようだが、地の者ゆえお許しいただきたい。」
 「遠慮はご無用。して・・・。」
 「間道を使われよ。」
 「それは無理だ。」
 「我ら地の者でも知らない間道が一つある。この梨ケ原から、峠の南側を通り、敵陣の裏側へ出る山伏(やまぶしの)(みち)でござる。藪に覆われた獣道(けものみち)でござるが、通れぬことはござらぬ。」
 「ありがたい。早速、兄義貞に相談の上、兵を動かしまする。」
 「それがしも助力つかまつる。」

 この後、高徳は船坂峠から四里ばかり離れた熊山の霊仙寺(りょうざんじ)に立て籠もったのであります。「高徳、熊山にて挙兵」の報は、すぐに足利軍にも伝わり、慌てた足利勢は半分の兵を熊山に差し向けたのですが、高徳は、楠張りに大石、大木を転がし、足利軍を翻弄、その間に間道を抜けた新田勢が本隊を急襲し、作戦は見事成功したのであります。
 しかし、熊山の(いただ)きから足利勢が逃げ墜ちるのを見ていた高徳が、突然、敵襲を受けるのであります。
 尊氏の放った追手でありました。
 不意を突かれ、突然襲われたので、この時、不覚にも高徳は膝を守る大立挙(おおたてあげ)(すね)()ての横面を(やいば)がざくりと()んでしまったのです。「まずい…」やられると思った瞬間、追手の姿はそこにはなかったのであります。間一髪、味方が駆けつけたのでありました。
 高徳の傷は悪化しました。
 しかし、船坂峠を陥落させて二十日後、尊氏が東上してきます。そして五月十五日、児島の(こおり)の湊に入るとの知らせが舞い込んできます。
 高徳は、僧医の止めるのも聞かず、添え木を当て、馬上の人となって熊山から三里離れた青江の浜に着き、葦原(よしげん)に身を伏せたのであります。
 しかし、船坂峠から進軍していた新田勢の福山城が陥落したとの知らせが入ります。新田勢はすでに敗走し、義助から加古川まで撤退されたし、との伝言が入るに及び、海上には尊氏の軍が溢れ、その上、陸路まで直義に抑えられたとあっては一大事と、全軍に撤退を告げ、船坂峠まで戻ります。が、峠はすでに足利勢に占拠され、新田勢の姿は影も形もなく、播磨の国へ向かうのでした。
 馬に揺られているうちに、忘れていた右脚の痛みがぶり返してきたのであります。「南無三・・・」と短刀を脚に突き立てると、血(うみ)がビューッと飛び、膿を出すと足が軽くなりましたが、朦朧(もうろう)とするばかりでした。
 高徳は、加古川へ行くのは無理と、播州、坂越の妙見寺という寺に運び込まれたのであります。
 ここ坂越浦は美しい湊で、妙見寺は坂越の湊を見下ろす宝珠山の中腹に築かれた真言密集の寺で、十六の坊舎と九つの庵、鐘楼が建ち並び、海辺から眺めると坊舎の白壁が朝陽、夕陽を受けて金色色に輝いて見えたものでした。
 半年ほどで脚も回復し、ある日、警護のものと剣術げいこをする高徳を、義助が訪ねてきたのであります。

 「ここは良い眺めだの。ところで児島殿、先ほどの技は・・・。」
 「おお、早業の事か。」
 「早業?」
 「脇屋殿がご存じないのも無理はない。我ら山伏に伝わる秘伝の武芸じゃ。」
 「さすが。児島五流の嫡流だ。…それは、ともかく、ぜひとも児島殿のお力をお貸しいただきたい。」
 「今は先の戦で一族郎党を失い、従うのは児島五流の山伏のみ。いったい何ができるか…。」
 「我らが必要とするは軍勢ではない。児島殿の知略よ。」
 「知略…。」
 「児島殿。我ら新田軍の戦索(せんさく)文事(ぶんじ)を務めてはくれまいか。」
 ― 要は、新田軍の作戦参謀を務めてほしい、とのことでありました。
 「・・・参ろう、京へ。」
 「おお、来てくれるか。ありがたい。」

 尊氏が入京、後醍醐が吉野に潜幸し、南北朝時代に入った延元元年(1336)末には、新田義貞らは北国に下っていたのであります。
 延元二年(1337)、高徳は北国にありました。しかし、高徳らは北陸で苦しい戦いを強いられ、立て籠もった越前金ヶ崎城は半年で落城、そして藤島城の戦いで総大将新田義貞が流れ矢にあたり不慮の死を遂げたのであります。
 翌延元四年(1339)八月には、後醍醐が吉野で崩御、存在感の大きいカリスマを失った吉野朝の劣勢は明らかで、高徳、義助らの北陸の攻略も遅々として進みませんでした。
 この頃の心情を、高徳は漢詩に残しています。
 東風吹暖入家家 (東風暖ヲ吹テ家々ニ入ル)
 想像九塵裡嘩 (休衢(きゅうく)ヲ想像スレバ塵裡(じんり)カマビスシ)
 不識世間春色遍 (()ラズ、世間春色ノ(あまねき)ヲ)
 旧残火去年花 (旧爐ノ残火ハ去年ノ花)
 詩の意は、「暖かい二月の東風(こち)が家々に吹き込む季節になった。しかし、騒乱に満ちた都を想えば、あまねく春がやって来たことに気づく者はいないであろう。古い(いろり)の中の残り火が、去年咲いた花を思い出させる。」というものであります。
 後醍醐の死は、高徳に格別の思いを惹起させたものと思います。高徳の戦いは、隠岐へ配流される帝を船坂峠で救い出そうとしたことに始まったのでありましたから。後醍醐の挙兵がなければ、鎌倉幕府は倒れず、高徳の今はなかったわけで、火のごとき帝が今はいないと思うと、天を仰ぐばかりでした。
 興国二年(1341)高徳は北陸攻略を諦め、脇屋義助とともに吉野に入ります。

 ― 興国年間、諸国に転戦した高徳のこと

 吉野に数ある宿坊の一つ、吉水院に入った高徳らは、熊野別当が待つ金輪王寺の御所へ赴きました。
 この頃の全国の情勢はといえば、北陸では新田勢が敗北、東国では興良親王を奉じた北畠親房が風前の灯火の状態、西国に目を転じれば、懐良親王を旗頭に五條頼元が下りましたが、未だ上陸すらできていなかったのであります。
 熊野三山の別当、(たん)()と三人合議の末、伊予へ渡り、四国全土を手中に収めるとの方針が定まり、湛誉率いる熊野水軍の全面的なバックアップも得られることとなったのであります。
 年が明け、興国三年(1342)の春、吉野山を進発した高徳ら一行は、高野山、紀州湯浅から乗船、淡路島の南に浮かぶ()(しま)で淡路島を根拠とする安宅水軍とも合流、船団は一挙に百艘にも膨れ上がることとなったのであります。
 高徳の妻は河野一族の出であります。河野一族は生き残りをかけ足利方に味方し、高徳とは敵対する運命にありました。近しい関係だけに、戦うとなるとむしろ憎悪が激しくなり、足利の守護職、河野(みち)(もり)も大号令をかけ、一族を総動員しての戦いとなりました。伊予での海上戦となりましたが、戦いはその終盤、児島水軍が参戦するに及び、河野の船は海上から姿を消すことになったのであります。
 奪い取った亀水城でねぎらいの酒宴が催されました。
 安宅(あたか)水軍、()(しま)水軍、忽那(くつな)水軍の幹部らが同席する席上、土地の漁師が御大将にささげたいと持参した鯛が運ばれました。最初に、高徳が塩焼きの鯛を口に運んだ、その瞬間 (ム・・・・) 妙な味に気づき、ペッと床に吐き出したのであります。この鯛に毒が仕込まれていたのであります。
 高徳は盛られた毒にいち早く気づき、難を逃れることができましたが、この頃、すでに脇屋義助は鴆毒(ちんどく)に倒れていたのであります。
 高徳は、とるものも取りあえず、伊予の国府城に駆けつけたのであります。
 義助は、高徳の訪問を喜び、安どの色を見せましたが、「義治を。息子の義治を頼む。」と言い残し、そのまま深い眠りについたのであります。六月五日、四十二年の短い生涯でありました。
 盟友ともいえる義助を失ったことは、高徳にとって大きな打撃でありました。特に、毒殺という戦の禁じ手を使った足利将軍を許すわけにはいかなかったのであります。今の力では正面作戦は無理と、五流山伏の精鋭を引き連れ、尊氏の首一つを狙いひそかに上洛したのであります。探索の結果、八月十五日、尊氏が宇治の平等院鳳凰堂に出かけ、木幡の山荘で月見の酒宴を催すことが分かり、夜襲に決定いたします。
 この日、かねての手はず通り白河、桂、壬生など各地で陽動作戦を実行、予定通り慌て対応のために武将が散り、手薄になった山荘を、選りすぐりの十人で急襲したのであります。塀にのぼり、庭を走り、(うまや)の馬を放ち、高徳は尊氏の寝所を探し、尊氏を見つけ相対(あいたい)します。高徳が太刀を振りかぶった、その時、二の腕に(うち)()が突き刺さったのであります。
 尊氏は、黒い(すず)(かけ)の修験者たちに守られながら、奥へ姿を消します。高徳は、渾身の力と技をふり絞り、立ちはだかる敵の頭領を倒しましたが、直義らの軍勢が引き揚げてきたため、止む無く退散をしたのであります。
 
 尊氏襲撃に失敗した後、京に留まることかなわず、北陸路を漂浪後、南信濃の宗良親王を頼り、高徳は興国五年(1344)信濃・伊那谷の奥深くに入ったのであります。
 この頃の高徳一行は、本貫の備前豊原庄は足利方に落ち、一族郎党は散り散りとなり、五流山伏のほか、新田等のわずかな人数だけでありました。
 宗良親王をお守りする香坂高宗の居城、大河原城は、小渋川の岸辺の独立峰に築かれこの城でさえ、深山憂国の趣が深いというのに、宗良親王の寓居となっている御所平は、更に渓流を三里あまりさかのぼった山中にあったのであります。
 宗良親王は、歴戦のつわもの高徳を破格の待遇で迎え、「奥三河の押さえを任す」と仰せられ、高橋庄伊保(いぼ)(ごう)、高橋庄高橋郷広瀬、そして挙母(ころも)(ごう)梅坪を所領として与えられたのであります。
 高徳は、矢作川沿いに開けた集落、梅坪を居館の場所と定め、矢作川の船着き場の傍に空堀を掘って、土塁を築き、一丁四方の館を建てたのであります。高徳が所領を得たとの情報は、諸国に散った一族郎党にも伝わり、一人、二人と集まり、遂には、養父範長の一族、そして何よりも児島の五流尊滝院に身を潜めていた妻、貞子、長子高秀、次子高久、三子高貞が顔をそろえ、にわかに活気づいたのでありました。
 高徳は、近隣の領内各所に次々と砦を築き、守りを固めると、田畑を開墾し、矢作川の水運に目をつけ大船をつくり、積み荷の量を飛躍的に増やし物資の流通も高まったのであります。生活もすこしづつ豊かになり、人生、初めての落ち着いた生活に(ひた)るのでありました。
 ために、諸国から集まってきた郎党は、名和や楠の遺臣も含め、五百人を超える大所帯になっていたのであります。
 しかし、所詮、児島五流山伏の血を引く高徳は、日々の暮らしが穏やかであればあるほど、「これでよいのか」と、心が渇くのを覚えるのでありました。

 ― 高徳、正平年間の戦いのこと

 正平元年(1346)、春、36歳になった高徳は、髪をそって出家し、法名―()(じゅん)を名乗り、全国へ行脚の旅に出たのであります。
 しかし、翌年に入ると、京の都では、直義と師直の争いが、かつては水も漏らさぬ緊密な関係を誇っていた尊氏と直義、兄弟の骨肉の争いに発展していたのであります。高徳は、京の都に入り、壬生に潜伏し、足利家の動静に目を凝らしていました。
  
 ここで、この頃の正行と高徳の動きを見ておきましょう。
 皆さん、よくご存じの通り、正行は正平28月の隅田城の戦いを皮切りに連戦連勝を重ね、翌正平31月の四條畷の戦いで高師直と会いまみれ、若くして非業の死を遂げることとなります。
 ここの頃の高徳は、出家し、全国行脚の旅に出ているのです。
 延元元年の京都市街戦、湊川の戦でも表立って動かなかった高徳でしたが、正平3年、四條畷の戦いでも高徳は動くどころか、出家して全国を行脚する身にあったのであります。
 歴史の表舞台に常に登場し、武力をもって吉野等を支え続けた正成、正行と、武力に限り有り裏舞台で吉野朝を見守り続けた高徳には、残念ながら接点が生まれなかったようであります。
 しかし、高徳の行動をつぶさに見てみますと、常に楠氏の動静を探り情報を持っており、大いに参考にしたことが読み取れます。高徳にとって、正成は影の師匠の様な存在でなかったかと思うのであります。

 さて、話を戻しましょう。
 尊氏と直義の対立抗争は決定的なったと判断した高徳は、直義懐柔に動こうと工作を進めている、まさにその時、梅坪の館が足利方に墜ちたとの知らせが舞い込んできたのであります。
 
 「皆はどうした。」
 「一部討ち死に、しかし北の方ほか主だったものは、広瀬の砦に落ち延び無事でございます。」
 「矢作川の荷船はどうした。」
 「あちこちの川湊に繋がれたままになっています。」
 「40艘ほどあったな。直ちに戻り、砦を捨てよと申し付けよ。」
 「砦を捨てよ、と・・・。」
 「そうだ。船を矢作川中流の八丁土場に集め、そこで指示を待てと。」
 
 足利方からの総攻撃は、その十日後には始まりました。互いに譲らず、戦線が膠着してきた時のことでした。南西の風に乗って、川を(さかのぼ)ってきた船団の白帆(しらほ)には、「()」の文字が揺れていたのであります。高徳が八丁土場から率いてきた船団でありました。
 「撃てー!」の高徳の一声に、石弓が次々と発射され、巨大な石の(かたまり)が宙を飛び、敵が作りかけていた筏の橋に命中し、その衝撃で、筏の橋が壊れ、丸太が流木となって次々と流れ出していくのであります。
 慌て、逃げ惑う敵兵を前に、「いまだっ!」と船を接岸しますと、高徳の兵が船からどっと繰り出し、奇襲を受けた足利勢が一歩後退した様を見て、広瀬砦から三宅一党が打って出たからたまりません。敵の兵は総崩れとなり、高徳の圧倒的な勝利に終わったのであります。
 
 その後、三河梅坪の館が襲われることなく、時は経過しましたが、正平四年(1349)、尊氏と直義兄弟の対立はついに火を噴いたのであります。
 六月、直義が尊氏に迫り、執事の師直を罷免させますと、八月には、師直は逆襲に転じ、尊氏邸に逃げ込んだ直義の職務解任を要求し、直義は表舞台からいったん姿を消します。
 直義失脚の報に接した直義の養子、直冬は実父、尊氏に対する反旗を明らかにし、九州へ逃れ各地の直義党と呼応し、師直追討の動きを見せるのであります。
 翌、正平五年(1350)十月、驚くべきことに、直義が吉野朝に帰順を申し入れたのであります。三河で、この知らせを受けた高徳は、その五日後、大和賀名生の行宮を訪れたのであります。
 
 「よく来てくれた、()(じゅん)。そなたの意見が聞きたい。」
 「されば、申し上げます。直義の帰順、受け入れるべきでありましょう。」
 「直義は信じるに足る、と申すか。」
 「いえ。かの者は信ずるに足りません。」
 「ならば、なぜ、受け入れよというのか。」
 「分断策であります。直義が我らを利用しようというのなら、我らはかのものを信用するふりをして、足利幕府内部の亀裂を深めさせ、相手の力を二分して削ぐことが肝要かと存じます。敵を分断して、隙を窺えば、京を我らの手に奪還することも、決して夢ではありません。」
 「京か…。良かろう。直義との交渉を進めることと致そう。親房、良いな。」

 結果、吉野朝、後村上は直義と手を結んだのであります。
 正平六年(13511月、勢いを得た直義軍の攻撃に持ちこたえることができなかった義詮は遂に京を脱出します。代わって、直義軍、楠軍らが京に入ったのであります。尊氏と直義は四条河原で戦いますが、直義の勝利に終わり、追い詰められた尊氏は、師直を切るとの条件で和睦を持ち掛け、尊氏は京に戻ることとなります。師直はこの後摂津武庫川で上杉の勢に襲われ非業の死を遂げています。
 しかし、平穏は続かず、再び対立、直義は北陸へ墜ちたのであります。九州の直冬、そして北陸から関東に下った直義、この二つの火種を抱えた尊氏は、かつて弟直義がしたように、吉野朝に下り、直義追討を願い出るのであります。
 ここに、吉野朝と尊氏の講和がなり、世にいう正平の一統がなったわけであります。
 そして、翌年の正平七年(1352)正月、尊氏と直義の決戦で大敗を喫した直義は、鎌倉に幽閉され、二月二十六日、毒殺をされるのでありました。
 この動きと相前後して、後村上は行宮を住吉社に移し、更に石清水八幡宮へと、京奪還を目指して進んだのであります。高徳も、三河挙母(ころも)の里から五流山伏を率いて石清水八幡宮に駆けつけたことは言うまでもありません。
 高徳は、二月二十日には戦いの先駆けを務める活躍ぶりで、吉野朝廷は、京に残されていた北朝の光源院、光明院、崇光院の三上皇と、廃太子の直仁親王を吉野に幽閉し、代わって後村上が十七ぶりの京の土を踏んだのであります。この頃、親房は准后の宣旨を受け、得意の絶頂を極めるのでありました。
 しかし、高徳の心配のとおり、三月には義詮の急襲を受け、京奪還から一月も経たない三月十五日、後村上は石清水八幡宮に退却をするのであります。後村上は、この後、三年にわたって、何度か京を奪還しますが、最後、奥吉野、賀名生に追い返される結果となるのであります。
 正平九年(1354)には、吉野朝廷の雄、北畠親房が亡くなっています。
 また、正平十三年(1358)には、足利尊氏が世を去っていきました。
 合戦は相変わらず続いているものの、天下を納めるだけの武力がなく、資金もない吉野朝は、劣勢に追い込まれていました。
 
 尊氏が亡くなった翌年、正平十四年(1359)、高徳は賀名生に呼び出されたのであります。この頃の高徳は、吉野朝の軍監として、畿内、東海、関東を転戦し、なくてはならない存在となっていました。
 「高徳、九州に赴いてはくれまいか。」
 「懐良様のもとでございますか。」
 「懐良は、今、菊池城にいるが、北朝方、そして直冬との間で三つ巴の戦いのさなかにある。
 大宰府制圧が現実味を帯びる今、そなたの力で助けてやってはくれまいか。」
 (九州か…)
 「承知つかまつりました。九州に下ります。」
 
 高徳は、肥後の菊池城で懐良親王と対面しました。
 上座には五條頼元、下座には菊池武光が座っていました。

 「高徳。待ちかねていたぞ。」
 「ははっ。」
 「そなたの(よう)な建武よりの歴戦の将は少なくなった。そなたが軍監に加わってくれた上は、大宰府は我らが手に墜ちたも同然。」
 「恐れ入ります。九州を平定し、海の道をひらきましょう。」
 「おおっ…」

 懐良親王を総帥にいただく宮勢一万騎が菊池城を発したのは、七月一日でありました。高徳も、五流山伏を従え、軍勢に加わりました。筑後川の南岸に布陣した懐良軍に、対する大宰府を発した少弐頼尚軍二万騎は北岸に展開をしたのであります。
 少弐軍との決戦が行われたのは、八月六日の夜半でした。
 (かわず)が小便しても洪水になる、といわれるほど筑後川は水量の多い川で、しかも、ここ数日の大雨のせいで水嵩(みずかさ)も増え、対岸へ攻め込むのは困難を極めましたが、菊池武光の嫡男、武正と高徳率いる精鋭部隊三百が、夜陰に紛れて大保原の敵陣の背後に回り、奇襲を仕掛けたのであります。
 戦況は、一進一退を続けましたが、やがて東の空が白々と明け染めてきた時、この白兵戦を続けていては勝ち目がないと、高徳はほら貝を噴きならさせ、精鋭部隊を少弐頼尚の本陣に集め、大将首一つを狙い突っ込むと同時に、馬にひかれた荷車を横合いから突っ込ませたものですから、敵は大慌て、「ひけっ!ひけっ!」と退却をしたのでありました。
 世に有名な大保原の戦いの一場面でありますが、懐良軍の死者・負傷者も数多く、懐良親王自身が身に三か所の傷を受けるという凄絶(せいぜつ)な死闘でありました。この時、高徳も多くの配下を失ったのであります。
 しかし、この勝利で懐良は九州制覇への大きな足掛かりをつかんだのでありました。
 
 正平十六年(1361)八月十六日、懐良は念願の大宰府入りを果たし、ここに九州征西府が成立をしたのであります。
 高徳は、この征西府の重鎮として、懐良親王を支え、軍事や経済政策に力を注いだのであります。
 正行の果たせなかった吉野朝の復権ではありましたが、ここ九州の地では、懐良親王によって征西府が樹立され、十一年の長きにわたって「征西府の春」と呼ばれる繁栄を誇ったのであります。そして、そこには、隠岐の島の後醍醐救出に始まり、生涯を通して吉野朝一筋に生き抜いてきた児島高徳の姿があったのであります。
 文中元年(1372)、懐良親王とともに筑後高良山まで退却した高徳らは、さらに菊池氏の本拠、肥後の国菊池へと南下を余儀なくされました。
 六十半ばになっていた高徳は、この後諸国をめぐり、生涯足利幕府と戦い続け、弘和二年(1382)、七十二歳で病没をしたのであります。
 高徳終焉の地は、上野(こうずけ)の国邑楽郡(おうらくぐん)古海、現在の群馬県大泉町とも、播磨の國坂越浦、現在の兵庫県赤穂市とも、伝わっています。死に場所に諸説あるのは、児島高徳の行動範囲の広さが物語る所以で、晩年も、おそらく全国を行脚する姿が各地で見られたものと思われるのであります。
 
 火坂曰く、
 ― おのが美学をまっすぐに貫き、吉野朝にあっては異端ともいえるその姿に、銀河千里を貫くようなすがすがしさを覚えた
 という児島高徳、七十二年の生涯でありました。
 講談、児島高徳、一巻の終わりでございます。
 ご清聴、誠にありがとうございました。

                              (おわり)

●四條畷市観光ボランティアによる歴史と史跡の連続講座「楠正行と四條畷の戦い」
 

 
コロナ禍で延期となっていました講座が開かれます!
 ・演目 楠木正行と四條畷の戦い
 ・日時 46日(火)、午後130分~3時
 ・場所 四條畷市役所東別館2階 201会議室
 ・講師 扇谷 昭(四條畷楠正行の会代表)


次回例会
 日時 413日(火)、1330分~1500分
 場所 四條畷市立教育文化センター2階・会議室
 内容 講談「西郷隆盛」
     第8回楠正行シンポジウムについて
     その他

傍聴、入会大歓迎!

 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターの2階ホールを覗いてください。お待ちしております。


正行通信 第125号はコチラからも(PDF)


四條畷 楠正行の会 第68回例会 
日時 令和3年2月9日(火) 午後1時30分より3時
場所 教育文化センター 2階 会議室1

●扇谷、講談調「足利直義」に挑戦!                   
 今月の例会は、初めての試み「講談」です。
 今までの例会では、資料に基づき、解説するという形式での授業に近いスタイルを続けてきましたが、今少し、気楽に楽しく聞いていただこうと、講談調で「足利直義」を語りました。
 約1時間の講談調?!でしたが、何とか無事終えることができました。
 脚本もアップしていますので、ご参考にしてください。


         受講の様子

楠正行通信 第123号 29日発行
 尊氏に翻弄され、義満の傀儡、北朝の天皇たち
 廃位・幽閉の憂き目の中、後小松時代に皇位継承
 北朝天皇関係年表

楠正行通信 第124号 29日発行
 北朝1代、光源天皇の味わった地獄変
 光源嫡流・崇光系と、庶流・後光源系の対立と確執
 今に続く皇統は、後花園天皇の末裔
 南北朝時代前後の皇統の流れ

●講談「足利直義」
 1) プロローグ
 2) 序章 ― 直義プロフイール
 3) ― 直義登場
 4) ― 二頭政治の時代!
 5) ― 観応の擾乱
 6) ― 鎮魂と供養
 7) 終章 ― 政治と宗教の巨人

≪足利直義の生涯≫
 建武新政期  兄、尊氏を支え、鎌倉の地で幕府政治の基礎固め
 二頭政治期  天下執権人として室町幕府の政務を取り仕切る
 観応擾乱期  師直との対立に端を発し、兄尊氏、その嫡子義詮との確執・対立劇
 鎌倉で死去~「鎌倉」的時代の終焉
 鎮魂と供養  死後6年にして贈従二位・贈正二位
 その4年後、勧請 奉大蔵宮 ~神格化

資料① 足利直義年表



資料② 講談「足利直義」脚本
 【四條畷楠正行の会 2021.2月例会 資料】

講 談 「 足 利 直 義 」

原作 森 (しげ)(あき)  角川選書
     「足利直義~兄尊氏との対立と理想国家構想」
参考 峰岸純夫  吉川弘文館「足利尊氏と直義」
    山家浩樹  山川出版社「足利尊氏と足利直義」
脚本 扇谷  昭

― プロローグ

 
皆さんこんにちは。
 私たちの四條畷楠正行の会ですが、平成2611月に発足しましたが、以来、6年と4か月を経て、68回目の例会を迎えました。
 正行だけを学んでいては、この会はすぐに終わってしまうと、この間、後醍醐天皇を皮切りに、歴史上、何らかの形で正行とゆかりやかかわりのある人物を学ぼうと、今年1月までに実に43名の歴史上の人物を取り上げてきました。
 高山右近やシーボルト、和田義盛、新海上人などが印象に残っています。
 毎月毎月、硬いお話にお付き合いをいただき、感謝に堪えません。
 しかし、この1月、北朝の天皇たちを取り上げたことで、今までになかった気づきと反省がありました。
 私たちは、楠一族の悲哀を口にし、楠氏目線で歴史を見てきました。しかし、楠氏と対立した相手方の目線で同じ歴史を見ますと、全く違った様相が見えることに気づきました。
 実は、楠氏が支えようとした吉野朝の悲哀以上に、対立した北朝にも、一筋縄では捉えられない対立や確執、やるせなさ、悲嘆の様なものがあったと思うわけであります。
 そして、そのことは今月の足利直義、そして来月の児島高徳を繙く中から、その思いをさらに強くしました。
 楠氏を考えるとき、同時代に生き、活躍した人物でありながら、立場を変えるだけで、これほど人知れず、脚光も浴びず、しかし、いわば歴史の裏部隊で大きな功績を残した人物たちがいたということへの驚きです。
 おそらく、このような思いが1月に芽生えていたのでしょう。
 だから、『2月は講談で・・・』などと口走ってしまいましたが、今までの例会とは違った切り口での例会もまた楽しいのではないか、と思った次第です。
 口走った以上は、講談をと、今日のお話を準備しました。
 なんせ、初めての試みですので、果たして、どのような講談になるか、まったくもって予測も何もあったものではありませんが、一つお気楽にお付き合いのほど、よろしくお願い申し上げます。
 

― 序章 直義プロフイール

 戦国時代、歴代将軍・執事などの経歴を記録した「公武補任(ぶにん)次第」がございまして、その書に「大樹の御代(おんだい)として、御下知をなされ(おわ)んぬ。」と記され、将軍尊氏に代わって下知をなしたという、室町幕府政治を強力にけん引した人物がいました。
 何を隠そう、この人物こそ、本日の主人公「足利直義」その人であります。
 足利氏は、北関東を流れる利根川水系の支流、渡良瀬川を境界として、上野(こうずけの)(こく)と接する下野(しもつけの)(くに)は足利荘、現在の栃木県を根拠地とし、義康を祖とする一族で、代々北条氏一門から妻を迎えてきました。直義は、兄、尊氏と2歳違いの弟で、父、貞氏、母、上杉清子(せいし)を同じくする同母兄弟であります。この二人の兄弟が、やがて骨肉の争いを展開しようとは、誰も予測できなかったのであります。
 その人物像を申し上げれば、兄、尊氏は、包容力があり、清濁併せ呑むといった敵・味方に対して寛大な底抜けに明るい性格と云えます。対して、弟、直義は、几帳面で誠実、清濁併せ呑むという尊氏とは対照的に、理非曲直をきちんと正し、道理に基づいて行動するタイプでありました。が故に、直義の性格を見抜いていた尊氏は、直義を政務につかせ、武家・公家を合わせた政治の舞台に臨ませたのであります。
 そして、尊氏の期待通り、直義は、兄、尊氏とともに縦横無尽の活躍で幕府の政治を切り盛りし、鎌倉幕府に次ぐ、第二の武家政権たる室町幕府、尊氏と直義の「二頭政治」の基礎を築いた人物であります。
 しかし、理想に燃えて、平和国家の樹立を目指す直義に立ちはだかりましたのが、武家の急進派急先鋒であった高師直・師泰の兄弟でありました。直義は、世に観応の擾乱と呼ばれる熾烈な対立・抗争を繰り返しますが、その最後は、京の都を脱出し、北国を経て、鎌倉への退去を余儀なくされたのであります。
 直義は、観応31352226日、兄、尊氏によって毒殺されたと伝わっています。
 享年46歳、非業の死を遂げた人物であります。
 しかし、直義暗殺の代償は実に大きかったのであります。直義の怨霊は、その後の室町幕府の行く手に暗い影を落とし、幕府運営を極めて不安定にしました。
 鎮魂の動きは直ちに始まり、直義没後6年にして「従二位」が贈られ、次いで、時を置くことなく「正二位」までもが、矢継ぎ早に贈られました。また、その4年後には「大倉の宮」として神格化されるのであります。天竜寺の(かたわ)らに「大倉の宮」を祀る寺まで作られています。
 そして、直義怨霊の(たた)りは相当に強かったのでしょう。足利2代将軍義詮や3代将軍義満そして6代将軍義教(よしのり)までもが、直義の年忌法要をせっせと務めたのであります。
 足利政権の誕生に、尊氏を支えて歴史舞台に登場した直義でありましたが、将軍にとって代わろうとする野望と、観応の擾乱に敗れた失意が故にもたらした怨霊、その根強さが計り知れなかったことを暗示させる、鎮魂であったといえます。
 そして、追憶の中の直義は、室町将軍らの評伝を記した「満済准(まんさいじゅ)(こう)日記」に、その名が全く登場しません。室町幕府は、宗門を隆盛に導いた恩義ある巨人の一人、直義が背負う歴史を「不吉」なものとして封印したに相違ありません。
 直義という人物の、特異な立ち位置が、ここから見えてきます。
 では、お待ちかね、直義の軌跡を詳しくたどる旅を始めましょう。
 
― 直義登場!

 頼朝の命により義兼が北条時政の娘を娶ったことに始まる、尊氏まで七代続きで北条一門から正室を迎えたことによる北条氏よりの厚遇によって、足利氏の地位は安定はしていたものの、鎌倉幕府が得宗専制体制への傾斜を強めたことでその地位は低下し、鎌倉末期に閉塞状態にあった足利氏が、起死回生のチャンスをうかがっていたことは想像に難くはありません。
 元弘の乱の最終局面で、尊氏が、幕府側から後醍醐・倒幕側に寝返ったのは、決して突発的な行動ではなく、北条氏に対する雌伏の時代を考えれば、当然でさえあったのです。
 尊氏の祖父、家時は、「三代の後、即ち尊氏時代に、天下を取る」という悲願をかけて、自刃したと伝わるのも、その由縁であります。
 北条高時に六波羅探題救援のため京に迎えとの命を受けますが、父、貞氏臨終まじかで辞退する尊氏でしたが、高時の執拗な叱咤を受け、しぶしぶ兵を進めた尊氏は、足利氏の飛び領、丹波国篠村に兵をとどめました。
 「ここ篠村八幡宮は足利家の崇める神ぞ。」
 
と願い文を捧げたのです。この時、尊氏が奉じた願文(がんもん)は、今も篠村八幡宮に伝わっております。

 「敬白、立願の事。今や、後醍醐天皇の勅を奉じ、民のため、世のため義兵を挙げた。」と、鏑矢一筋をとって願文を神殿にささげ、後醍醐側に建つことを鮮明にして、六波羅に向かったのであります。
 その倒幕思考に火をつけ、篠村で取って返し、元弘の乱で軍事指揮をとったのは、すべて、兄、尊氏でありました。この時はまだ、直義は兄の影のような存在でしかなかったのであります。
 京都・東寺に入った尊氏は、武者受付所を開設し、全国から参集する武家に対し、「我こそ、武家の棟梁」との行動を起こしています。この頃の正成は、河内の一豪族であることから、こういった武家への対応には気づかず、天皇のお供をして入京したことに大きな満足を得ていたものでしょう。この差が、後の二人の行動を分けることになるのです。
 後醍醐の建武政権が誕生しますと、恩賞の筆頭、尊氏には武蔵・常陸・下野の三か国が与えられ、一方、直義には遠江国が与えられ、直義は、(なり)(よし)親王を奉じて、鎌倉将軍府執権として関東・鎌倉に下向し、その頭角を現すことになるのであります。
 この時、直義は、従四位下、(さま)馬頭(のかみ)・相模守となって、鎌倉に参りますが、これは、後醍醐の皇子を奉じた地方統治の第二弾でありまして、この二ケ月前には、(のり)(よし)親王を奉じ、北畠親房・顕家が陸奥国に赴いていたのであります。
 そして、直義は、後醍醐の思いとは裏腹に、建武政権内に幕府再生の目論見を、鎌倉の地で営々と築いていくことになります。直義、鎌倉時代に、鎌倉執権として発給した文書や下知状、寄進状を見ると、さながら鎌倉幕府の再現ともいえる様相が見えてきます。
 また、鎌倉には、幕府滅亡後、尊氏の嫡子千寿王、後の義詮でありますが、家臣とともに支配の基盤を築いておりましたので、直義の鎌倉将軍府はその上に乗っかる形となり、いわば後に誕生する足利政権の原型になったとお思い下さい。
 後醍醐にすれば、地方の出先機関に過ぎなかった鎌倉将軍府でありましたが、直義から見れば、鎌倉将軍府は武家勢力結集の核であり、第二の武家政権樹立の胎動、萌芽が、ここから始まっていたのであります。そして、この背景には、関東武士たちの建武政権への不平・不満、更には天皇親政・公家政治を目指す建武政権とは真逆の、武家政権への回帰志向のあったことは見逃せません。
 このように歴史とは、実に微妙なものであります。政治というものは、一寸先は闇である、と言います。光秀、本能寺の変しかりであり、秀吉、中国大返し然りであります。
 武家政権回帰への動きを加速させたのが、建武21335に勃発した北条残党、高時の遺児、時行の起こした中先代の乱でありました。
 迎え撃った直義でありましたが、敗戦を重ね、終に鎌倉を去り、(なり)(よし)親王、尊氏嫡子義詮とともに逃れて、矢作の宿に留まることとなりました。そして、尊氏の援軍出動によって、時行は鎌倉を撤退することになり、この中先代の乱の結末の出来事は、結果として、尊氏を鎌倉に呼び寄せ、京の後醍醐に対する鎌倉の尊氏との構図を明らかにさせ、南北朝時代の確執と抗争を演出する、大きな転換点になったといえます。
 そして、予期しない、そのあおりを食ったのが護良親王でありました。
 「鎌倉は、時行の軍であふれかえった。大塔宮を刺殺せよ。」
 「直義様。その儀は平にご容赦を・・・。」
 「相手は大軍ぞ。我らの兵力では戦にならぬ。鎌倉奪還に、大塔宮は足利の災いとなることは必定ぞ。分かるか。」
 「しかし…。宮を刺殺とは…。」
 「大塔宮が時行の手に落ちればどうなる。大塔宮を頭目に担がれるようなことにでもなれば、我らに勝利はないぞ。」
 「はい。」
 「ここは、宮の命を奪うしかない。殺せ!」
 護良親王は、楠正成とともに倒幕の立役者の一人でありながら、父、後醍醐、その寵妃阿野廉子、尊氏との水面下の三者間権力闘争に敗れ、京で拉致され、流罪を得てその身柄は直義のもとにあり、建武213357月、殺害されるに至るのであります。直義毒殺説はあるものの、信用するに足る証拠や資料が残るわけではありません。
 中先代の乱の結果、武門の棟梁、尊氏を関東に向かわせ、関東に渦巻いていた武士たちの政治的要求を、一挙に満たすこととなったのであります。
 さあ、後醍醐の建武政権に、風前の灯火が着く発端となったわけであります。
 
― 二頭政治の時代!

 いよいよ、云うことを聞かない尊氏に業を煮やした後醍醐は、足利氏と因縁浅からぬ複雑な確執を抱える新田義貞に、尊氏討伐を命じ、建武2133512月、出陣した新田勢は伊豆箱根の竹の下で尊氏軍と激突を致します。
 しかし、この時、後醍醐に対する思いからか、腰を挙げず、蟄居の姿勢を崩さなかったのが尊氏でありました。一方、直義は112日を皮切りに、義貞誅伐の軍勢催促状を何通も発し、素早く軍事的な対応策をとるという、尊氏とは真逆の行動を起こしています。
 兄尊氏に先んじて行動を起こしたのが直義であります。
 揺れ動いた尊氏の心の葛藤が「梅松論」は、後醍醐に対する、偽らざるこころの内を描くとともに、「政務を下御所(直義)に御譲り有りて」と、すでにこの時点で、尊氏の直義への「政務」譲渡の意向が表明されており、尊氏による直義評価が梅松論に見て取ることができます。
 新田勢の進軍の報せにも動こうとしない尊氏の思いとは、このようなものでありました。
 ― 今や、尊氏は征夷大将軍に上り詰め、従二位も授かった。この事は尊氏の功績
 ではあるが、帝の恩なくしてはあり得ぬこと。恩を受けながら、帝に背き兵を出すことな
 どできるものではない。もし帝のお咎めが解けぬとあれば、髪を下すまで。
 ここでも直義による護良親王殺害に躊躇のあった尊氏が見てとれます。
 さて、続く延元元年1336は、実に、波乱万丈の1年でありました。
 尊氏軍入京に伴い、正月、後醍醐が京の都から比叡山に逃げたことに始まり、京の都は足利軍と後醍醐軍の戦の舞台となって、兵火に見舞われました。しかし、2月、北畠顕家や楠正成らの活躍で、京都市街戦で敗れた尊氏・直義は九州に下ることになります。が、大宰府に入った尊氏は、急激に勢力を盛り返し、九州を支配下に置きます。再び東征に転じた尊氏は海路を、直義は陸路を進み、5月、兵庫湊川に楠正成を破り、早や6月には光源上皇を奉じて入京するのであります。
 8月には光明天皇が践祚し、北朝が成立すると、10月、尊氏の諫言を信じた後醍醐は、花山院幽閉の憂き目にあい、軟禁状態でありましたが、終に12月、正行の手引きで吉野に逃れました。
 「帝に翻意を持つなど滅相なことです。尊氏は、義貞の反逆を懲らしめんがために、戦いを仕掛けましたが、帝にはぜひ京の都にお戻し致し、内裏にお入りいただきたいと願うのみです。」
 「朕を内裏に迎えるとな。では、二人の親王を義貞をつけ、北国に逃すといたそう。」
 しかし、尊氏に後醍醐を奉じる思いなどあろうはずもなく、花山院に幽閉される憂き目となる後醍醐でありました。
 結果、後醍醐の吉野潜幸は、南北朝時代に突入の瞬間でありました。
 一方、時を同じくして、室町幕府の政治の要となる、建武の式目の制定がまさにこの時行われるのであります。
 この建武式目は、幕府所在地の選定と政策指針の二編からなり、尊氏の諮問に応えた法曹官人の手による17か条とされますが、事実上の立案者は、ほかならぬ足利直義でありました。足利幕府の政務は、直義によって始められたことが、この一事によっても分かります。
 尊氏・直義の二頭政治の始まりは、延元31338、8月といわれます。
 しかし、このころすでに尊氏の軍勢催促状が激減するのに対し、直義のそれは逆に激増し、尊氏は軍事指揮権まで直義に移譲して、二頭政治が始まったといえます。そして二頭政治を象徴するように、延元31338、8月11日、尊氏は正二位・将軍に任じられます。そして同時に、直義も同日、従四位上・左兵衛督に昇任しました。
 太平記は、この様子を、「兄弟一時に相揃って大樹・武将に備わること、古今未だその例を聞かず」と、驚きを隠さず記しています。
 いよいよ直義の政治思想に基づいた、理想国家の建設事業が開始されたのであります。
 尊氏は「弓矢の将軍」として君臨し、直義は「政道」を一身に担い、将軍権力の二分化現象、言い換えれば二頭政治は順調に滑り出したのであります。
 梅松論は、「三条殿は六十六か国に寺を一宇づつ建立し、各安国寺と号し、同塔婆一基を造立して所願を寄せられ、」と記しています。これは直義が仏教思想を踏まえて国土を平和にし、民を安んじようという事業を企画し、安国寺と利生塔を建立するという、いわば仏国土建設を推進しようとしたことが分かります。
 下し分、下知状、御教書、軍勢催促状、所領安堵状、官途推挙状、院宣一見状等の、ありとあらゆる発給状況をつぶさに見ますと、尊氏に圧倒的に少なく、直義に数多く残ることからして、二頭政治の中心は直義にあった、言い換えれば、政務は尊氏から直義に任されていたことがうかがい知れます。
 また、直義が鎌倉幕府の政治を踏襲したことが分かります。
 平安から鎌倉にかけて、天皇臨幸の下、朝廷が行った行事の一つに「弓場始め」がありますが、直義もこの「弓場始め」行い、また訴訟機関や議決機関の「引付・評定の制度」を取り入れています。これらのことから、直義の「鎌倉」的要素が感じられ、直義の政治的思考が、鎌倉幕府的なそれからいまだ抜けきっていない一面を物語っているといえるでしょう。急進的で、バサラの異名を持つ高師直・師泰とは、相いれなかったことがよくわかります。
 このように尊氏のもと、直義との二頭政治は順調に事を運びましたが、直義には決定的な権限の欠如がありました。
 それは守護職の任免権です。守護職の任免権は、二頭政治の時期も含めて、一貫して将軍、尊氏の手にあり、直義はこれには関与できませんでした。「天下執権人」直義の、最大の弱点・限界がここにありました。
 
― 観応の擾乱

 観応の擾乱は、なぜ、起こったのでしょうか。
 一言にして言えば、室町幕府内部における、新旧両勢力の政治的対立にありました。
 具体的には、惣領・高い家格の一門を中心に、旧鎌倉幕府の官僚と足利一門の有力武将、東国や九州など族的結合の強い、後進地域の武士たち、守旧派が直義派を形成しました。
 一方、その対極に位置する、庶子・比較的低い家格の一門で、合戦で功成りを遂げた、畿内先進地域周辺の反荘園的な新興武士層、将軍尊氏の執事・高師直に連なる急進派が形成されました。
 この両派の確執・対立抗争劇が、観応の擾乱の構図であります。
 要は、秩序を重んじる直義一派と、強ければ良しとする師直バサラ派の対立であります。そして、この対立の構図は、〈直義―師直〉の対立から、〈尊氏・師直―直義・上杉氏〉の対立に発展し、やがて〈尊氏の子、義詮―直義の養子、直冬〉の対立へと変わっていくのであります。
 また、観応の擾乱を予兆させる太平記の記述、巻二十五の「宮方の怨霊六本杉に会する事」の件も有名であります。
 ここの件は、ある禅僧が仁和寺の六本杉で雨宿りをしたとき、六本杉の(こずえ)に集う人々の会話を聞いたという設定であります。
 その謀議とは、護良親王は足利直義の子となって生まれ出で、知教上人は上杉重能(しげよし)、畠山直宗に乗り移り高師直・師泰兄弟を亡き者にし、忠円僧正は高師直・師泰の心に入れ替わって上杉・畠山を滅ぼす。これによって、尊氏・直義兄弟の仲が悪くなって、天下大乱となり、その結果として怨念が晴らせる、と。
 峰岸純夫は、その著「足利尊氏と直義」の中で、ちょうどこのころは南朝方が一挙に衰勢となったころで、太平記の作者は、その物語性を盛り上げるために、非業な最期を遂げた南朝方の怨霊が足利方の面々に乗り移って、内部対立・抗争を引き起こしたと説明している、と書いています。
  南北朝時代は、怨霊も登場し、だまし合いの、疑心暗鬼の時代でなかったかと暗示させてくれます。このように考えれば、当時の楠氏の存在、果たした役割、義一筋の生き方は極めて稀有なものであったのではないでしょうか。当時から今に至るまで、正成、正行の人気が衰えない理由に大いに納得するのであります。
 この両派の対立に輪を掛け、その構図をより複雑にしたのが、直義の嫡子、如意王の突然ともいえる誕生と、尊氏後継の義詮の登場であります。
 貞和3年1347、6月8日、41歳という高齢の直義夫人に男子が授かります。この頃、得意の絶頂にあった直義にとって、男子の誕生は大きな喜びでありました。しかし、この直義に男子誕生の慶事は、思わぬ方向に歯車を狂わせ、2頭政治の安定的な運営に、大きな不安要因となったのであります。
 まさに、思わぬ嫡子誕生が、直義に権力者としての野望を抱かせたのであります。
 政道を担う自分の地位・立場をわが子に継がせたい、という願望が彷彿として湧いてきたことは、疑うに足りません。おそらく、これが観応の擾乱の、根本原因の一つであったことは間違いないと云えます。
 今、歴史の中で過去の権力者の姿を見るとき、後継者に苦労し、悩まされた歴史上の人物は数知れません。世継ぎに不安を残した豊臣秀吉しかり、本能寺の変で思わぬ最期を遂げた織田信長しかりであります。そして、武家政権にあって、その壁を乗り越えるすべを作ったのが徳川であります。宗家を補佐する徳川三家の創設によって、宗家の安定と、適宜な緊張・均衡関係、そして宗家まさかの時の準備を構築した、家康のなせる業が、徳川政権15代、250年の武家政権繁栄をもたらしといえるでしょう。
 さて、観応の擾乱の顛末に話を戻しましょう。
 先制攻撃は直義が仕掛けました。貞和513496月、高師直は執事の職を解かれます。しかし師直も巻き返しを図り、クーデターを起こします。不意を突かれた直義は、兄、尊氏の館に逃れました。
 この時、襲撃を受けた直義は、女装して尊氏邸に駆け込み、島津時久、和泉忠頼が“垣根を乗り越えて”飲食を届けた、と島津家家臣によって書かれた山田聖栄自記に載っているそうであります。
 皆さん。「垣根を乗り越えて」の件に思い当たる節はありませんか。
 そうです。朱舜水作の楠正行像賛に、全く同じ表現が出てきます。
 正行像賛には、「使報者身踰垣而逃。弟穴地而竄。」(報ゆる所の者は、身垣をこえて逃げ、弟は地に穴してもぐり逃れ)とあります。この意は、「尊氏は自ら垣根を乗り越えて逃げ、足利直義は地に穴を掘ってもぐり逃れ、」であります。
 朱舜水は、島津家に伝わる山田聖栄自記を見て、この表現を使ったのでしょうか。この脚本作成にあたって、“垣根を乗り越えて”との件を見た瞬間、正行像賛148文字を思い描いたところです。
 正行の会で、足利直義について学びましょう、となったが故の出会いであり、発見であり、嬉しい限りです。今回、直義と正行の接点は全く出てきませんが、奇しくも、朱舜水が教えてくれる正行と直義の関係の一コマでした。
 さて、直義の話に戻りましょう。
 「尊氏殿。邸内の直義殿に謀反の疑いあり。速やかに差し出されよ。」
 「直義。ここは一歩譲って和睦を結べ。」
 「謀反とは片腹痛い。されど、兄じゃ。ここは何卒よろしく。」
 「あいや。分かった。」
 この時の和睦交渉で、直義は大幅な譲歩を迫られました。しかし、ここで見落としてはいけないのが、尊氏と師直の内通によって、関東統治を任としてきた義詮を上洛させるという一項が入っていたことであります。尊氏の、後継者・義詮を上洛させるために仕組まれた尊氏と師直の猿芝居に、直義は、まんまと乗せられてしまったのであります。
 このようにして、和議の2か月後、義詮が入京します。
 義詮が、直義が退去した三条坊門邸に入ると、執政の地位が直義から義詮に移ったことを世間に知らしめることとなったのであります。尊氏の心中的中といったところでしょうか。
 かつて、2頭政治における直義権力の中核であった裁許権、そして所領給付権も義詮に移りました。貞和5年1349、9月、直義は左兵衛督を辞しています。失脚した直義の発給文書は、それ以降、全く残っていません。
 しかし、観応元年1350、直義は反撃に転じます。
 直義は、京を逃れ、大和興福寺に入り、戦いの“のろし”を上げるのです。そして、奇想天外の策、吉野朝に降伏を申し入れ、是を許されるのであります。プライドの高い直義が、吉野朝年号をわざわざ使い、「吉野朝天皇の勅命に任せて、忠節を致します」と返書に記しました。
 しかし、吉野朝に帰参したはずの直義は、その後の文書に観応の年号を使い、吉野朝とともに動いた形跡もなく、この吉野朝降下は一時の、便宜的なものでありました。それは直義の意外なしたたかさを見せる一面でもありました。
 観応2年1351、2月、激戦の末、宿敵、師直・師泰を打ち破ります。しかし、この時、尊氏は自分に忠節を尽くした高一族を守れなかったことに痛恨の思いを抱き、直義への報復を心中で決意したことでしょう。
 ここでもまた発見がありました。
 尊氏・直義の母、上杉清子の兄弟に重憲がおり、なんと「扇谷上杉」とあるではないですか。関東に、上杉の一流、扇谷と書いてオウギガヤツと呼ぶオウギガヤツ上杉家のあることは知っておりましたが、直義とこれほど近しい関係とは知りませんでした。
 扇谷をオウギガヤツと呼ぶいわれは、今も鎌倉市の一角に「扇ガ谷」という地名があり、この地名が故に、オウギガヤツ上杉と名乗ったとのことであります。私とは、直接、何のかかわりもありませんが、オウギガヤツ上杉氏の存在は、私が上杉氏に親近感を持たせてくれるものです。地名や氏名を同じウすると妙に親近感を持つのは、万人が認める所でしょう。
 さて、直義は尊氏と和睦して幕政に復帰するのですが、この激しい戦いのさなか、直義最大の悲劇が起こりました。
 2月25日夜の愛児、如意王の他界であります。
 直義は、愛児を失ったことで、将来に向けての希望の星、そして人生の大きな目標を見失い、その落胆のほどは、想像を絶するものであったと思われます。
 幕政に復帰した直義は、尊氏の嫡子、義詮と二人で幕府の政務を見ることになります。が、あくまでも政務担当の中心は義詮であり、直義は補佐する立場にしかありませんでした。養子、直冬の鎮西探題就任という、いわば直義にとって戦利品といえる戦果もあったものの、上杉重能(しげのう)の仇を討った(よし)(のり)が流罪に処されるなど、戦後処理は直義に極めて不利でした。
 叔父直義と打ち解けようとしない、義詮の敵対心もありますが、愛児の夭逝(ようせい)によって受けた直義の打撃は計り知れず、帰京後の無気力さには目を覆うものがありました。意欲と張りを失ってしまった直義の周辺から、ポツリポツリと武士たちが消え、孤独に身を打ちひしがれている直義の姿が思い浮かびます。
 さて、この時期、直義に対する攻撃の主導権は、尊氏から義詮に代わりました。事態はいよいよ核心に迫り、直義対義詮の対決となっていくのであります。
 観応2年1351、8月1日の丑の刻(午前2時ごろ)、失意にあった直義はその一党を引き連れ、急遽、京を脱し、北国に向かったのであります。この後、栄華を極めた直義が、再び京の地を踏むことはなく、この北国落ちは直義没落の始まりでありました。
 尊氏は、直義追討を決意し、この年10月には、吉野朝後村上と和議を結び、正平の一統がなると、吉野朝から直義追討の綸旨を得て、仁木頼章、畠山国清、今川範国、武田信武らを率いて関東に出陣をします。
 1213日、尊氏と直義の天下分け目の合戦、(さつたやま)合戦に突入します。
 尊氏は、駿河湾を東に臨む標高244メートルの山、薩埵山に3000騎の軍勢を布陣します。一方、直義は、薩埵山北東の大手・由井に上杉憲顕軍、搦め手・宇都部(うつぶ)()に石堂義房軍、そして自らはその背後、三島に本陣を構えました。
 薩埵山と三島の間は約36キロ、沿道には直義軍が充満し、尊氏軍の劣勢は明らかでありました。しかし、下野(しもつけ)からの尊氏の援軍、宇都宮氏綱は途中直義に通じる武将を次々と打ち破り、3万騎に膨れ上がったうえ、小山氏政も着陣、直義軍は夥しい後詰の軍勢に圧倒され逃亡者が続出、直義は山中に逃れたのであります。
 伊豆山中にあった直義は、尊氏の和議を受け入れ、翌年16日、鎌倉に戻りましたが、この時の直義には政界復帰の気力は失せていました。
 そして、直義の使った花押の変遷に、直義の浮沈がはっきり見て取れます。得意の絶頂期の花押は、幅10.5センチもある、この時代最大といえる巨大花押ですが、観応元年1350以降に使われた花押は、以前使った小さい花押に近似し、線も細く”もはや昔日の生気を失った“ものに戻っているのです。
 巨大花押は、直義をめぐる権力の激しい変転の中で、短期間に限って開花した「あだ花」に例えることができると云えるでしょう。
 山合戦で直義に勝利した尊氏は、吉野朝との和議を解消しましたので、吉野朝は再び尊氏打倒を鮮明にします。
 観応3年閏2月、北畠親房は、東西同時蜂起の作戦を展開します。
 関東では、宗義親王を奉じる義貞の遺児、義宗・義興と上杉憲顕連合軍を武蔵の地に投入する一方、西国では、北畠顕能、千草顕経、楠正儀らが、尊氏の留守を守る義詮に向かわせたのであります。
 東西とも、当初、足利方が劣勢を強いられます。しかし、利根川の渡河に成功し、軍勢を再結集した尊氏は、小手指(こてさし)(はら)笛吹(うずしき)峠の戦いで新田・上杉軍を撃破し、俗に武蔵野合戦といわれるこの戦いの勝利によって、尊氏は、反対勢力を一掃し、関東の支配をゆるぎないものにしたのであります。
 この合戦の折、宗義親王が残した和歌があります。
 ― 君がため世のため何か惜しからん 捨てて甲斐ある命なりせば
 この歌は、第二次世界大戦中、国民の精神を鼓舞する歌として盛んに活用されたといいます。
 ここで、直義の養子、直冬に触れておきましょう。
 直冬は、尊氏の庶長子で、尊氏嫡子義詮の兄にあたる人物ですが、尊氏との親子関係が築かれないまま、当時長子のいなかった直義の養子となります。尊氏に認知されなかった直冬は、生涯、尊氏を恨むこととなるのです。
 幕府が観応の擾乱に突入すると、当然のように直冬は直義側の武将として行動し、実父尊氏に刃向かいました。直冬が肥後に逃れ、九州において猛威を振るい、尊氏を苦境に陥れたことは、誰もが良く知るところです。また、この実子直冬に対する尊氏の憎しみも、尋常ではなかったようです。その証左の一つとして、尊氏と直義が和睦した際でも、直冬については「先の命令通り、誅伐せよ」と指令しているので、尊氏にとって、直冬への憎しみは、直義のそれよりも更に深いということになります。親子が故の、濃い血がなせる業だったのでしょうか。
 いずれにしても、観応の擾乱と呼ばれる室町幕府の内訌は、嫡子誕生を機に、直義が「あわよくば」と、幕府の首領の座を得ようとしたところに、その発端があったのではないかと思われます。
 往時の名九州探題今川了俊は、その晩年の著「難太平記」の記述に、観応の擾乱についての核心に迫る証言を綴っています。
 『尊氏の思いは、将軍の地位を嫡子義詮に着実に継承することであった。弟、直義は、あっぱれなる志の持ち主で、捨てがたい人材であったことから、何かと配慮を怠らなかった。がそれも、将軍ポストを、義詮にすんなり渡すためだった。』と。
 言い得て妙なる記述かな。大変、意味深長な証言と云えるでしょう。
 
― 鎮魂と供養

 直義が亡くなった2年後、尊氏は病の床に就きます。
 そして、この尊氏の病は、直義の怨霊の仕業とされたのです。
 病の床に就いた尊氏は、その怨霊を追い払い、慰撫しようと、直義に従二位を授かります。しかし、この贈位のことは、当時右大臣の地位にあった近衛道嗣(みちつぐ)さえ、「その故を知らず」と記す如く、あまりにも唐突な、幕府からの要請であったようです。さらに年月は不明ですが、続けざまに正二位が追贈されています。
 贈従二位の効果が宜しくないので、間髪を入れず贈正二位という、二の矢を放ったのでしょう。
 しかし、直義の怨霊は、贈位程度では収まる気配にはありませんでした。
 尊氏死後の康安2年1362、7月、遂に、直義の霊が勧請神となり、「大倉宮」と号されるに至るのです。加えて(じん)()、寺を、天竜寺の傍に構え、直義の霊には「大倉二位明神」の神号が与えられました。直義は、遂に神格化までされたのです。
 しかし、直義の怨霊は、その後も室町幕府の前途に暗い影を落とし続けます。その後の足利将軍の年忌法要は、嘉吉元年1441、直義没後90年の時を経ても、まだ行われています。そして、直義供養はこれで終わったわけではなく、室町幕府が続く限り、相当長い期間続きました。
 権力トップの、兄弟、骨肉の争いが故でしょうか。おお、恐ろしい哉。

― 終章 政治と宗教の巨人

 今日の主人公、足利直義は、観応3年1352、2月26日に死去しています。
 多くの天皇に仕え、正平の一統では北朝の交渉役をも務めた洞院公賢は、その著「園太暦」に、「直義が死去したことで、天下静謐のための基礎となれば、それは神妙なことである。但し、何事も凡人の考えの及ぶところではない。これからどうなるか分からない。」と記し、直義が、天下の静謐を乱す張本人とみなしていたことを書き残しています。そして直義の政治面における存在の大きさが、この園太暦のこの言葉の中に如実にうかがうことができます。
 また、宗教的な観点から見ると、幕府の宗教行為が、直義にもっぱら担われていたことを考慮するとき、夢窓派の法流の拡大発展にとって、夢想流に教義上の疑義をさしはさむ直義の存在は、大きな障壁であったに違いありません。直義が観応の擾乱によって放逐されたことは目の上の瘤が取れたようなもので、夢窓派には望外の幸運であったと云えるでしょう。
 一方、尊氏はと云えば、直義が京を出奔した直後、「夢窓疎石を開山とする天竜寺に対し、足利氏の子孫及び一族家人は、末永く同寺に帰依し、同寺()()の策を(もっぱ)らにするよう」言い置いた書状(自筆置文)を遺しています。これは将来の夢想流の発展を予告する事実であって、北山文化の時代に夢窓派の禅傑が輩出し、一世を風靡する隆盛を誇りましたが、その原点はこの書状にあったといえるでしょう。
 直義が親近感を示した宋朝禅は、鎌倉幕府的な臭いが強いことから見れば、夢窓の和風禅のその後の隆盛もまた、「鎌倉幕府的秩序」の衰退とみることができるのではないでしょうか。
 さて、太平記に直義の名前が登場する回数は、決して少なくありません。
 直義の登場場面を繙いてみると、「建武元年1334、権力闘争に敗れた護良親王の身柄を鎌倉で受け取り、土牢に閉じ込めたあげく、翌2年7月、中先代の乱のどさくさに護良を殺害させたこと」に始まります。
 そして、「建武2年1335、11月、中先代の乱鎮定後、尊氏が出家しようとした時、尊氏・直義追討を命じる内容の後醍醐帝の綸旨を偽作し、尊氏の決起を促したこと」が続き、「延元2年1337、3月、越前金ケ崎城陥落のさい、捕らえた(つね)(よし)(なり)(よし)の両親王を毒殺したこと」「暦応元年1338、春、直義が邪気に侵された時、光源上皇が平癒を祈って、石清水八幡宮に願い文を納め、ために直義が快癒したこと」「仁和寺六本杉のくだりで、護良親王の霊が、直義の内室の腹に男子として生まれ、観応の擾乱のきっかけをつくったこと」「貞和5年1349の直義と高師直・師泰との確執の顛末」「観応元年1350、10月以降の直義の反撃から、同3年2月鎌倉で殺害されるまでの、尊氏・義詮との抗争の次第」と続き、全部で7か所あります。
 この中で、最も注目されるのは、何と言っても吉野朝皇子らの殺害であって、この事により、直義は、因果応報的に不遇な最期を遂げるという形で、太平記の描写が行われているのです。
 太平記は、直義が、吉野朝皇子殺害という悪事すべてを、一人で担うという形になっており、直義のまさに真骨頂というべき「政道」については、意図的と思えるほど、触れる所がありません。
 直義は、前代の鎌倉幕府的な要素を一心に漂わせているのです。
 直義は、生涯の最後、鎌倉に入り、尊氏によって殺害されるのですが、この事自体が直義の真からの鎌倉志向と、もっとも鎌倉的なものの終焉を象徴している、とみることができるのではないででしょうか。
 直義の、鎌倉に目を向けた歴史との関わりを考えるとき、「鎌倉」的時代の終焉は、鎌倉幕府の滅亡ではなく、実は、直義がこの世を去った観応3年1352である、とする見方も成り立つのではないかと思います。
 直義の生涯は、楠氏に見られない、足利氏の一員であるが故の、波乱万丈に満ちた生涯でありました。
 己の信じる義を貫き、きれいすぎるともいえる、潔い死を遂げた正成、正行の生涯。
 一方、それに引き換え、あまりにも立ち位置が揺らぎ、儚い野望を抱き、失意のうちに閉じた直義の生涯。
 対極にあたるともいえる両者の最期ですが、生前、正行と、直義はいったいどの様な会話を交わしたでしょうか。
 もしかすると、「正行よ。わしとともに、兄、尊氏を討とうではないか。」と、伝えたやも・・・。
 時間が来たようでございます。
 講談「足利直義」、一巻の終わりでございます。
 ご清聴、ありがとうございました。

                                   (おわり)


 
●電通大・社会プロジェクト実習 5年目 決定!
  「畷の歴史・文化をゲームに 第2弾!」
 昨年の成果を踏まえて、より完成度・クオリティの高いゲームを制作する。
 今年は、テーマを6つに絞り込む。
 ・弥生時代~稲作文化
 ・古墳時代~馬文化発祥のまち
 ・南北朝時代~四條畷の合戦
 ・戦国時代~河内キリシタン
 ・江戸時代~街道文化
 ・近世~水車産業
 *正行ゲームは制作必須
 □予定スケジュール(正行の会関係分)
 0428日 学生との対面
 0512日 扇谷講義①
 0519日 扇谷講義②
 0526日 現地学習/案内
 0714日 テーマ発表会
      夏休み集中講義
 1006日 中間発表プレゼンテーション
 1110日 デモプレイ
 1204日 市民ゲーム大会/総合センター・展示ホール

●発足以来の活動の記録
 
平成2611月~令和32





次回例会
 日時 39日(火)、1330分~1500分
  場所 四條畷市立教育文化センター2階・会議室
  内容 講談「児島高徳」
      その他
傍聴、入会大歓迎!

  郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
  例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
  お気軽に、教育文化センターの2階ホールを覗いてください。お待ちしております。

正行通信 第123号はコチラからも(PDF)

正行通信 第124号はコチラからも(PDF)




四條畷 楠正行の会 第67回例会 

日時 令和3年1月12日(火) 午後1時30分より3時
場所 教育文化センター 2階 会議室1

●四條畷、今年初めての雪景色                   
 
 令和3年最初の例会は、四條畷でも雪景色となり、非常に寒い中での開催となった。

 しかし、一人二人と集まり、暖房を入れながら、東西の窓を開け、ソーシャルディスタンスをとり、全員マスク着用での例会となった。

●まだまだ、新しい発見が・・・。

 今月は「北朝の天皇」を取り上げ、2月「足利直義」、3月「児島高徳」と、今までと少し違った角度から正行が生きた南北朝時代を繙く予定だが、事前の資料準備の段階で、今まで気づくことのなかった当時の舞台裏を極めて強く感じている。
 北朝の天皇たちが、いかに時代に翻弄されたか、また希望の頂点と失意のどん底を体験しながら、北朝内部でし烈な皇統の争いがあったことは新しい発見であった。
 足利幕府も、足利直義の目から見ると、今までとは全く違った人間模様が見えてくる。また、児島高徳の生きざまを詳細にみれば、吉野朝でも脚光を浴びなかった多くの武将がいたことが分かるし、そこに脈々と流れる「義を貫く」精神を感じる。
 そして、それらの人物像が、錯綜しながら、スポットを浴びる様々な出来事の裏にしられざる動きがあったこともわかる。
 今年も、新たな発見も含めて、楽しい学びがスタートした。


             受講の様子

楠正行通信第122号(112日発行)
 ・清水寺成就院で勤王の公武を結んだ月照上人
 ・安政の大獄を逃れ、錦江湾で西郷と入水
 ・弟、信海上人が遺した正行への思い~正行辞世の歌からの本歌取り

■北朝の天皇と正行
 配布資料 ①北朝天皇と楠正行
      ②北朝の天皇の動向
      ③南北朝時代前後の皇統の流れ
北朝の天皇 光源・光明・崇光・後光源・後円融・後小松
(総括)
 *足利尊氏に翻弄され、義満に実権を握られた天皇たち
 *幕府と吉野朝=楠氏の対立抗争の中にあって、行在所定まらず、廃位・幽閉の憂き目に
 *大覚寺統と持明院統の対立と同時に、光源の嫡流(崇光)と庶流(後光源)の対立抗争も
 *義満時代、北朝庶流:後光源系に皇統一本化
 *しかし、称光に皇子生まれず、嫡流崇高後衛伏見の宮・後深草嫡流の後花園に
 *結果、南北朝時代の大覚寺統・吉野朝、北朝主流・後光源系はともに断絶した
 *なお、正行活躍時代の北朝天皇は光明のみ
 延元元年1336から正平31348までの12年間は
 正行、河内東条平和の時代が長く続いたが
 北朝にあっても比較的穏やかで、光明治世に大きな変化はなかった
 

資料①
北朝天皇と楠正行

1、北朝天皇の流れ
北① 光源天皇 即位18歳 在位2年間
    尊氏に翻弄される!

    = 建武の新政 = ~後醍醐天皇の親政 ~
    後伏見・花園上皇捕らえられる
    皇統を主張できない3人の天皇
北② 光明天皇 即位14歳 在位12年間
    ※三種の神器なし
北③ 崇光天皇 即位14歳 在位3年間
    正平の一統崩れ、足利氏吉野朝に降伏後
    ☛ 3上皇らは吉野朝に幽閉 そして、金剛寺で1年を過ごす
北④ 後光源天皇 即位14歳 在位19年間
     ※群臣議立(継体天皇の例)
     三種の神器も、上皇の詔もないまま、幕府によって擁立された
     義満の影響!
     ※度々の逃避行  実権は義満に
北⑤ 後円融天皇 即位12歳 在位11年間
    持明院統の嫡流・崇光上皇と、庶流・後光源上皇の確執と皇位継承問題
100 後小松天皇 即位6歳 在位30年間
     義満、准后に

 
   室町殿(義満邸)で執務~義満の補佐
    16歳のとき、南北朝合一
    明から日本国王の称号
    ☛ 三種の神器:皇統を継承

2.北朝の天皇
 *足利尊氏に翻弄され、足利義満に実権を握られた天皇たち
 *行在所も定まらず、三種の神器もなく、正式な皇統とは言えない状況
 *幽閉の憂き目にも~3上皇、一時、金剛寺で吉野朝・後村上天皇と同居
 正行との関係
 ☛ 正行の活躍時代、北朝の天皇は光明天皇だけ
 *北朝の天皇に、皇統の証はなく、足利氏の傀儡天皇
  南北朝時代というが、現実は、「足利幕府」と、「吉野朝」=楠氏、対立抗争の時代
  正行の知りうる天皇は、光源と光明の二人 しかし、
  接点もなく、無縁の存在であったと思われる
  正行が仕えた天皇は、後醍醐と後村上で
  吉野朝を支える武将は、正行時代、ほぼ唯一一人の状態であった
 ☛ 「物」「心」両面で支え続けた正行

3.石原比伊呂著「北朝の天皇」中公新書より
 *承久の乱と皇統の分裂
  古代 壬申の乱(672)後、天智系と天武系の分裂
  中世 保元の乱(1156)後、後白河天皇と崇徳上皇の対立
      承久の乱(1221)後、混乱を収束していく中でキーマン後嵯峨天皇の登場
      ☛ 鎌倉幕府と良好関係築く:公武協調の朝廷政治
 *後嵯峨の継承者
  後深草と亀山の対立、伏見天皇即位によって、後深草は治天の君に
  この後、亀山を祖とする大覚寺統と、後深草を祖とする持明院統の対立が構造化される
  幕府:後深草流~持明院統が存続するよう措置
      ~ 固定化に働いた武家の意向の影響
  ・持明院統 琵琶  手続き重視=鎌倉幕府の訴訟制度の特性~幕府に寄り添う傾向
  ・大覚寺統 笛   聖断重視:天皇や上皇の決断が最も重要
 *後二条天皇の即位
  この時、5人の上皇と法皇~空前絶後の事態
   大覚寺統:亀山法皇、後宇多法皇          =八条院領
   持明院統:後深草法皇、伏見上皇、後伏見上皇 =長講堂領
 *後醍醐、倒幕への道
  後醍醐は所詮、中継ぎ「一代の主」という立場
  1 後宇多(実父)の死 皇位を自らの子孫に伝える障壁・重しが取れる
  2 東宮、邦良の死~2枚目の障壁
  3 幕府、持明院統の量仁(のちの光源天皇)を立太子させた
    ☛ 後醍醐に焦り・焦燥感
     ≪鎌倉幕府こそが最も高くて厚い障壁であることが明確に≫
      ~ 後醍醐、新興勢力の登用に走り、成功 ~
 *後醍醐の過ち
 *足利氏の立場
  頼朝は源義家の嫡子、義親の子孫
  が、足利家は、義家の庶子、義国の子孫という血統上の弱点
  ☛ 元弘没収地返付令と、持明院統の担ぎ出し
    「足利軍は、『北朝の軍隊』である」という認識の社会的定着
 *正平の一統破綻と北朝天皇の幽閉
  光源上皇、光明上皇、崇光上皇と直仁親王の拉致
  ☛ 推戴すべき北朝の人物がいなくなった
    強引な解決策:拉致を逃れた崇光の弟、後光源天皇の擁立
    ☛ 崇光の系統と後光源の系統が、二分裂
       3上皇の復帰後、嫡流としての崇光に天皇家財産の処分権
      =潤沢な経済基盤:長講堂領を背景に、
      崇光上皇は北朝本来の正統としての存在感を示し続ける
      が、足利義満は、崇光の所領を取り上げ、後小松の所管に移した
      この後、崇光院流は京都南郊の伏見で隠棲同然の日々を過ごし、
      「伏見宮家」と称されるようになる ・・・ 後花園で復権!
 *光源天皇の地獄変
  ① 鎌倉幕府の滅亡~後醍醐によって、皇位にあったという事実を抹消される
  ② 吉野という見知らぬ土地・山奥での軟禁生活
  足利直義との「君臣合体」の関係
  ~ 天皇と将軍の関係の萌芽
     崇光への譲位と直仁(花園天皇皇子)の立太子は、直義・光源・花園の合議で確認
     /園大暦
  *後光源天皇践祚
  「群臣議立」という異例な形での即位
  ☛ 前天皇らが吉野・河内に幽閉の身となり、治天の君の譲位院宣ができない状態
    三種の神器がない
    奇策=継体天皇の洗礼に倣う群臣議立
        ~ 臣下たちが一致団結して新たな天皇を即位させること ~
  足利二代将軍義詮の全面的バックアップ
 *後円融天皇
  細川頼之率いる幕府のバックアップで、目も止まらぬ早業で即位
  ~崇光院支持派を粛正=後光源院流擁立が幕是化~これ以降の既定路線に
 *南北朝合一
  義満時代の最大のトピック
  南北合一の3条件
  ① 三種の神器を後亀山から後小松に引き継ぐ
  ② 今後は、後亀山の子孫と後光源の子孫で皇位を継承する
  ③ 天皇家の資産の内、諸国国衙領は後亀山系に、長講堂領は後光源系が引き継ぐ
  義満には全く3条件遵守の思いなし
  結果、先祖代々の拠点、大覚寺に入った後、後亀山は姿をくらます。
  ☛ 山奥に逼塞した後亀山は、伝承上の人物に~反幕府勢力の旗頭に:後南朝へと続く
    南朝から皇位回復の可能性を奪い去った義満

 
   同時に、長講堂領以下の所領を、崇光院系から取り上げ後小松に移す
    =後光源系を正統として支持
 *後円融天皇
  義満と不仲で、孤立化招く
  義満による後光源仏事の妨害
  ~ 後円融の院政排除
 *後小松天皇
  6歳で即位、16歳の時、南北合一
  義満の全面バックアップ、そして義満の法皇化~公卿化
   父権者たる義満に頼り切った後小松


4.吉野朝主流、北朝主流は、共に絶え、今に続く皇統は北朝庶流の後花園の末裔

大覚寺統(後嵯峨天皇の第3皇子・亀山天皇)と持明院統(後嵯峨天皇の第2皇子・後深草天皇)の確執
 両統の対立は、亀山天皇に譲位後、後嵯峨上皇が崩御すると、後深草上皇は皇位継承をめぐって、亀山天皇と対立したことに始まる。
 この対立は、南北朝の対立という悲劇を生む。
 兄、後二条天皇の遺児・邦良親王が成人するまでの一代限りとの条件のもと即位した後醍醐天皇は、朱子学に傾倒し、天皇親政を目指し倒幕の道へと進み建武の新政を始めるが、新政の挫折によって国を二分することになる。
 吉野に開いた朝廷は、後村上天皇(後醍醐天皇の第7皇子)、長慶天皇(後村上天皇の第1皇子)、後亀山天皇(後村上天皇の第2皇子)と引き継がれるが、足利義満によって南北朝が合一され後亀山天皇から後小松天皇に皇統が移ると、吉野朝・後醍醐天皇の血筋は消えた。
足利幕府傀儡の北朝にもまた皇位継承をめぐる対立が
 元弘の乱で、後醍醐天皇が三首の神器をもって出京したため、幕府によって立てられたのが北朝第1代光源天皇。
 光源天皇は、沖を脱出した後醍醐天皇によって廃位させられる運命をたどるも、建武の新政の失敗後、光源天皇の弟光明天皇が即位する。しかし、正平の一統で後村上天皇が京を奪還した際、光明・光源・崇光は吉野に幽閉の憂き目にあう。
 この時、幕府は崇光の弟、後光源天皇を擁立した。そして、この後後円融・後小松・称光と弟の後光源天皇系が続くが、兄、崇光との皇位継承をめぐる確執・対立が残った。
 南北朝は、大覚寺統と持明院統の対立が言われるが、持明院統=北朝の中でも、足利幕府傀儡として翻弄されながら、光源の嫡流(崇光)と庶流(後光源)があったことに留意すべきである。
 そして、歴史はこの対立について、嫡流に軍配を挙げている。
 生来病弱であった称光天皇に皇子は生まれず、崇光天皇の後衛伏見の宮、即ち、後深草(持明院統)の嫡流・後花園天皇が即位する。
 今に続く皇統は、後花園天皇の後衛になる。
 結果、南北朝時代の北朝主流・吉野朝とも、断絶したともいえる。




■第8回楠正行シンポジウムの開催について

 再び延期し、710日に開催・決定!
 1/7 公民館神本館長・森職員と打ち合わせ
 昨年3月開催を本年313日に延期した開催日程の取扱いについて
(協議の結果)
 昨今のコロナ感染状況を受け、現在、公民館は新規受付中止中。
 首都圏での緊急事態宣言、大阪府での感染状況の増加傾向を見据え、受付緩和は難 しい局面。
 開催の有無に関する再周知のためには、2月広報掲載(118日原稿締切)がタイムリ ミット。
 結果、313日開催の再延期を決定。
 夏場に入り、一定の収束を見込む。
 新たな開催日程を決定
  ●日時 令和3710()、午後2時~午後4
 ●場所 市民総合センター1階展示ホール
 ●内容 1部 楠正行論文表彰式
     2部 ライブペインティング「楠正行」
 ●周知 四條畷広報誌5月号掲載


□第12回日経小説大賞「利正の人 尊氏と正成」 天津佳之
 2月出版予定/日本経済新聞出版より
 ~ 利生とは・・・衆生に神仏の利益をもたらすこと ~

 ☟ 日経新聞より


次回例会

 日時 29日(火)、1330分~1500分
 場所 四條畷市立教育文化センター2階・会議室
 内容 足利直義と楠正行
     その他

傍聴、入会大歓迎!

 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターの2階ホールを覗いてください。お待ちしております。

正行通信 第122号はコチラからも(PDF)



四條畷市立教育文化センター四條畷市立教育文化センター



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