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高齢者・子どもたちの笑顔あふれる街 四條畷市立教育文化センターは

四條畷市立教育文化センター
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〒575-0021 大阪府四條畷市南野5丁目2-16
 

過去のイベント紹介

平成25年 平成26年 平成27年 平成28年 平成29年 平成30年 令和元年 令和2年
令和3年① 令和3年② 令和4年①  令和5年①  令和5年楠正行の会   令和6年  

平成28年開催のイベント

四條畷楠正行の会 2016年12月忘年会

日時 平成2812月13日(火)
場所 和食「さと」
対象 会員(11人参加)
イベント内容 ◆2年間の例会で重ねて来た正行研究の軌跡
 私たちの会は、平成2611月に発足しましたので、今年10月満2年を迎えました。
 この間、毎月の例会で、史料の少ない楠正行という人間像を浮き彫りにすることを目的に、楠木氏一族周辺の人物像及び楠木氏との関係を分析することとし、以下の通り学んできました。
 平成2611月 後醍醐天皇と正行
 平成
2612月 後村上天皇と正行
 平成
2701月 北畠親房と正行
 平成
2702月 四条隆資と正行
 平成
2703月 護良親王と正行
 平成
2704月 観心寺龍覚坊と正行
 平成
2705月 朱舜水の正行賛文を読み解く
 平成
2706月 湊川神社現地学習(正式参拝と学芸員講話)
 平成
2707月 朱舜水の正行像賛解釈
 平成
2708月 お休み・通信のみ発行
 平成
2709月 黙庵禅師と正行
 平成
2710月 足利尊氏と正行
 平成
2711月 細川顕氏と正行
 平成
2712月 後醍醐天皇の目指した延喜天暦の治について学ぶ
 平成
2801月 金剛寺・摩尼院現地学習(元学芸員解説)
 平成
2802月 楠正儀と正行
 平成
2803月 高師直・師泰と正行
 平成
2804月 正行の受けた教育について学ぶ
 平成
2805月 四條畷の合戦、その戦跡を訪ねて歩く(1)
 平成2806月 新田義貞と正行
 平成
2807月 九州、菊池一族と正行
 平成
2808月 奥州、白河結城氏と正行
 平成
2809月 山陰、名和長年と正行
 平成
2810月 四條畷の合戦、その戦跡を訪ねて歩く(2)
 平成
2811月 如意輪寺現地学習(住職の講話)

楠正行の会発足後、初めての懇親会
 今月の例会は、2年の節目を終えて、一休みをして、新しい年を迎えましょうと、会発足以来初めての懇親会をしました。
 一休みと云いながら、でも、話題は尽きることがありません。
 主な話題を拾ってみましょう。

① 産経新聞の特集 第9部 嫡子正行

 1122日 久子の方 楠妣庵観音寺
 1123日 藤井寺の合戦 誉田八幡宮
 1124日 住吉天王寺の合戦 渡辺橋の美談
 1125日 正行辞世の歌 如意輪寺
 1126日 四條畷の合戦 四條畷神社~四條畷の誇り
- 産経新聞の3月から始まったこの特集は、楠公ブーム創出に一石を投じてくれました。年明けには東京でも特集が集約された形で紙面化され、3月ごろには東京でシンポジウムを開くとの情報があります。
 1126日の産経新聞朝刊1面に、大見出しで、『四條畷の誇り』との文字が掲載されましたが、1面に四條畷が載るのはまれなことで、大いに宣伝になったのではないでしょうか。

② 楠公父子を日本遺産に登録!
 1案 元祖、サムライ親子物語
 2案 サムライと僧侶が作った中世世界
 3案 楠木親子の軌跡をめぐる物語
 構成自治体
 神戸市(湊川神社)、島本町(国史跡桜井の駅跡)、四條畷市(四條畷神社)、富田林市(楠妣庵観音寺)、千早赤阪村(国史跡千早城址)、河内長野市(観心寺) 河内長野市主導で、6自治体による楠公父子の日本遺産登録が進んでいます。懇親会でも、実現を期待する声が全員から出されました。
 文化庁との協議では、ストーリー性が重視され、「目に見える観光資源」との報道があります。
 四條畷市は、「観光可視化戦略」に基づく観光行政を展開しています。同戦略に基づいて、平成25年に始まった「楠正行シンポジウム」は来年3月第5回目を迎えますが、東京や名古屋を含め、広く市内外からの参加を得ています。また、数年前から、郷土教育の充実を図る観点から、小学校3年生用の副読本が作られ、四條畷の合戦や、この戦いで活躍した郷土の誇り、楠正行を子どもたちは学んでいます。
 これらは、すべて「目に見える資源」といえるのではないでしょうか。
 もっと言えば、目には見えませんが、私たちの市名「四條畷市」は、楠正行を祀る四條畷神社が創建されたことを契機に、元々甲可村であった村名を四條畷村に変えたという由来があります。目には見えませんが、私たちの日常生活にどっぷりと生きている楠正行の象徴が、私たちの市名であるともいえます。
 いずれにしましても、楠木父子の日本遺産登録に向け、四條畷市関係者の踏ん張りに大いに期待します。
 さて、疑問が一つ。
 ~ 楠公父子と強いかかわりのある吉野町(如意輪寺に残る正行辞世の歌を刻んだ板塀、吉水神社等)、笠置町(元弘の戦い、笠置山笠置寺、後醍醐天皇と正成出会いの地であり、正成の名が世に出た初めてといえる場所でもある)は、何故入っていないのか?

③ 高山右近、日本訣別の害
 石川県、本行寺に残る書に、正行、辞世の歌の引用
 ~ 正行没後約250年、名だたる大名に知られていた事績という事の証左
 高山右近は、国外追放の命を受け、日本を去るにあたって、楠正行が、吉野に詣で四條畷に向かった時の心情を重ねて記したものと思われます。
 江戸の初め、正行のこの事績は、大名クラスにも知られていたのです。楠公父子の事績は、室町、江戸と脈々と生きていたことが伺えます。


④ 弁の内侍、尼となって龍門、今の西蓮寺のある場所に入る
 正行亡き後、弁の内侍は吉野山から北方にあたる龍門の里、「聖尼庵」で菩提を弔いました。
 江戸初期、長宗我部元親の6男、文親、改め鉄牛上人がこの地に入り、西蓮寺を開祖しています。
 そして、西蓮寺は、弁の内侍ゆかりの寺として、この周辺の多くの末寺を持つ浄土宗の本山となっています。
 扇谷にとって、末寺の一つがある志賀は母の里であり、末寺のあった津風呂(今は津風呂湖の湖底に沈む)は生地という縁があります。


⑤ 正行アニメーション、正行ゲームの制作を企画
 大阪電気通信大学とコラボし、アニメやゲーム、絵本の制作等を検討しています。
 「楠正行」(まさつら)と読めない若い人が増える中で、若い世代への正行顕彰を図るツール開発が目的です。
 一人でも多くの学生さんに協力を呼び掛け、実現に向けて取り組みます。

⑥ 和束町?に残る「駒返しの岩」
 元弘の変で、笠置山に籠城した後醍醐天皇の最期、笠置落城の急を聞きつけ、千早赤阪から急ぎ楠木正成は笠置に向かってきましたが、この地まで来て笠置山の炎上を見て駒を返した、と伝わる岩が残っているとのことです。
 国道163号と木津川が並走して走る場所、その河原敷きの竹やぶの中に残るこの岩(花崗岩)には、約1メートルの石仏が彫りこまれているようです。
 参加者全員がその存在を知りませんでした。このことは、扇谷が、ある日、タクシー乗車中、同乗者と楠談義をしていたところ、降車時に、タクシーの運転手さんから、「今日は大変貴重な話を聞かせていただきました。私は笠置町の出身ですが、加茂にある駒返しの岩のことはご存知ですか?」と教えられたのがきっかけでした。
 運転手さん、貴重な情報をありがとうございました。

 この日、その他、「正行談議」で大いに盛り上がりました。

 
 

 
その他
連絡事等



◆1月例会は、1月10日、長宗我部元親と正行
 なお、平成29年、新年1月の例会は、第2火曜日の10日、午後130分から、教育文化センターで開催します。
 長宗我部元親と楠正儀の末裔と云われる楠瀬氏の娘との間にできたといわれる6男、文親のことがあり、1月は「長宗我部元親と正行」をテーマに討論予定です。
 2月は、懇親会でも話題になった高山右近を取り上げる予定です。
 正行にご関心のある方、郷土の歴史にご関心のある方、大歓迎です。
 気軽に覗いてください。会費は、例会参加費100円です。

 
 
 
 楠正行通信37号・38号・39号はコチラよりご覧いただけます。(PDF)



「教文 クリスマス会」

日時 平成28年12月9日(金) 午前10時より
場所 四條畷市立教育文化センター 2階ホール
イベント内容 教文の大きなツリーに飾りつけをして、楽しい人形劇を見ました。そして、みんなで声を合わせてサンタさんを呼びました。するとサンタさんが二人来て、みんなにお菓子をプレゼントしてくれました。



四條畷楠正行の会 第24回例会(現地学習会)

日時 平成28118日(火)
場所 吉野町吉野山 如意輪寺 現地学習会
対象 会員(8人参加) 特別参加1人 計9人
イベント内容 ◆近鉄阿倍野橋から近鉄特急で向かった如意輪寺
 突然の体調不良やご家族の急病、更には業務の都合等で、残念ながら参加できない会員が4人出て、JR四条畷駅に集合したのは会員7人と特別参加の奥田さん(教育文化センター指定管理者・阪奈エンタープライズ株式会社社長)の8人。
 JR四条畷駅から、京橋経由で、天王寺、そして近鉄阿倍野橋駅に到着。
 阿倍野橋から吉野までは、近鉄特急に乗車
 列車内で、扇谷が準備した例会資料を基に、短時間の例会を開催して、あとは和やかな談笑の中で、一路、吉野に向かいました。
 吉野駅に着いた一行は、小雨の中、如意輪寺を目指して「ささやきの小道」を歩き始めましたが、途中、一匹の犬が私たちを出迎えるように現れ、その後、如意輪寺に到着するまで、前に行ったり、後ろに行ったり、休憩場所では一緒に休むなど、まるで如意輪寺から道先案内に来てくれたのではないかと見まがうばかり。
 約45分かかって、如意輪寺に到着しました。会員には70代後半の人もおり、いささか厳しかったようで、特に、最後の石段は相当こたえた様子でした。

 
如意輪堂(本堂)で加島ご住職の講話を聴く
 如意輪寺に到着すると、ご住職夫妻、そして御子息の副住職が出迎えてくださり、早速、本堂にご案内いただき、ご住職の講話を聴かせていただきました。
 また、東京から参加の広木さんも、ほぼ同じ時刻に到着、再会を喜び合いながら合流しました。
 ご住職は、如意輪寺の沿革、そして長宗我部元親と楠木正儀の末裔にあたる楠瀬家の娘との間に生まれた六男、文親が鉄牛上人として吉野に入り中興の租として再建に取り組んだこと。また、如意輪寺再建の折に、如意輪堂から板塀が外され、今その板塀は宝物殿に展示していること。などなど、ご説明をお聞きしていると、お目当ての「ピザが焼きあがりましたよ」と、奥様からお声がかかり、寺務所の中で昼食をいただきました。
 ピザは、後醍醐天皇が好んで食したといわれているチーズをふんだんに使ったものと、トマトやピーマンなど野菜を主にした小僧ピザの二種類。
 ご住職と副住職のお二人が焼いて下さったピザをほおばりながら、奥様が入れてくださったコーヒーやお茶などをいただきました。

特別公開中の御霊殿、そして宝物殿の辞世の扉に感激
 楽しい食事タイムの後は、境内、そして宝物殿の見学へと移りました。 この日、ラッキーなことに、後醍醐天皇御霊殿の年一回の特別公開と重なり、後醍醐天皇自作と云われる木像を拝見し、宝物殿に向かいました。
 宝物殿では、会員一人一人が、それぞれ関心を持つ展示物の前に立ち、じっくりと鑑賞することができました。
 しかし、何と言っても、正平2年12月27日、四條畷の戦いを前に訪れた如意輪堂の板塀に鏃で刻んだといわれる辞世の歌、「かゑらじとかねて思えハ梓弓 なき数に入る名をぞとどむる」を刻んだ板塀に、多くの人がくぎ付けとなりました。
 そして、宝物殿での鑑賞を楽しんだ後、裏山の塔尾山の石段約60段を上がり、後醍醐天皇陵に参りました。
 ここでは、会員の真木さんに藤井竹外の芳野懐古を吟じていただきました。突然のリクエストにもかかわらず気持ちよく受けていただき、静寂の中で、後醍醐天皇陵を前にした放吟に、会員一同聞き入りながら、南朝への思いを一層熱くしたことと思います。

小楠公髻塚の碑の拓本を広く販売して欲しい、とお願い

 今回の現地学習は、如意輪寺に残る史跡の中でも、特に、「正行公の髻塚」「小楠公髻塚の碑」「弁の内侍詩情塚」「芭蕉の句碑」「尾山篤次郎歌碑」などの句碑・歌碑等にこだわっての学習でした。
 小楠公髻塚の碑は、森田雪斎の撰文ですが、正行公を讃えた内容が刻まれています。しかし、現在は石の風化と時間の流れとともに、表面の文字がほとん
ど読み取れなくなっています。
 そこで、扇谷から、ご住職に対し、「ぜひ、拓本を取っていただき、その拓本を展示いただくとともに、印刷して販売し、広く求める人に伝わるようにしていただけないか」と、お願いしました。


広木さん、東京支部長として我々の仲間に
 アッという間に、予定の滞在時間が終わってしまいました。
 広木さんは、この日、吉野山に宿泊の予定という事で、如意輪寺でお別れしましたが、四條畷楠正行の会の会員として入会いただき、この日、東京支部長になっていただきました。
 私たちの会としては、一人でも多くの人に楠正行の生涯や生き様を伝えていきたいとの強い思いを持っており、遠く、東京にも仲間ができ、会員全員で喜び合いました。
 帰途は、滞在時間を少しでも長くしたいという思いからタクシーを呼んでいただき、吉野駅に向かいました。
 ご住職夫妻と副住職にお見送りをいただきながら、お土産にと頂いた正行辞世の歌を描いたハンカチ、そしてお菓子を手に、タクシーに乗り込みました。

 
その他
連絡事等


 次回、12月の例会は、座学を休み、13日(火)、会発足以来初めてとなる懇親会(忘年会)とします。
 楠正行にご関心のある方は、来年1月10日(火)午後1時30分、教育文化センターにお越しください。大歓迎です。
 
 
 楠正行通信36号はコチラよりご覧いただけます。(PDF)


「教文親子体操で秋の遠足に出掛けました。」

日時 平成28年10月27日(木) 午前10時~12時
場所 四條畷市立教育文化センター
対象 市民
イベント内容 「教育文化センター親子体操」で修景施設さとやまへ遠足に行きました。
さとやまは、教育文化センターより約800mの上りに位置しており、皆さん頑張って辿り着き、お弁当を食べました。

修景地さとやま 修景地さとやま
修景地さとやま みんなでお弁当を食べてます。

「教文親子体操でお芋掘りをしました。」

日時 平成28年10月13日(木) 午前10時~11時30分
場所 四條畷市立教育文化センター
対象 市民
イベント内容 教文のさつま芋畑で、「はじめての芋掘り」を体験しました。
大きなお芋は出てきましたか?

芋掘りの様子 芋掘りの様子


四條畷楠正行の会 第23回例会(現地学習)

日時 平成28年10月11日(火) 午前9時20分~午後4時30分
場所 現地学習(四条畷駅…近鉄バス…瓢箪山駅~六万寺往生院(正行墓・本陣跡他)~水走氏館跡~枚岡神社・首洗いの井戸~枚岡駅…瓢箪山駅…近鉄バス…四条畷駅~反省会・解散
対象 会員 10人出席
特別参加 6
 広木双葉(東京都在住)
 山下弘枝(湊川神社・楠木同族会)
 久野 潤(名城大学非常勤講師)
 藤原摂鵬(吟道摂楠流宗家補佐)
 西尾佳岐(四條畷市市民生活部長)
 奥田 優(指定管理者・阪奈エンタープライズ株式会社・代表取締役社長)

イベント内容 ◆現地学習「四條畷の合戦、その戦跡を訪ねて歩く第二弾」
●JR四条畷駅に全員集合
 今月の例会は、現地学習「四條畷の合戦、その戦跡を訪ねて歩く第二弾」を実施しました。JR学研都市線「四条畷」駅、午前9時20分集合でしたが、今回はハプニングが起こりました。明石から参加の藤原さんは、JRの遅延で、バス発車に間に合うかどうか大変心配しましたが、何とか間に合い安堵。しかし、八幡から参加の山下さんと久野さんは、バス発車に間に合わないという事で、急きょ予定を変更して近鉄・瓢箪山駅で合流することに。また、西尾部長は、急に公務が入り、午前中は参加できないこととなり、急きょ午後からの合流となりました。
 最も遠い、東京から参加の広木さんは、午前600分発の新幹線で来阪され、集合時間前に到着、奥田社長も交え、近鉄バスに乗車しての出発となりました。

近鉄瓢箪山駅から徒歩で出発
 一同は、瓢箪山駅から往生院に向かいますが、この行程はのぼりばかりで、四條畷の合戦で正行が本陣を構えた河内往生院に辿りつくまでに一苦労といったところでした。


 ↑川口住職の話に聞き入る

 今回の現地学習は、正平315日、四條畷の合戦の折、正行が本陣を構えた河内往生院から枚岡神社までの戦跡を訪ねて歩きます。
 往生院に到着した我々一行を、ご住職の川口哲秀氏と副住職の川口泰弘氏が出迎えてくださり、瓦葺の金堂が建てられた鎌倉時代前期の甍と軒周りの一部の実物大での復元物を前に、陳列されている出土した丸瓦、平瓦を前に、往時の金堂の壮大さを実感していただきたい、と説明をいただいた。
 そして、河内往生院は四天王寺のほぼ真東にあたっており、往生院から見る彼岸の太陽は四天王寺に向かって落ちていき、この地が極楽浄土の東門にあたる事から極楽往生を達するためにふさわしい場所ですと、往生院から写した四天王寺に夕陽の落ちる写真を示しながら、説明いただきました。
 次に、往生院の西約300メートルの地にある岩滝山遺跡から出土した舟形の石組を移築した場所に移り、この石組のあった園地の底から鎌倉時代の「菊花双鳥文」の銅鏡が出土したと、そのレプリカをお示しいただき説明いただいた。
 川口住職は、この岩滝山遺跡辺りに寺の関係者の住まいがあったものと思われるとし、そのことは、出土した銅鏡が当時寺院や有力武士、豪族しか持てない貴重品であったことから推察されるとお話されました。
 その後、民具館を見学させていただき、昼食休憩を取りました。


●正行墓に墓参
 昼食後、全員で、楠正行墓に墓参しました。楠正行公は、四條畷の合戦に際し本陣を往生院に置き、出陣していきますが、大日本史によればその遺骸を往生院に葬るとあり、左の五輪塔が正行公、右の石碑は正成公の供養塔(江戸期の建立されたもの)が建っています。


 ↑正行墓

 そして、この正行公の墓の前にある石段は、大正4年、初代の中村願治郎が修復されたものでること、そして、近鉄瓢箪山駅にも石の道標を寄贈されたことが紹介されました。この石の道標は、現在、瓢箪山駅奈良方面行のホームの一角に堂々と立っているとのことです。
 
  ↑正行墓に上る石段・初代中村願治郎が修復

 正行墓の墓参の後、往生院の門前で、はるかかなたに大きく見える阿倍野ハルカスと小さくかすかに見える通天閣に挟まれた地にある四天王寺(実際は見えない)を背景に、全員で記念撮影をしました。


 ↑往生院門前で記念撮影(バックに阿倍野ハルカス、通天閣) 

●正行が本陣を構えたであろう本陣跡に感激
 そして、川口住職の計らいで往生院の北東約200メートルの地にある往生院金堂跡に向かいました。
 現在はけもの道になってしまっており、金堂跡の現地まではいけませんでしたが、金堂跡と東高野街道をつなぐ里道に立ち、川口住職の説明をお聞きしましたが、まさに、正行公が出陣をしていったであろうその道筋に立ち、一同全員がその感動と感激をかみしめた瞬間でした。
 金堂跡は、昭和36年、大阪府の史跡に指定され、ここから出土した古瓦の中で最も古い物と思われる物は、平安時代後期から鎌倉時代初期と考えられる軒丸瓦で、中央には梵字「キリーク」(阿弥陀如来の種字)が彫出されているとのことです。
 金堂跡で川口住職、副住職と別れ、枚岡に向けて歩きました。
 金堂跡から東高野街道に向けてはかなりの急こう配で、正行は騎乗していたものと思われますが、相当達者でなければこの坂を馬に乗って降りるのは難しいのではないかと思いました。


●水走氏館跡に立ち寄る
 途中、水走氏の館跡に立ち寄りました。
 今は、開発が進み、周辺はすべて新興住宅が立ち並ぶ一角に、人知れずひっそりと館跡の碑が立っていました。


 ↑水走氏館跡の碑

 水走氏は、枚岡神社の祀官を務め、河内一帯にかけて広大な土地の領有支配権を持った中世の豪族で、水走氏の館は寝殿・廊・惣門・倉等を有するかなり広い屋敷だったことが水走文書に記されています。
 水走氏は、正成に同心して活躍し、正成死後も正行に味方したため、高師直らの攻撃を受けて降伏する憂き目にあっています。しかし、河内守護となった畠山氏の下で既得権益を縮小しながらも維持し、室町時代を生き抜いたようです。

●枚岡神社境内に残る正行公首洗いの井戸を見学
 枚岡神社境内に入った一同は、同神社の権禰宜、枝茂川彰彦さんのご説明で、枚岡神社の由来等をお聞きし、正行公が、四條畷の合戦の折、武運を祈願して馬や武具を奉納されたことも教えていただきました。


 ↑正行公首洗いの井戸(枚岡神社境内)の前で記念撮影

 そして、正行公首洗いの井戸(今は、正行公縁の井戸といわれる)の前に移り、正行公が、四條畷の合戦を前に、“身を清めた”と伝わる首洗いの井戸を見学しました。
 その後、近鉄枚岡駅で流れ解散とし、会員と広木さんはバスで四条畷駅に戻り、駅前の喫茶店で反省会を開きました。


 ↑枚岡神社の鳥居

 この日も、正行公に思いをはせながら、四條畷の合戦の戦跡を訪ねることができ満足感に満たされた一日となりました。

 
その他
連絡事等


 次回は、11月8日(火)です。
 再び現地学習で、吉野如意輪寺を訪れます。
 リポートをお楽しみに!
 

 
 楠正行通信はコチラよりご覧いただけます。(PDF)

「教文でスナッグゴルフをしよう」

日時 平成28年10月2日(日) 午前10時~正午
場所 四條畷市立教育文化センター 芝生広場
対象 市民
イベント内容 秋晴れの教文芝生広場でスナッグゴルフを楽しみました。
今回は長めの芝生で実施したため、芝生の抵抗で球速が弱まり、コツをつかむまで苦労しました。

スナッググルフの様子 スナッグゴルフの様子
スナッグゴルフの道具

教文「みんなの運動会」

日時 平成28年9月22日(祝日) 午前10時~正午
場所 四條畷市立教育文化センター 芝生広場
対象 市民
イベント内容 教育文化センター秋の恒例行事「”みんなの運動会”」を開催しました。
入場行進から始まり、1等賞体操やアヒルのダンス、綱引き、玉入れと続き、台風の目、全員リレーと、みんなで楽しくできました。

みんなの運動会
おとうさんと遊ぼう
サーキット遊び
玉入れ
徒競走
集合写真


教文「センター利用サークル合同サークル展」

日時 平成28年9月18日(日) 午前9時30分~午後4時
場所 四條畷市立教育文化センター 全館
対象 市民
イベント内容 四條畷市立教育文化センターで、9月の第3日曜日に行われるサークル展です。
展示部門では、木彫クラブ、華の会、ひまわりぬいぬいクラブ、手芸サークル、体操の会、教文親子体操、健康体操自彊術、四條畷 楠正行の会、スポーツ吹矢同好会の作品展示や活動紹介などがありました。
また舞台発表では、四條畷 楠正行の会から、オープニングスクリーン紙芝居として「楠正成 正行の生涯」の上映があり、ピアノ生演奏と相まってこころ動かされました。
正午より、琴音会、舞ひまわり、四條畷コスモス会、オカリナの会、詩吟を愛する会、商工会よさこいサークル、畷楽の魂こころ、四條畷吟詩会、文の里民踊会、ひまわりコーラス、楊名時健康太極拳、さくら会さんと続き、大変盛り上がりました。
ご参加の皆様、お疲れ様でした。

ひまわりコーラス
 大正琴 琴音会
さくら会
四條畷市商工会 よさこいサークル
華の会
木彫クラブ
ぬいぬいクラブ
ぬいぬいクラブ
四條畷 楠正行の会
初めてのお絵かき


教文「センター利用サークル合同サークル展 四條畷楠正行の会」

日時 平成28年9月18日(日) 午前9時30分~午後4時
場所 四條畷市立教育文化センター 全館
対象 教育文化センターサークル会員及びその家族、四條畷市民等
イベント内容 スクリーン映像紙芝居「正成、正行の生涯」上映、大好評!

 四條畷楠正行の会として、昨年から出展を始めた教育文化センター・サークル展ですが、ことしは、展示に加えて、ホールで行われた発表の部にも特別出演しました。
 特別出演と云うのは、発表の部の参加を決めたのが、発表の部のプログラム締め切り後だったので、展示の部開会の前に30分間をいただき、午前930分から行ったものです。
 内容は、スクリーン映像紙芝居「正成、正行の生涯」の上映です。
 このスクリーン紙芝居、「正成、正行の生涯」は、
 原作 紙芝居「楠公父子」
 脚本 鈴木景山
 絵画 鳥居清言
 製作 日本教育紙芝居協会
 を、
 扇谷昭が補作の上、四條畷楠正行の会が、スクリーン映像として制作したものです。スクリーン映像の読み手は扇谷、そしてバックで流すピアノ演奏は川口が担当しました。
 17日の土曜日にリハーサルをしましたが、準備で集まった多くの方にも聞いていただき、好評をいただくとともに、アドバイスも頂戴しました。お陰様で、本番では、アドバイスに基づき、ピアノ演奏の一部に変更を加えました。
 本番では、スクリーン映像紙芝居上映の前に、ピアノ演奏「桜井の別れ」を演奏、ムードが高まったところで、上映スタートとなりました。
 上映は、約16分間で、前半が正成の生涯、そして後半が正行の生涯で、会場からはすすり泣きが聞こえるほどで、上映は大成功の内に終了しました。

↓上映前にあいさつする扇谷


展示の部「四條畷の合戦要図」と写真を掲示

 展示の部は、昨年の反省を踏まえ、できる限り文字情報を減らし、「図」と「写真」中心に展示をしました。
 大きく二つのゾーンに分け、一つのゾーンには、「四條畷の合戦要図」を掲示し、その周辺に、当時がしのべる写真を配置し、現況とは全く違う四條畷の合戦当寺に、どこで、どのような戦いが行われたのか、来場者に想像していただけるような構成としました。
 お陰様で、写真や図に見入る人が多く、会員から詳しく説明をしました。

●真木書・朱舜水作・楠正行像賛書も掲示

 また、もう一つのゾーンには、会員の真木さんの書による朱舜水作・楠正行像賛文を掲げ、扇谷昭の略解も掲示しました。
 四條畷楠正行の会では、史料の少ない楠正行の顕彰を目的に、この賛文148文字の啓発・普及に努めています。一人でも多くの人に触れていただき、楠正行のことを知っていただくことができれば大変うれしく思います。
 なお、この朱舜水作・正行像賛につきましては、その全文・釈文・略解を楠正行通信に掲載していますので、ぜひ、ご覧下さい。

↓展示場所の前で、開場前に打ち合わせをする会員の様子


四條畷の合戦要図


↓展示会場に掲示した「四條畷の合戦要図」作成:扇谷昭



朱舜水作・楠正行像賛148文字

↓展示会場に掲示した朱舜水作・楠正行賛文 真木書



 
その他
連絡事等


  次回は、10月11日(火)は現地学習です。
 「四條畷の合戦、その戦跡を訪ねて歩く その2」をテーマに、正行が本陣を構えた河内往生院を訪れ、ご住職の講話をお聞きした上で、河内往生院から枚岡神社まで戦跡をたどって歩きます。
リポートをお楽しみに!
 

 
 楠正行通信はコチラよりご覧いただけます。(PDF)



四條畷楠正行の会 第22回例会

日時 平成28年9月13日(火曜日)午後1時30分~午後3時)
場所 教育文化センター1階 第2会議室
対象 会員(13人出席)

 ↓例会の様子(第2会議室にて)


 ↓例会の様子


イベント内容

第22回例会
21回例会のおさらい

・楠正行通信31号
 藤原氏の血を引く奥州の名門、白河結城氏
 北畠顕家の統治能力と結城宗広の政治力で奥州54郡を統括 

・楠正行通信32号
 828 四條畷市詩吟連盟第54回吟詠大会開く
 扇谷、朱舜水の残した正行賛文について講話


 楠正行が築城した三津屋城
  (資料 1922年刊 大阪府全志 巻の3 519頁写し配布)
  大阪市淀川区三津屋中
  三津屋城跡伝承地 ~ 大阪市顕彰史跡第197
  この地にある光専寺の周辺は、「字 城の前」と呼ばれており、付近には
  「字 馬洗」の地名も存したことから、この一帯が城跡であったと推定で
きる。
  <1922年刊 大阪府全志 巻の3 519頁 該当部分転載>


  ~ 大阪府全志は、三津屋城は正行築城と断定。 ~


後醍醐天皇の親衛隊長、名和長年
伯耆国長田 大山の西北 大山寺から45キロの地 
古代、高地集落の跡 
長田から東北に海より、海岸線沿いに名和荘 古代のタタラ~鉄
 海岸線~海の幸 ウニ・アワビ・サザエ・海藻類
 海の幸を乾燥し、塩漬けにして、各地へ 記録に「鰯売り」の文字が
  ~ 豊かな財政力
文永111274 蒙古襲来
→ 関東から多数の御家人、西国へ下る
  名和氏も、長田から海岸寄りの名和に移り、地名を取って名和を名乗る
  長年、この名和の地で生まれる
弓の家門
 名和川を挟んで東に長者原台地、西に門前台地 この間約500
 長者原台地の堤の上から、名和川付近の的石めがけて弓矢の練習
水田開発
 名和川の水を使って水平を出し、田んぼをつくる
約束の松 : 地元では有名な話
若い頃の長年
 「俺を牛に乗せて送ってくれたら屋敷の木は思いのままに」
 童、後に、屋敷に来りて、大樹を所望
 長年の父、「約束は必ず守らなければならない」と、
 この童に大樹を与える
名和壮の年貢米を京の公家や皇室に運び上げ、帝との接触も…
海岸線の警備
 隠岐や日本海諸港に出入り、そして、交易も=経済力
 加えて、村上水軍との交流始まり、海上権も掌握

後醍醐天皇の隠岐配流
 随行 左中将一條頭大夫行房
    少将六条千種忠顕
帝を支えた村上水軍と山伏
思惑の錯綜と暗躍
 ・大塔の宮による帝救出作戦
 ・山伏による密使の往来
 ・村上水軍の後ろ盾

 ・警護にあたった地方の地頭たちによる番役
 ・「天皇を殺し奉れ」との幕府の急使
 ・天皇みずからの脱出計画
後醍醐天皇と関係者との連絡係
 今もこの地に続く笠置家
  笠置寺の僧の子孫
  帝につき従い隠岐に来て、笠置氏を名乗る

後醍醐天皇隠岐脱出と名和長年
 元弘31333
 2月01日 吉野城落ち、大塔の宮姿を消す
 2月13日 大塔の宮、船上山で頼源に令旨を渡す
   ~ 大塔の宮の下で計画された帝救出作戦
     ① 村上水軍が帝を隠岐から名和港へ運ぶ

     ② 名和長年が帝を名和港から船上山に移す
     ③ 大山寺・鰐淵寺の僧兵が、帝の警護に就く
       この時、大山寺に、南光院・中門院・西明院の3

       中門院の別当は、名和長年の弟、源盛
     ④ 大塔の宮が、帝本人を確認する
  船上山を含む大山の地の利~大山の東西門間40キロ、南北門間30キロ
  総面1200平方キロ
  比叡山の、実に2530倍の面積
  途方もない広大な山地に逃げ込めば、帝の所在をつかむことは困難
 223日 帝、隠岐脱出
   ~ 帝、千種忠顕、成田小三郎の三人が同じ船に乗船
   ~ 帝がどこに立て籠もったかもわからない環境
     名和長年:5000石のコメを船上山に運ぶ 持久戦の準備
     迷路の地~船上山合戦成功の原因
   長年を、左衛門尉に任命
   帝、長高、改め、長年にせよと

    長くて高いのは危険 長年(ながねん)の忠節を賞して、「年」に!


     「忘れめや よるべきも波の あら磯を
     御舟のうへに とめし心を」
             (「新葉和歌集」)
 
  

   ~ 頼る者のいない境遇を、寄る辺もない船にかけて、
     長年の忠節をほめた歌。
 303日 伯耆守に
   帝、千種忠顕に申し付け、長年に帆掛け船の紋を書いて与える
 317日 帝の軍、京都出兵 千種忠顕大将
 523日 帝、京に向け出発
      84日間の行在所:船上山
      この地で、建武の中興の基礎を構築
      長年≒総理大臣&陸軍大将&大蔵大臣
 530日 帝、兵庫、福巌寺に入り、出迎えた正成を引見

 建武の新政始まる
  名和長年 常に後醍醐帝の傍にあって、親衛隊長の役割
  恩賞方、記録所の寄人 雑訴決断所にも

  東市(左京)の長官=東市(ひがしいち)(のかみ)
  
  後醍醐帝が中原氏の家職を取り上げ、
  京都の商工業者を自ら掌握する狙いか
 東福寺に残る日記に、長年は「鰯売り」と記されている。
  ~ 海の幸で経済力を誇示したが故か
 伯耆、因幡の国司、守護に 後に、出雲も
 名和家は、伯耆に始まり、京の都を経て、最後は九州八代の地に移る
  八代~九州南朝、最後の拠点に!
 建武31336 630
  長年、京で、九州・中国の幕府大軍と対峙
  五人張りの強弓をくり、
  一の矢、二の矢、三の矢が、矢継ぎ早に空を飛ぶ~一度に二人を討
ち取る
  「今日を限りと定めたることなれば…
  後ろ口の木戸を閉じて、我が勢、一人も落とすべからず…」
  と、壮絶な討死!
  ~ 結城親光(1月)、楠木正成(5月)、千種忠顕(6月)と三木一草の
    他の三人が、既に相次いで討死しており、いまだ生きながらえている
    長年を揶揄した貴族に対し、「今日敗れれば、死のう」とつぶやいた
    といわれる。
 名和義高
  名和長年の長男
  従五位下左衛門少尉に。この義高に肥後の国八代荘が与えられる
  九州、幕府軍、抑えの地
  延元31338 522
   北畠顕家の軍に参加し、堺浦石津の戦いで討ち死に
 名和顕興 義高の子(基長の子、養子?)長年の孫
  伯耆の守
  吉野南朝、後村上帝の警護にあたった記録残る

 正平131358 山陰と吉野にいた名和一族、九州八代に移る
 正平141359 筑後川の戦いに、名和顕興、顕長の名前が記録に残る
   そして、
   征西府、菊池城落城後、本拠を八代に移し、南北合一まで戦う
   名和一族は、戦国大名へと続き、明治期以降は名和神社の神官となる

その他
連絡事等
◆サークル展の出展
 ・9月18日(日)
   午前9時30分~
    映像スクリーン紙芝居「楠正行の生涯」上映
   午前10時~午後4時
    四條畷の合戦の戦跡案内展示(地図と写真)
    朱舜水の残した正行賛文とその解釈
    正行通信 1号~32号 閲覧
 ・教育文化センターで開催されます合同サークル展に出展します。
  映像紙芝居の上映と写真・オアネル展示をいたします。
  ぜひ、覘いてみてください。
  お待ちしております。

◆10月、現地学習について
  四條畷の合戦の戦跡を訪ねて歩く その②
  正行が本陣を構えた河内往生院から枚岡神社まで歩きます。


 次回は、10月11日(火)は現地学習です。
 「四條畷の合戦、その戦跡を訪ねて歩く その2」をテーマに、正行が本陣を構えた河内往生院を訪れ、ご住職の講話をお聞きした上で、河内往生院から枚岡神社まで戦跡をたどって歩きます。
リポートをお楽しみに!
 

 
 楠正行通信31号、32号はコチラよりご覧いただけます。(PDF)



四條畷楠正行の会 第21回例会

日時 平成28年8月9日(火曜日)午後1時30分~午後3時)
場所 教育文化センター2階 ホール
対象 会員 12人出席
 40度近い猛暑の中、次々と会員が会場に入ってくる中で、久々のメンバーの顔を拝見し、うれしいスタートとなった例会でした。
 また、さみしい知らせもあります。会員の一人が、NPO法人「シニア自然大学校」が開講する「シニアCITYカレッジ 文学・歴史学科Ⅰ」に入学され、10月からの例会とダブるため、暫く休会とのことです。
 しかし、学びのため、喜びでもあります。


 ↓例会の様子(ホールにて)


 ↓「正成、正行の生涯」上映のため、机を三角に


イベント内容

第21回例会
20回例会のおさらい

・楠正行通信29号
 懐良親王を奉じ、大宰府を制圧し、九州統一
 九州南朝の雄、武時、武重、武光の菊池氏三代 

 菊池一族と正行
 懐良親王のもと、一時期、九州統一を成し遂げた菊池一族。
 そして、南北両朝合一後も、代々、肥後守護職に就き、家門繁栄が続く
 吉野から遠く、九州という地方政治の枠に留まったが故に激戦を勝ち抜くことができ、九州統一に大いに貢献した菊池一族。そして、合一後も、その力を認めざるを得なかった北朝。

 正行の悲劇
 延元元年1336から正平31348にかけての正行楠家頭領の時代は
 九州の菊池一族においては、武重から武光への移行期、菊池一族惣領権不安定時代が続いており、九州受難時代で、吉野の宮の要請にこたえられる状況下にはなかった
 奇しくも、正行が最期を迎える正平3年正月5日、
 まさにこの3日前に、
 薩摩谷山城を発した懐良親王は、肥後、菊池武光が待ち受ける宇土港に上陸する ~  四條畷の合戦において正行が討死し、正儀苦難の時代に入った、まさにその時、九州では、宮方による九州統一の幕が切って落とされていたのである。


 そして楠と菊池に相通じる経済力
 楠 ~ 畿内の陸運・水運:運輸流通を仕切り、辰砂等扱い豊富な財力
 菊池~ 日本海で活躍した和寇の主力部隊として経済力の基礎を築く

 桜井の訣別に先立つ3年前、袖ヶ浦の別れ
 元弘31333
  博多に到着した武時は、武重を肥後に帰し、大宰府に攻め込み討死。
 延元21336

  桜井の駅に到着した正成は、正行を河内に帰し、湊川の戦で討ち死に
 ~ まるで、絵に書いたように同じ運命が太平記に描かれる。


・楠正行通信30号
 平和な世界を目指す弥勒信仰の山、笠置山
 笠置寺の小林慶範前住職、宇治市で講演


 後醍醐帝は、何故、笠置に入ったのか
 笠置寺に残る元弘戦陣取り図
 正成は笠置で生まれた?!

 資料 議会制民主主義の原典ともいえる菊池家憲

白河結城氏と正行
 今月のメインテーマです。

 南朝を支えた豪族に共通する財政力
 白河結城氏のおびただしい砂金からなる経済力=軍事力は、
 楠氏の辰砂をはじめとする運輸流通業、
 菊池氏の和寇船による海運流通業に通じる

 藤原氏の血を引く結城氏
 宗家・下総結城氏の広綱の弟、結城祐広、分家して白河結城氏を創設
 二代目、結城宗広、護良親王の令旨を受け、宮軍に転じ、終始一貫南朝を支える
 北畠顕家の統治能力と、宗広の政治力で、奥羽54郡を統治
 藤原氏の血を引く結城氏と、村上名門の北畠氏、家門と云う共通点
  ~ 楠氏との違い!
 最後、北畠顕家とともに制西するが、石津で顕家が戦死。
 義良親王に同道し、伊勢から再び東航作戦を展開するも、伊勢で遭難、そして病没
 三代目は、嫡子、親朝が継ぐが、次男、親光は南朝の雄として、各地で奮戦
 親光は、正成、千種、名和と共に「三木一草」と呼ばれる
 護良親王を召し取る役目も
 延元元年正月、尊氏暗殺を企て、偽って降伏、しかし見破られ刺殺される
 三代目、親朝、南朝方として積極的に動かず
  ~ 北畠親房、神皇正統記を書き、関城書を送り続け、説得を続ける
 当初、親房・顕家を補佐し、支援した親朝、興国48月、北軍に就くと
 同年12月には、親房、大宝城を脱し、吉野に逃げ帰ることに

 宮方、九州、関東そして奥州で小幕府構築
 宮方、親王をトップに地域支配確立
 九州(懐良親王)、関東(成良親王)、奥州(義良親王)がそれぞれ小幕府
 しかし、
 畿内には小幕府は作られなかった
 畿内には、中央組織のみ
 楠氏の立ち位置~地域ではなく中央への関わり
 正行の肩にかかった重責の重さ!
  ~ 菊池氏・結城氏との大きな相違

 正平2年から3年にかけて、正行が、南朝復権の戦いを仕掛けた頃の白河結城氏は親朝の死によって途絶えており、
 と云うよりも、家門繁栄のために北朝に転じており、
 正行への支援は全くなかった
 ここにも、正行の悲劇が!

その他
連絡事等
◆9月、教文センター主催サークル展で映像紙芝居上映
 私たちの活動紹介、そして、楠正行に一人でも多くの人の関心を持ってもらおうと、今年のサークル展に、映像紙芝居「正成、正行の生涯」を上演することになり、この日は、その試写をしましました。
 約20枚の原作・紙芝居に絵付けをして、脚本も一部補作の上、四條畷ゆかりの人物、正行の生涯を描いたものです。苦労の末、白黒の原画に絵付けをして、パワーポイントで作成したものを、スクリーンに映し出します。
 上演は、約20分でしたが、終了と同時に拍手も起き、まずまずの滑り出しでした。
 918日に開催されますサークル展で上演します。
 午前930分からの上演の予定ですので、ぜひ、ご覧下さい。正成と正行の生涯を簡潔に描いています。

◆歴史小説「楠正行」の刊行について
 本会代表の扇谷昭が、文芸社から、歴史小説「楠正行」を刊行することが報告されました。
 915日、全国一斉販売の予定で、四六版・ハードカバー430頁、正行6歳から23歳まで、正行自身の目で見た南北朝時代正行の生涯を描いており、正行、終焉の地四條畷から、今の世にこそ必要な人物像の一人として、改めて楠正行の人物像・生涯を全国に発信するものです。

◆10月に四條畷の合戦の戦跡を訪ねて歩く第2弾を開催
 10月の例会は、現地学習「四條畷の合戦の戦跡を訪ねて歩く第2弾」を行います。
 四條畷の合戦で、正行が本陣を構えた河内往生院から枚岡神社までの間を歩きます。
 往生院では、川口住職の講話をお聞きし、往生院が現在の地に移る前の金堂跡(本陣跡)にお連れ頂き、ご説明いただきます。そして、枚岡神社では、正行が四條畷の合戦の折りに自らの体を洗ったと伝わる「首洗いの井戸」(今は、正行縁の井戸と云う)を見学します。
 四條畷の合戦で、正行は、河内往生院からどのルートを通って野崎に入ったのかに、思いをはせながら歩きます。

 
 次回は、9月13日(火)、午後1時30分です。
 「正行と名和一族」をテーマに学びます。
 関心のある方は、ぜひのぞいてみてください。大歓迎です。

 
 楠正行通信29号、30号はコチラよりご覧いただけます。(PDF)



教文 子ども体験教室「夏休みトールペインティング」

日時 平成28年8月5日(金) 第1部 午前9時~  第2部 午前10時30分~
場所 四條畷市立教育文化センター ホール
対象 幼稚園児(保護者同伴)、小学生
イベント内容 人気のトールペイント教室を開催しました。
木製の教材にデザインを施し、専用の塗料で色づけをします。
乾燥後、専用のニスを塗り完成です。

作品作りの様子
作品作りの様子


教文 「夏の集い~ サマーフェスティバル」

日時 平成28年7月22日(金) 午後4時~8時
場所 四條畷市立教育文化センター 全館
対象 市民
イベント内容 教文で夏祭りを行いました。たくさんの夜店や楽しいアトラクション、かっこいいダンスチーム出演で大変盛り上がりました。

ダンスを披露
芝生広場でダンスチームがダンスを披露
小さな子どももダンス
小さな子どもも上手に踊ってます
ホールでもダンス
ホールにて
ナイアガラ花火
ナイアガラ花火!

教文 「親子体操で水遊びをしました。」

日時 平成28年7月21日(木) 午前11時~
場所 四條畷市立教育文化センター 芝生広場
対象 市民
イベント内容 親子体操でプール遊びをしました。。

プールで水遊び
気持ちいいね
プールで水遊び
上気温は30度


四條畷楠正行の会 第20回例会

日時 平成28年7月12日(火曜日)午後1時30分~午後3時)
場所 教育文化センター2階 ホール
対象 会員(10人出席)

 ↓例会の様子(ホールにて)


イベント内容

第20回例会
19回例会のおさらい

 義国の長男・義重(新田義貞の先祖)が未開発の別業地・新田荘を継ぎ、次男・義康(足利尊氏の先祖)がすでに立荘されていた足利荘を継いだのは、何故か?
 この疑問は、本来、長男が本貫とする足利荘を継ぎ、次男が未開発地の新田荘に入るのが筋ではないか、というものです。
 扇谷は、以下のように考えました。
1.父、義国自らが別業地(未開発の新田荘)に引きこもり、その父に、長男・
  義重がしたがったためではないか。特に、京の都で屈辱を受けた義国は、新田
  氏が、この戦乱の世を巧みにまた安楽に生き延びていくためには、政治の表舞
  台に出るのではなく、栄達を望まず地方経営にいそしむこと、と家訓を定め、
  惣領たる長男・義重にその任を託したのではないか、と考える。
2.九州の菊池氏や関東・秩父の河越氏に残る次男流相続の例。
  このように次男が宗家を継ぐ例はあり、武家社会において、次男が宗家を継ぐ
  ことは決して例外ではなかった、という社会背景も考えられる。

九州の菊池一族と正行
◆南北朝時代、九州の地で戦い続けた菊池一族
 武時、武重、武光の菊池三代
 九州の菊池一族は、元弘3年の武時、大宰府襲撃と討死に始まる南朝における九州での宮方主力部隊として登場する。
 武時の子、武重は建武の新政と同時に肥後の守に任じられ、重用される。 新田勢とともに、菊池千本槍を引っ提げて箱根竹之下の戦いで足利軍と戦い、武重の弟、武敏は大宰府を攻撃し、少弐軍を破るが、3月、多々良浜の戦いで武敏軍は尊氏軍に敗れ、尊氏の大宰府入城を許す。
 湊川の戦では、弟の武吉が正成・正季自刃に遭遇し、自らも討死する。
 武重は、後醍醐帝に従い、比叡山に入り、新田軍とともに坂本に布陣するも、後醍醐帝が尊氏の甘言に騙され京に戻り、幽閉されると、一緒に囚禁される。武重は、後醍醐帝吉野遷幸に先立ち、囚禁を脱し、河内を経て、九州・菊池に戻る。
 九州に戻った武重の挙兵は、九州の武家方に脅威となる。そして、この後、武重は、恵良惟澄とともに戦うが、延元3年年末、病死する。
 そして、武重死後の菊池一族は、惣領権が不安定な時代に入り、懐良親王が四国から九州・薩摩谷山に入るもその支援がままならないまま時が経過する。
 そして、懐良親王の大宰府入り、九州征西府による九州全域制圧を実現するのが、興国6年、菊池の惣領となった武光である。
 正行が、四條畷の合戦に及ぼうとする、まさにその時、恵良惟澄の支援を受けた菊池武光によって、薩摩谷山城を発った懐良親王を宇土に向かえるのである。

 菊池に入った懐良親王の政治的権能と、和寇による経済力を背景にした菊池の軍事力―軍事的機能が相まって、征西府の伸長へとつながる。
 正平
14年、大原の合戦、筑後川の戦いで、武光は少弐軍を破り、正平16年、懐良親王は悲願の大宰府入りを果たし、九州全域を支配下に置く。この筑後川の戦いは、九州第一の合戦と云われており、今も、大将塚・千人塚・五万騎塚や太刀洗川の名が残る。
 しかし、文中元年
1372、幕府が送り込んだ今川了俊が九州に入り、攻撃を始めると、遂に、大宰府は落城の憂き目にあい、その後、元中91392までの間、今川了俊と菊池武光の後を継いだ菊池一族との壮絶な戦いが長年にわたって続くこととなるが、元中8年、八代城が陥落するに及び、良成親王、名和彰興は降伏し、菊池の惣領、武朝は行方をくらます。
 が、南北朝合一後、武朝は、今川了俊と交渉の末、肥後守護職に就き、その後菊池一族は室町幕府下で代々守護職を務めるのである。


菊池武重が定めた「菊池家憲」
 延元3年7月25日作
 現在、日本に残る血判としては最古のもの
 家の掟としての置文
 今日でいう議会制民主主義の精神
  ~ 明治維新における五箇条のご誓文、明治憲法の参考にされた

・第1条
 菊池氏の政治的去就、乃ち「天下の御大事」については、惣領の武重が決定権を持つこと
・第2条
 菊池の統治権の及ぶ領域内の支配、乃ち「国務の政道」は、菊池の有力庶家で構成する管領以下の内談衆の合議を優先すること
・第3条
 畑や山についての禁制と奨励を規定
 惣領と有力庶家の領内支配に対する権限の分配と均衡を規定したもの
 その均衡は、聖護寺を氏寺として精神的紐帯を堅くし、大智とその相伝の門弟を仏法上の指導者と仰ぎ敬うことにおいて実現する

 起請文の基本的性格
 世俗倫理の確立、正法の護持、正法を体現する宗教者への挙族的敬仰、それらの統一の上に、弓箭をもって「朝家」に仕える菊池氏の使命を達成すること


↑菊池武重の血判起請文・菊池神社蔵 菊池家憲「寄合衆の内談の事」延元3年作

菊池一族と正行
 懐良親王のもと、一時期、九州統一を成し遂げた菊池一族。
 そして、南北両朝合一後も、代々、肥後守護職に就き、家門繁栄が続く。
 吉野から遠く、九州という地方政治の枠に留まったが故に激戦を勝ち抜くことができ、九州統一に大いに貢献した菊池一族。そして、合一後も、その力を認めざるを得なかった幕府。
 正行の悲劇
 延元元年1336から正平31348にかけての正行楠家頭領の時代は
 九州の菊池一族においては、武重から武光への移行期、菊池一族惣領権不安定時代が続いており、九州受難時代で、吉野の宮の要請、すなわち正行と共に立ち上がる状況下にはなかった
 奇しくも、正行が最期を迎える正平3年正月5日、

 まさにこの3日前に、
 薩摩谷山城を発した懐良親王は、肥後、菊池武光が待ち受ける宇土港に上陸する
 ~四條畷の合戦において正行が討死し、正儀苦難の時代に入った、まさにその時、九州では、宮方による九州統一の幕が切って落とされていたのである

菊池一族と楠一族に多くの共通点
 楠と菊池に相通じる経済力
 楠 ~ 畿内の陸運・水運:運輸流通を仕切り、辰砂等扱い豊富な財力
 菊池~ 日本海で活躍した和寇の主力部隊として経済力の基礎を築く

 太平記における「父子別れ」の演出
 桜井の訣別に先立つ3年前、袖ケ浦の別れ
 元弘3年1333
  博多に到着した武時は、武重を肥後に帰し、大宰府に攻め込み討死
 桜井の別れ
 延元2年1336
  桜井の駅に到着した正成は、正行を河内に帰し、湊川の戦で討ち死に
 ~ まるで、絵に書いたように同じ運命が太平記に描かれる

その他
連絡事等
◆会員章製作
 この日の例会では、勉強会終了後、秋の現地学習や9月の教育文化センターサークル発表会等について打ち合わせをしました。
 また、この日は、四條畷楠正行の会の会員章として制作したピンバッジが届きました。
 このピンバッジは、楠正行の名前と事績が、少しでも広がれば、と作ったもの。
↓四條畷楠正行の会会員章(ピンバッジ)実物:左右17ミリ


 そして、最後に、教文コレクション第3集が紹介されました。
 教文コレクション第3集は、平成26年度に実施した楠正行ゆかりの地を訪ねるバスツアーで訪ねた正行ゆかりの地の住職、宮司、禰宜、当主、館長等の皆様の講話を採録したものです。
 A448頁、500円です。必要な方は、四條畷市立教育文化センターにお問い合わせください。

 次回は、8月9日(火)午後1時30分です。
 「正行と結城一族」をテーマに学びます。
 関心のある方は、ぜひのぞいてみてください。大歓迎です。

 
 楠正行通信28号はコチラよりご覧いただけます。(PDF)




「教文 親子体操教室で笹飾りをつくりました。」

日時 平成28年7月7日 午前10時~11時30分
場所 四條畷市立教育文化センター ホール
対象 市民
イベント内容 大きな笹竹の枝をはらい、笹飾りを作りました。
きれいに飾り付けて、短冊に願いごとを書きました。。
どうぞ、お願いが叶いますように。

たなばたさんの絵
製作の様子
おりひめさんの絵
上手にできました
たなばたさんの絵
背丈より大きいネ


四條畷楠正行の会 第19回例会

日時 平成28年6月14日(火曜日)午後1時30分~午後3時)
場所 教育文化センター1階会議室
対象 会員(13人参加)
 この日、新たに交野市在住の方が入会
 ↓6月例会の風景
6月例会の様子

イベント内容

第19回例会
現地学習「四條畷の合戦、その戦跡を訪ねて歩く」の反省

 この現地学習は、会員から大好評の結果となりました。
 楠正行、終焉の地となったわが町、四條畷ですが、実際に、四條畷の合戦が行われた戦跡を訪ねて歩いたことで、会員一人一人が楠正行をより身近に感じることができたようです。
 また、野崎観音の展望台に上り、昔の河内湾―河内潟―河内湖の変遷と南北朝期に存在した大きな深野池を眼下に想像することによって、飯盛山と深野池の1キロ余りの狭隘な地が戦場となったことの理解が進んだようです。
 扇谷は、この日のために、明治から昭和初期にかけての四條畷の様子を写した写真を多数準備し、また江戸期の旅ガイド版ともいえる河内名所図会などを見ることで、南北朝期、四條畷辺りは民家はまばらにしかなく、すすき野原一面の河内湿原を想像することができたようです。
 以下に、特別参加組の皆さんの感想の一部を紹介します。

○山下弘枝(楠木同族会)
 楠軍と足利軍最初の激突の地から最期の正行公終焉の地まで、実際に自らの足で辿りつつ情景を目の当たりにすることにより、その時々の正行公の決死の思いがひしひしと伝わり、当時と現代とが交錯するかのような、先祖の思いを先祖自身から語りかけられているような非常にリアルな感覚に包まれ、感激至極でございました。

○藤原摂鵬(吟道摂楠流宗家補佐)
 戦跡を歩く今回の企画は大変有難かったです。実感もわき、貴重なお導きを得て、大変感謝しております。天気の加減で最期の場所に寄れなくて残念でした。一番現地としては学びたい場所だったので。(正行の会の)皆さん、歴史等に相当詳しく、熱意を持たれていることにびっくりしました。
・正行が本陣を置いた往生院から野崎までも歩きたい。

○広木双葉(東京都在住)
 四條畷市には何度も参っておりましたが、扇谷様の詳細なご説明を受け、今までになく四條畷の合戦をリアルなものとして感じることができました。会の方、特別参加の皆様も熱心で、素敵な方ばかりで本当に楽しく一日を過ごすことができました。
・東福寺 大阪市住吉区~正行が戦勝祈願したという寺・正成の持仏
・杜本神社 羽曳野市~正行作の正成像

○四條畷市産業観光課職員
 正行兵が戦い進んだ様子が、大河ドラマの合戦シーンのように見えてくるようでした。正行最期の地まで行けなかったのは、とても残念です。説明の際に見せていただいた南遊紀行の挿絵や古い写真などは、往時を想像するのに随分参考になりました。


新田義貞と楠正行
 新田荘の成立
 久安61150 新田氏の祖、源の義国、従三位右近衛大将藤原実能
ふじわらさねよしと路上でトラブル。義国従者、実能邸焼き払い事件勃発、勅勘(天皇からの咎め)によって失脚。下野国足利の別業地(別屋敷)に下る
 当時、このあたりは浅間大噴火1109により、火山灰・軽石・岩による荒廃した大原野。空閑こかんの郷々~開発可能な土地の意、且つ、開発によって耕地化された土地を意味。東西4里、南北5里に広がる扇状地 ~ 新田荘の形成

 義国は、久安6年の失脚を教訓に、「武士の栄達は望まず、地方経営にいそしむことが安楽の道」を家訓として残す
 そして、新田荘の経営を義重に、⇒ 新田家 足利荘を義兼に継がせた ⇒ 足利家 新田荘を継いだ義重は、義国の教えを家訓として代々引き継いだ

鎌倉末期の新田と足利
 新田氏~新田荘とその周辺(八幡荘)を所領とする一豪族
 足利氏~幕府の要職に在り、上総国と三河国の守護職
     加えて、北条得宗家との姻戚関係
 この頃、両氏には勢力・思いとも、雲泥の差!

鎌倉末期の新田一族
 宗家  新田義貞
 岩松家 足利家から婿養子を迎え、幕府の地位は宗家よりも上
     経家は、義貞の鎌倉攻めには参画をし大功を挙げるが、
         その後、足利尊氏に味方して、飛騨国守護職に
         従五位下 兵部大輔
 世良田家 世良田宿 臨済宗・長楽寺の門前町 交通の要衝
   北関東一の商業都市 長楽寺の別当として経済的優位を持って仕切る
 これら両家は、当時、宗家をはるかにしのぐ勢力、財力、地位にあった
 幕府の正成討伐命に窮する新田宗家の事情

*そもそも挙兵当時から、中央・幕府開府を目指すという目的を持っていた尊氏と、家訓を守りながら、鎌倉攻めの功故に、南朝総大将に位置付けられてしまった義貞
 二人の生き方に大きな違いがあった
 

新田義貞の史的評価
 以上の経過を見ると、
 幕府の命を受け、正成討伐軍に参加した義貞は、後醍醐天候から討幕の宣旨を受けて帰国。幕府方の強引な戦費調達に来た徴収使が世良田に入ったのを捕えて公然と幕府に反旗。しかし、この時、義貞に国の政全体の流れは読めておらず父祖の怨念を晴らし、上野の国司を目指す程度のものではなかったか
 鎌倉陥落直後に、盟友であった尊氏と勢力を競う形となり、屈辱的な撤退で、対立激化。義貞、悲劇の選択 北畠顕家との合流ならず。後醍醐天皇の野望に振り回された悲劇の生涯。クライマックス;義貞はずしの尊氏との和睦 その後、帝は花山院幽閉の憂き目。
 ⇒ 義貞は、楠氏のように天下・国家論を持たない実直な東国武士
 新田義貞が目指した最後の望みは、比叡山における後醍醐帝と義貞の妥協の産物として、恒良親王を擁しての北国管領府ではなかったか。
 北国管領府の夢は、義貞が北国に下った後、勢力を盛り返しつつあった中で、藤島城攻防戦の不慮の事故によってあっけなく潰えた。
 が、やがて260年の時が経過して、新田殿と称された家康が幕府をつくり、新田氏復活の物語へと歴史は続くのである。

 次回は、7月12日(火)午後1時30分です。
 「正行と菊池一族」をテーマに学びます。

 
 楠正行通信27号はコチラよりご覧いただけます。(PDF)




「親子体操でサツマ芋の苗を植えました。」

日時 平成28年5月19日(木曜日)午前11時
場所 四條畷市立教育文化センター
対象 親子体操参加者
イベント内容 親子体操の時間、教文の畑にサツマ芋の苗を植えました。


芋の苗、たくさん植えたよ
 たくさん植えたよ。
水をあげました
  お水をあげました。
おおきくなあれ
 はやく大きくなーれ。



「四條畷市立教育文化センターに於ける芝生メンテナンス作業手順紹介」

日時 平成28年5月18日(木曜日)
場所 四條畷市立教育文化センター芝生広場
内容 いきいきとした芝生を維持するために必要な更新作業を行いました。
機械で芝地に穴を明け、古い根っこを除去します。
その後、目砂を散布し、開いた穴を丁寧に埋めて行きます。
肥料を与え、十分な灌水を施し完成です。

エアレーション作業の様子
 エアレーション作業
エアレーション作業の様子
  古い根を取り除き、目砂を散布し
刷り込み後 施肥・灌水
エアレーション作業の様子
 更新作業終了。



「なわてシャンシャン傘踊り」

日時 平成28年5月11日(水曜日)午後1時~午後3時
場所 四條畷市立教育文化センター ホール
対象 市民
イベント内容 鳥取県の伝統芸能 「因幡の傘踊り」を基に、なわてシャンシャン傘踊りと銘打ち、華やかに楽しく踊ります。
講師 谷田 節子氏(宮坂流)

傘踊りの様子
 
傘踊りの様子
  
 


四條畷楠正行の会 第18回例会(現地学習)

日時 平成28年5月11日(火曜日)
場所 現地学習(野崎駅~南野~教育文化センター~中野~雁屋~津野辺~四条畷駅)
対象 会員(11人参加)
特別参加
 広木双葉(東京都在住)
 山下弘枝(湊川神社・楠木同族会)
 久野 潤(名城大学非常勤講師)
 藤原摂鵬(吟道摂楠流宗家補佐)
 西尾佳岐(四條畷市市民生活部長)
 倉永佳寿子(四條畷市産業観光課)
 奥田 優(指定管理者・阪奈エンタープライズ株式会社・代表取締役社長)


イベント内容 現地学習「四條畷の合戦、その戦跡を訪ねて歩く」
JR野崎駅に全員集合


 今月の例会は、現地学習「四條畷の合戦、その戦跡を訪ねて歩く」を実施しました。JR学研都市線「野崎」駅、午前950分集合でしたが、遠くは東京からの広木さんを含め、予定の全員が集まって一日がスタートしました。
 正平3年(134815日の早朝、楠正行は南朝・宮軍の中軍の大将として、1000騎を率い、本陣を構えた六万寺往生院を出陣します。
 そして、この日、足利尊氏が派遣した北朝・高師直の軍は、総勢約4万騎。野崎辺りから飯盛山山麓、中野、岡山にかけて布陣していました。
 今日の現地学習は、四條畷の合戦が行われた正平315日、楠正行がたどった戦跡を訪ねて歩き、当時の様子を少しでも身近に感じようと企画したものです。
 この間、ご縁をいただいた皆様にも呼び掛けたところ、東京(広木)、名古屋(久野)、八幡(山下)、明石(藤原)と各地からご参加いただき、加えて、四條畷市からも市民生活部長(西尾)と産業観光課職員(倉永)の参加を得て野崎駅をスタートしました。


戦端を開いた野崎砦を目指して(第1期)
 野崎駅から真東に歩くこと約5分、野崎観音の下、東高野街道につきました。
 四條畷の合戦は、大きく分けて、5期にわたる衝突を繰り返します。
 その第1期が、この辺りで行われています。
 巳の刻、午前10時ごろ戦端が開かれました。
 東高野街道を北に進んできた正行軍は、野崎砦に待ち構え、山裾に先陣を開いた縣下野の守3200騎と衝突しました。
 この日、野崎観音の展望台に上がり、扇谷は、眼下に河内平野をながめながら、当時の地勢について、資料を片手に説明をしました。
 現在は延々と平野が続いていますが、正平年間の頃は、飯盛山のすそ野約10町(2キロメートル)先に深野池が拡がり、南北が衝突し、激突できる場所は、この飯盛山と深野池の間、狭隘な地を置いて他にはなかったのです。河内平野は、ほぼ全域が河内湿原時代にあって、人馬は自由に移動することができなかったのです。
 2万年前、大陸と陸続きであった河内平野は、縄文時代の縄文海進によって水面が約3メートル上がり、河内湾に変貌を遂げます。その後、淀川(南に流れる)と大和川(1704年の付け替え前、北に流れる)の扇状地として湿地が広がり、上町台地の砂州が偏西風等の影響を受けて北に延び、河内潟となり、河内湖に変貌していきます。
 そして、四條畷の合戦の行われた中世には、新開池と深野池が拡がり、河内は湿原時代の真っただ中でした。
 扇谷は、河内平野の変遷の図を示しながら、河内湾・河内潟・河内湖と9000年の歴史が、楠正行を四條畷の地にいざないました、と語りました。


貞和年中戦死の霊魂、永禄年中に至るも相闘耳に夥し(第2期)
 野崎砦から駆け下りてきた縣下野の守を負傷・敗走させた正行は、東高野街道を北に進みます。
 次に待ち構えていたのは、武田伊豆の守信武1000騎でした。
 太平記には、この時、北条神社下、小松原より、長崎彦九郎ら小旗一揆衆48騎、松木立を掻き分けて駆け下ったとあります。(写真:十念寺手前で)
 加えて、生駒山に布陣していた佐々木道誉3000騎も正行の背後をついてきました。
 この第2期の戦いで、大塚惟正率いる正行の後陣はほぼ全滅させられます。
 現在、十念寺のある場所で、その西に広がる北条2丁目辺りと思います。
 十念寺には版木が残されており、『霊魂永禄年中に至るまで、山野に火を立て、夜な夜な相闘耳(そうとうせいもん)におびただし、・・・』と、この辺りで亡くなった楠兵の霊魂が永禄年中まで残っていたことが記されています。また、北条2丁目辺りは、かつて「古戦田」字地が残る場所です。(写真:十念寺前で撮影する参加者)
 これらのことから、この地で戦端が開かれていたことが分かります。


権現川沿い、南野一帯で繰り広げられた第3期の戦い
 四條畷神社の大鳥居の前を通り、川崎公園に入りました。(写真:川崎公園で貝原益軒の南遊紀行挿絵をさして説明)
 第3期は、この辺り南野周辺に高師直の軍は、3陣に分かれて布陣していました。

 1陣が細川相模の守清氏ら5700騎、第2陣が今川駿河の守範国ら7100騎、第3陣が松田備前の守盛綱ら6100騎、総勢約2万騎です。
 川崎公園で、扇谷は、かつて江戸時代に刊行された貝原益軒の南遊紀行・挿絵を片手に、江戸期、飯盛山方面・東高野街道から見えたものは、深野池(益軒はまんだのいけと記している)、三箇の島、正行の墳、雁屋村で、辺り一面がすすき野原であったと思われると説明しました。

 昭和28年頃の四條畷神社参道の松並木の写真を片手に、四條畷中学校の生徒たちの頭髪とともに、松の木が植えられたことを紹介し、この頃ですら、参道沿いに民家が全く見えないことを説明しました。
 その後、和田賢秀墓に向かいましたが、ここでは、墓石の墓陰に刻まれた歌「昔問えばすすき尾花のあらし吹く」を紹介しながら、四條畷の合戦の頃には、一面にすすき野原が広がっていたことを想像してほしいと説明しました。(写真上:和田賢秀墓の前 写真下:和田賢秀墓の碑陰に刻まれた歌を紹介)
 3期の戦いでは、第三陣の松田次郎左衛門が和田賢秀の薙刀に倒れたこと、また、南次郎左衛門尉が正行の槍隊の前に倒れたことが太平記には記されています。
 この頃になると、正行の本隊は半分を割っていたと思われます。
 正行軍は、権現川沿いのどこか、田のふもとを見つけて、背中を押しあい、兵糧食を摂り、英気を養い、態勢を整えたとあります。高師直が苦虫をつぶす記述が太平記には記されています。


初霜、矢を受け、正行は下馬を決心(第4期)
 この日、教育文化センターで昼食をとりました。(写真:教育文化センターでの昼食前の風景)
 昼食の後、参加者全員が自己紹介をかねて一言づつでしたがそれぞれの楠正行への思いを語りました。
 そして、扇谷から何点かの報告をしました。
 一つは、朱舜水作の楠正行賛148文字を、会員の真木さんが書き下ろしてくれた書の紹介です。1枚の紙に書かれた正行賛文に、一同から、異口同音に「素晴らしい!」の声が上がりました。四條畷楠正行の会の大切な宝にしたいと思います。(写真:真木さんの書いた書を示す扇谷)
 次に、教文コレクションの紹介です。
 教育文化センターでは、扇谷を講師に、楠正行に関わる教養講座を仕掛けていますが、この講演内容を小冊子にまとめ、「教文コレクション」として刊行することになりました。
 そして、第1集として、平成26年度市民教養講座「楠正行の人間像に迫る!」(A4版・48頁・頒布価格500円)を、510日に発刊しました。
 扇谷は、受講者に好評をいただいた内容について、更に広く知っていただくことで、ご批判やご意見をいただき、より内容を高めるとともに、四條畷を市の内外に発信する一つの手段としたい、との思いを伝えました。
 
この日、
11冊を購入いただきました。ありがとうございました。

上山六郎左衛門、師直の偽首に、正行がっくり(第4期)
 午後は、あいにくの雨にたたられスタートしました。
 法務局跡地から四條畷保健所にかけての一帯が、古戦田字地の残る場所です。
 高師直の本陣(約5300騎)は、清滝川を前に、中野この辺に構えていたものと思われます。そして、古戦田字地の地名残るこの辺りで、第4期の衝突があったものと思われます。
 この辺りの様子を理解するため、扇谷が準備した資料は、以下のものでした。
 先ず、かつて総合センターにかかっていた緞帳です。この緞帳には、深野池に浮かぶ船、そして正法寺、雁屋村・南野村が描かれています。東高野街道沿いには一面のすすき野原が広がる様子がうかがえます。
 次は、片山長三画集より、飯盛城と深野池の想像図です。天文年間1736~1741江戸期の三箇・岡山砂教会全盛のころの想像図で、深野池の中に三箇の城、そして飯盛山のふもとに中野の正法寺、雁屋の里、野崎寺が描かれています。この図にも、民家はほとんど描かれていません。
 また、四條畷小学校の校章が菊水であることも紹介しました。
 菊水のマークの中に「畷」の一文字が描かれています。そして、昭和61年(1986)四條畷小学校100周年を記念して、児童全員が校庭で描いた菊水の校章人文字の写真も準備しました。四條畷小学校の校章は、正行ゆかりの地を表すものの一つとして、今も大切に使われています。
 今一つは、河内名所図会の一枚、雁塚です。この辺りは、江戸期には、雁が狩猟できた場所でした。一面に野原・湿地が広がっていたものと思われます。昭和の初め頃まで、雨が降ると舟で往来したと、云われています。この辺り全域に湿地が広がっていたことが想像できます。(写真:河内名所図会の雁塚の写真を片手に説明)
 正行は、高師直本陣に肉薄し、その距離半町(約55メートル)に迫ります。
 この時、高師直の身代わりとなった上山六郎左衛門高元は、高師直の甲冑を身に着け、「武功天下に顕れたる高の武蔵の守師直、此処にあり」と大声で名乗りあげます。賢秀、良円、刑部、行忠、正家ら偽師直を取り囲み落馬させ、正行喉を刺し、「敵将高師直討ち取ったり」と絶叫しますが、偽首と分かり、ぬか喜びする間に後退を余儀なくされます。

正行、強弓を受け、力尽きる(第5期)
 四條畷保健所前を南にくだり、四條畷高校正門につきました。
 ここでは、大正期に撮られた2枚の写真を準備しました。
 1枚は、東側から四條畷高校の正門を撮ったもので、今1枚は大正3年ごろの、当時新しくなった正門から望む飯盛山を撮ったものです。
 四條畷高校の正門から飯盛山ふもとまで、ほとんど民家の建ってない状態であったことが分かります。
 そして、いよいよ第5期に入ります。
 第4期で後退を余儀なくされた正行軍は、この頃、50騎ほどだったと思われます。
 高刑部太夫輔師兼は、「四周に弓矢隊を配置し、正行めがけて一斉に弓を弾く作戦」を献策します。態勢を立て直そうとすすき野原を移動する正行軍を、弓矢隊の中心に据えられた九州の住人、須々木四郎は強弓を射たてます。そして、この時、残兵ことごとく重傷を負うのです。
 正行は、この時、須々木四郎の放った矢で左右の膝頭を三か所、右の頬、左の眼尻を射られます正時も、同じく須々木四郎の放った矢に眉間と喉の脇を射られます
 
ここに、正行、正時、力尽きました。
 現在、小楠公墓所が建つ雁屋の東側に、古戦田字地が残っています。
 おそらく、この辺りが、正行が強弓を受けた場所と思われます。
 扇谷は、この頃強くなった雨の中、小楠公墓所に案内しました。そして、正行が亡くなって約80年後に植えられた2本の若楠が大きく成長し、1本に和して樹齢約600年を迎えたことを紹介しました。
 そして、此処では、河内名所図会の小楠公墓を準備し、説明しました。
 名所図会は、中央、田んぼの真ん中に小楠公墓、そしてその背後に、雁塚、飯盛山が描かれており、江戸期、小楠公墓所の周辺には全く民家がなく、湿地が広がっていた様子を物語っています。(写真右:小楠公墓の楠木の前で 写真中:河内名所図会楠正行墳を手に説明 写真下:参加者全員で記念撮影 本ホームページに使った写真はすべて国府良三さんの作品です)
集合写真 そして、明治11年(1878)、今の石碑が建立されました。
 石碑は、本石4.8m、中台1.2m、下台1.5m、5.4㍍四方で総高さ7.5mもの巨石です。大東市竜間での切り出し・切断に5ヶ月、7キロの運搬に1年5ヶ月を要し、基礎工事(5m四方×深さ4.5m)として、松生杭250本を打ち込み、大石650個と砂礫500駄そして石灰200俵を混ぜ込み固め、建碑に4か月、更に、石碑の書(深さ27ミリ)に4か月と、実に、2年と6か月をかけて、明治11年1月5日~7日、建碑祭が開かれています。
 雨が降る中でしたが、小楠公墓所の前で、集合写真を撮りました。

最期の地、「敵手にかかるな」

 力尽き、矢折れた正行、正時ら楠の兵は、正行の「敵手にかかるな」の叫びとともに、最期の地を求めてさまよったことでしょう。
 その最期の地と言われる場所が大東市に残っています。
 ハラキリ字地の字名残る場所です。
 四條畷神社の祭礼に於いて、この地が御旅所=目的地として巡幸され、神事が行われてきた場所でもあります。御旅所は、地域の人々の心のよりどころとなり、祭神たる正行に親しみを感じる場所でもありました。
 地域の人は「ご休憩所・御旅所」と通称し、明治から昭和20年頃まで、四條畷神社春の大祭4月5日に”御渡りさん”が出御していた土地でもありました。神社を出た一行は、御旅所→楠公墓地→賢秀墓→神社と回ります。昭和35年頃までは、4~5本の樹木に囲まれた場所であったと記録に残っています。今は、開発が進み、その痕跡ははっきりしません。
 なお、この日、雨天のため、現地学習は小楠公墓所から真っすぐ四条畷駅に向かい、この地で解散となりました。

駅前の喫茶店で反省会

 市役所のお二人は、公務の都合、ここで帰られましたが、残る全員が参加しての反省会となりました。
 特別参加の皆さんからも、「現地を歩いて学ぶ機会はめったになく、今日は、大変勉強になりました。また、お誘いください。」等と、お礼の言葉をいただきました。
 会員とも打ち解けてお話しくださり、有意義な現地学習を終えることができました。



 次回は、6月14日(火)午後1時30分です。
 「正行と新田義貞」をテーマに学びます。

 
 楠正行通信26号はコチラよりご覧いただけます。(PDF)



「教文 子ども広場」

日時 平成28年5月5日(木曜日) 10時~12時
場所 四條畷市立教育文化センター ホール・会議室1・会議室2・芝生広場
対象 市民
イベント内容 子ども読書週間にちなみ、絵本の読み聞かせを中心に、体育遊びや工作にゲーム、芝生広場ではスナッグゴルフを楽しみました。


絵本の読み聞かせ
 絵本の読み聞かせと体育遊び
芝生広場でスナッグゴルフを楽しむこどもたち
  芝生広場でスナッグゴルフ
工作の様子
 工作の様子


「教文 おたのしみ会」

日時 平成28年4月27日(水曜日) 10時30分~11時30分
場所 四條畷市立教育文化センター 2階ホール
対象 市民
イベント内容 子ども読書週間にちなみ、絵本の読み聞かせ3話、エプロンシアター2話と手作りおもちゃ遊びを行いました。


絵本の読み聞かせ
 大型絵本の読み聞かせ
エプロンシアターを見て楽しむ子どもたち
エプロンシアター
手作りおもちゃで遊ぶ子どもたち
 手作りおもちゃ遊び


四條畷楠正行の会 第17回例会

日時 平成28年4月12日(火曜日)午後1時30分~午後3時
場所 教育文化センター1階 会議室






会員 12人出席
今月、新しい会員一人を迎えました。
 今年に入って二人目の方が加わりました。
 桜の季節になり、陽気に誘われて、笑顔で集まった会員が、にこやかな様子で議論できることは大変うれしいものです。(扇谷)

インフォメーション
① 産経新聞朝刊 戦後71年「楠木正成考」特集が始まりました。
  
 第1回 3月28日~4月1日 5回連続シリーズ

② 堺市博物館で企画展「和田一族奮戦記」が開かれています。
   3月12日~5月29日
   4月24日には、学芸員による講座と展示解説があります。
   (予約不要・入場無料。但し、入館料200円必要。)

③ 「人物日本史」渡部正一・育鵬社刊 に楠正成が取り上げられています。





先月のおさらい
 ・楠正行通信25
   
室町新体制の創始者ともいわれる高師直
   足利家執事から幕府の執事へ
   新たに執事施行状の発給で地位確立・実権確保
   ~ 詳しくは楠正行通信25号をご覧ください。
   
今月は、楠正行が受けた教育とはどんな教育であったか、検討しました
正行の師、龍覚坊の教えとは
 久留島武彦著「忠魂と士魂 大楠公と恩師龍覚坊」より
龍覚坊 りゅうかくぼう・ろうかくぼう・ろうがくぼう
俗名和田朝正、和田朝盛の4男 飛騨滝村の生まれ 幼少のころ遍照寺で修業 長じて京都に上がり、比叡山延暦寺で修行ののち、泉涌寺で勉学  その後、観心寺に入り、正成の師に 正成16歳の時、行脚に出、吉野金峯山寺に入山 ここで約10年修行 正中の変の折には、京都大覚寺に入山 再び観心寺に戻り、晩年、正行の師に

袴をたたむことができなければいけないか。たためなくてはならぬ。
 武士に針仕事も必要!
 上手にたためなくてもよい。が、一通り正しい袴のたたみ方はできなくてはならぬ。武士はいついかなる場所へ身を置いても、困らぬ用意が必要なものだ。
 追々に弓矢の道とともに、針仕事も教えるぞ。これも立派な武士になる学問だ。
霜は冷たいか
 冷たいものを冷たいというは自然のこと。
 苦労辛苦はかってでもすべし
 ただ、冷たさに負けるか、負けないかということが問題なのだ。眠たい、食いたい、遊びたい。誰でも皆同じだ。九十九人とともに、眠い時に眠り、食いたい時に食い、遊びたい時に遊んでおれば、九十九人並みの人にしかなれぬ。
 誰でも眠くて眠るときに、我慢して書物を一枚多く読むこと、これが人に将たる人を作るのだ。
 天に雪霜なくば、青松も草に若かず。地に山川なくば、人何ぞ平地を尊ばん。願わくば天に雪霜の多からんことを、願わくば地に山川の繁らんことを。
 雪や霜の降らぬうちは、松も草も一様に青い。だが一度雪霜に遭えば、草は枯れ、松ばかり青々と残り、松の尊さが表れる。山や川があればこそ、人は平地のありがたさを知ることができる、と申す意味だ。
 苦労辛苦はしなければならぬぞ。殊に天は、立派な仕事をさせようと思うものほど、艱難に遭わせて、これを鍛えようとするものだ。
どうすれば、主人の信頼を受けて立派に勤められるか
 人に仕える途とは、人によって違い、場合によっては変わらなければならないときもある。しかし、そこに一本に貫く道があるのだ。それは誠心だ。
一本に貫く道、それは誠心
 誠心によって貫かれていなければ、行いの善い者のまねなど、如何に上手にしたところで猿の技に過ぎない。
 よいか、忘れるでないぞ。
 功名を求めず、利達を願わず、困難に屈せず、誘惑に惑わされず、ただ己の誠心の命ずるままに節義を立てつくすこと、これが真の大丈夫の道だ。
*勅命は絶対のもの。しかし、事実、主上の御為にもならぬ結果を招くと知っていたら、どうするべきか。
 臣道は万代を貫く一本の道だ。その臣道を貫くためならば、生きるもよし、死するもよし。臣道が正成一人の生死によって絶えるとでも思っているのではないか。後に続く者があることを忘れているのではないか。
 死にして生、生にして死、死生一生!
 臣道の大義を貫くためには、死も死にあらず、生も生に非ず、死にして生、生にして死、死生一生じゃ。大義のために死する死は、万代の生に生きる途ではないか。
 我が真言密教の臣道は、弘法大師様の生々世々無限奉公の信念にある。
 ご聖運は、天壌無窮(肉体は必ず亡滅してゆく約束のものであり、心はこれとは正反対に、天壌無窮を約束された永遠なる生命に所属するものだ。)じゃ。
 正成の臣道は、一生限りなのかな。そのようなことはあるまい。

 
正成・正行は龍覚坊から”四恩の教え”を学んだ
 高野山真言宗密門会「四恩の徳を報じる」より
 以下の四恩を、正成・正行の事績と合わせ検証すると、以下のことが言えるのではないか。
 父母の恩は、何よりも正行の冠言葉として使われる「忠孝両全」に現れている。
 国王の恩は、当時の朱子学、言い換えれば、正統な帝=大義名分論に通じるのではないか。
 衆生の恩は、正成が建立した「寄手塚・身方塚」(敵も味方も同じように供養する)、正行の「渡辺橋の美談」(川におぼれる敵兵を救う)にみてとれる。
 三宝の恩は、正成の観心寺建て掛けの塔や建水分神社の移設、正行の訶梨帝母天堂の再建にみてとれる。







 天よりも高く、地よりも厚し。身を粉にし、命を損ずとも、何れの劫にか報ずることを得ん   我々を生み育ててくれるのは父母の恩であり、それは大空よりもなお高く、大地よりもなお厚い。わが身を粉にし、命を失うとも、いつになったらその恩に報いられるか、果ても知れないくらい大なるものである。



父母我を生ずと雖も、若し国王無くんば、強弱相戦い、貴劫奪して身命保ちがたく、財宝何ぞ守らん  しかし、父母が我らを生んでくれたとしても、国王がいなかったら、強者弱者互いに戦い、貴者貧者奪い合って、この身の命は到底保ちがたい。その財宝を守るすべとてないのである。



 衆生我において何の恩徳か有る。吾、是れ無始より以来、死生六道の中に父と為り、子と為る。いずれの生をか受けざらん。いずれの趣にか生ざらん。慧眼を以て之を観れば、一切の衆生は皆是我が親なり。是の故に経にいわく、一切の男子はこれわが父、一切の女人はこれわが母。一切の衆生は皆是我が二親師君なり。所以に衆生の恩もすべからく報酬すべし。  衆生はこの身にとって、なんの恩恵があるか。我々は無始より以来、あらゆる生きとし生けるものが生死を繰り返す業苦の世界において、互いに因縁を結んで父となり、子となる。我々は、これなくして、生を受けることなく、世界にこの身を著わすことはないのである。智慧の眼で之を観るなら、一切の生きとし生けるものは、すべてわが身の親というべきものである。それ故、経典には「すべての男子はわが父、すべての女人はわが母、すべて生あるものはわが両親、師匠、君主であると」
 衆生の恩は、たくさんの人々、生きとし生けるもののお陰であると感謝することである。衆生とは数多の生命ということで、家族はもちろん友人、学友、職場の同僚、その他有縁無縁のたくさんの人々の協力によって仏縁を結び、仏の教えを信じ実践することができた。また人間だけでなく動物・植物・日月星辰等、全宇宙の恵みによって仏に会うことができたと自分を取り巻く森羅万象全体に感謝することである。
 生死の苦しみを抜き、悟りの楽を与えてくれるのは三宝の恩である。この三宝の功徳こそ人知を超えて神秘なるものである。



 
 もし能く生死の苦を断じ、涅槃(ネハン 安楽寂滅の意)の楽を与うるは三宝の徳なり。三宝といえば、一つには仏宝、2つには法宝、3つには僧宝なり。仏宝は則ち一切智智を具して、主上にこの之正路を示す。法宝は則ち難思の功徳を具して、能持者をして世出世の楽を与えしむ。仏と之法とは、是の如きの功徳ありと雖も、もし僧宝なくんば、流通することを得ず。・・・経論を誦伝して、人に智慧を授くる者、皆是僧宝と名づく。   生死の苦しみを抜き、悟りの楽を与えてくれるのは三宝の恩である。この三宝の功徳こそ人知を超えて神秘なるものである。
 仏宝は、すべての智慧の中で最高の智慧を備えていて、生けるものに悟りへの正しい路を示してくれる。法宝は不可思議で神秘的な功徳を具えて、仏宝を守る者に、この世の楽しみ、仏の世界の楽しみを与えさせてくれる。仏と法はこのように多くの功徳あるものであるが、もし僧宝がなかったとしたら、世の中に仏宝が遍(あまね)く流布することはできないのである。経典・論書を講義し、伝えるものを僧宝と名づける。

 次回は、5月10日(火)、現地学習を実施します。
 正平315日、四條畷の合戦は、どのような場所で、どのような戦いを、一日にわたって繰り広げたのか、実際に、戦跡を訪ね歩きます。

 楠正行通信25号はコチラよりご覧いただけます。(PDF)
 



  ●4月から、活動日を第2火曜日に戻しました。

 教育文化センター市民教養大学「楠正行研究」の開催(第2火曜日)の関係上、例会の開催日を第3火曜日に変更してきましたが、同自主大学が終了しましたので、4月から、例会の開催日を第2火曜日に戻しました。
 なお、開催時間は、午後1時30分から午後3時まで、変更はありません。
 楠正行に関心をお持ちの方、どうぞ、お気軽にお越しください。
 但し、5月例会は、現地学習となりますので、教育文化センターでの例会は開催しません




  ↓ この日の様子


↓ 会員からも活発な意見が続出





教文 親子体操「修了式」

日時 平成28年3月24日 10時
場所 四條畷市立教育文化センター 2階ホール
対象 親子体操受講者
イベント内容 教文 親子体操最後の日に、卒業製作と修了式を行いました。


工作をするこどもたち
 卒業製作の様子
修了証書を受け取る女の子
修了証書の授与
賞状をもらって記念撮影
 努力賞と皆勤賞をもらったョ

四條畷楠正行の会 第16回例会

日時 平成28年3月15日(火曜日)
場所 教育文化センター1階 会議室
対象 会員
イベント内容 先月のおさらい
 ・楠正行通信23
   南北両朝、五代の天皇に仕え、波瀾万丈の生涯を送った楠正儀
   死んで名を残した正行。生き抜き名を残せなかった正儀。
 ・楠正行通信24
   朱舜水作 楠正行賛文148文字略解文の訂正
   人生自古誰無死 留取丹心照汗靑
   ~ 文天祥の七言律詩「過零丁洋」からの引用
     元に滅ぼされた南宋の状元宰相=義士

文天祥
 21歳の若さで科挙の主席を勝ち取り、南宋時代ずば抜けた能力を持ち官僚宰相に上り詰めた文天祥。

 異民族・征服王朝の元に捕らわれ、屈服そして寝返りを請われるが、頑として聞き入れなかった文天祥。南宋の残兵に降参を呼び掛けるよう説得されるが、その時、断りのために送った詞が「過零丁洋」の七言律詩。
 朱舜水は、南宋の義士文天祥と、南朝の雄、正行を重ね合わせ、この詩の一節を正行賛文に使ったものと思われる。
 詳しくは、正行通信24号をご覧ください。

今月は、高師直について学びました
足利家執事から幕府執事に
 扇谷が準備した資料「高師直・師泰の栄光と没落/楠正行を破った高兄弟の軌跡を追う」(関係年表)と、高氏系図を使って学びました。
 師直の人生は、足利家執事に始まり、建武の政権の中枢にも参画、正成と共に政務にも就き、やがて尊氏の叛旗に従い関東に下る。
 延元元年、九州から西征を開始した尊氏に従い、湊川で正成とも対陣。室町幕府成立とともに、幕府の執事となり、室町新秩序の創始者となって、師直は新しい統治手法『執事執行状』の発給を始める。
 暦応元年、堺浦石津の戦いで北畠顕氏を討ち取った後、石清水八幡宮に総攻撃をかける。この時、師直は、世に悪評高い、八幡宮に火を放つことになるが、実はこの火を放つまでに一か月もの間躊躇する。
 徐々に足利忠義と対立を深める師直。
 特に、南朝との戦時体制から、一定の決着を図り平時体制に入ったこの時期、直義は攻勢をかけ、師直の執事執行状の廃止を通達する。が、師直は従うことなく、発給を続ける。対立はますます先鋭化したものと思われる。
 このような状況下、数年を経て、四條畷の合戦に至る。
 四條畷の合戦の後、師直は大和を経て吉野に攻勢をかけ、師泰は河内・東条で正儀と戦う。
 京都に戻った高兄弟の兄弟の悪行三昧はこの頃の話。
足利直義との対立と確執
 貞和5年、師直は執事職を解任される。そして、足利直義による師直暗殺計画が発覚し、直義邸を訪れていた師直は急ぎ逃げ帰ると、師泰ともども足利将軍御所を取り囲み、直義の引き渡しを要求する。
 尊氏が師直と交渉の結果、直義の引退と関係者の流罪によって和睦。
 師直は、再び執事職に返り咲く。
 観応元年に入り、九州で足利直冬の勢力が猛威を振るうようになり、秋には、尊氏自らが九州に出陣することとなり、師直も従って出陣する。この混乱の間隙をぬって、出家していた直義は京都を脱出、南朝に投下する。
 そして、直義は、その勢いをかって師直・師泰の身柄引き渡しを突き付ける。
 九州に直冬、京都に直義、身の危険を感じた尊氏はその年の年末、急きょ帰京の途に就く。
打出の浜の戦いで直義に敗れ、最期は上杉によって斬殺される
 翌年2月、摂津打出の浜で、尊氏軍と直義軍が激突し、尊氏が敗れる。
 師直、師泰とも、打出の浜の戦いで負傷し、敗れ、降参、出家に決定。
 尊氏は、直義と和睦成立。  尊氏、京都に帰参の途上、兵庫武庫川に差し掛かったところで、師直、師泰を含め一族郎党、上杉能憲によって斬殺される。
 結果、尊氏と直義の二頭政治が復活。同時に、足利幕府の屋台骨を支えてきた『執事職』は廃止される。 
尊氏を軍事力で支え続けた師直と師泰
 足利尊氏とともに生き抜いた高師直と師泰。
 尊氏の戦のほとんどに於いて、その先陣や大将を勤めた二人。
 四條畷の戦いは、南朝の総大将ともいえる楠正行と、足利幕府軍の総大将であった高師直、師泰との一大決戦であった。
 正行が、師直の首を討ち取っておれば、この後の歴史が大きく変わったであろうことは、師直・師泰の立ち位置、戦いぶり、生きざまを見れば容易に想像できる。
 正成、正行の死は、その後、500年を経て、明治維新となって日本の歴史に新たな1ページを切り拓くこととなるが、正行の宿敵、高師直の存在を改めて思い知らされる。 
高一族の守護分国は全国に
 高一族が、いかに勢力を誇っていたか、一族が務めた守護分国を列記してみよう。なお、この出典は、亀田敏和著「高師直」吉川弘文館より。
 師秋―伊勢、師英―山城・佐渡、師冬―伊賀・武蔵、師泰―河内・和泉・尾張・越後・石見・備後・長門、師秀―河内、師直―武蔵・上総、師詮―丹後・但馬、重茂―武蔵、師兼―三河、師秀―因幡・備中
 一時期にすべてを支配下に置いたわけではないが、足利政権基盤をいかに軍事面で支えていたかが伺われる。

 次回は、412日(火)、午後1時30分から「正成・正行が観心寺で学んだ龍覚坊の教えとはいったいどのような教えであったのか」について学ぶ予定です。

 楠正行通信23号はコチラよりご覧いただけます。(PDF)
 楠正行通信24号はコチラよりご覧いただけます。(PDF)


 お知らせ   ●4月から、活動日を第2火曜日に戻します

 教育文化センター市民教養大学「楠正行研究」の開催(第2火曜日)の関係上、例会の開催日を第3火曜日に変更してきましたが、同自主大学が終了しましたので、4月から、例会の開催日を第2火曜日に戻します。
 なお、開催時間は、午後1時30分から午後3時まで、変更はありません。
 楠正行に関心をお持ちの方、どうぞ、お気軽にお越しください。
例会の様子   ↓ 資料に基づき説明する扇谷

↓ 楽しい議論が続く



 この例会では数冊の関係書と、資料4点を配布




市民講座「親子で楽しむコンサート

日時 平成28年3月11日(金曜日)
場所 四條畷市立教育文化センター 2階ホール
対象 市民
イベント内容 普段なかなか耳にできない吹奏楽の演奏を、親子で鑑賞しました。
楽曲 ♪ぼくコッシ― ♪アンパンマンたいそう ♪ぼよよん行進曲 ほか
出演はMama’s Wind Orchestra 「LARGO」さん。只今参加メンバー募集中です。

演奏の模様
演奏の様子
生演奏とアンパンマン
    一緒にうたおう~
大観衆
          大観衆!


四條畷楠正行の会 第15回例会

日時 平成28年2月16日(火曜日)
場所 教育文化センター1階 会議室
対象 会員(11人参加)
イベント内容 新しい会員を迎える
 嬉しいことに、久しぶりに新しい仲間を迎えました。
 市内蔀屋本町の女性の方で、「友人と談笑したり、親戚が集まるような機会に、四條畷の歴史を少しでも語れたら、というのが入会の動機です。正行のことはあまり知りませんが…、皆さんよろしくお願いします。」とのことです。
 正行の会としては、正行のことを学ぶと同時に、顕彰もと考えていることから、一人でも多く関心を持って下さることは大歓迎です。
 現在、会員は17名ですが、うち5名の方が休会中ですので、実質12名で活動しています。正行に興味、関心のある方は、ぜひ気軽に覗いてください。毎月第3火曜日の午後1時30分に例会を開いています。飛び込み、冷やかし、大歓迎です。
今月は、正儀について学びました
 扇谷が準備した資料「楠正儀関係年表」を使って学びました。
 この年表のベースは、「楠木氏三代」(井之元春義著・創元社刊)で、その原点となった論文が、同じく井之元春義の奈良文化女子短期大学の紀要、第24号掲載の「史論・楠木正儀(1)‐南北朝期の和睦を中心として-」です。
 扇谷が作成したこの年表をもとに、正儀の生きざま、そして正成・正行との生き方の違い等を学びました。
 四條畷の合戦の後、楠家の棟梁となった正儀は、その後約40年にわたって南北朝の和睦に向けてその生涯を捧げます。
・四條畷の合戦後の東条防衛の戦いの時期
 正行・正時討死後、高師泰は東条に攻めてきます。この時、正儀は楠軍を率いて、約1か月の攻防戦を戦い、東条を守り抜きます。
・和睦への執念

 正儀のその後の仕事は、疲弊しきった南朝軍の立て直しでした。
 正平71352に、南朝方は17年ぶりに京都を回復しますが、それもつかの間、足利義詮に奪い返され、4月には男山八幡の戦いで敗北してしまいます。
 この時の様子を、太平記は「楠(正儀)は父にも似ず兄にも替わりて、少し心延びたる者なりければ、今日より明日と云うばかりにて…」と記していますが、男山に駆けつけかなかった正儀に批判が集中したようです。
 また、正平151360に、正儀は赤坂城を捨て、金剛山に退き、和田正武との間に確執が生まれますが、負け戦には手を出さないという、現実的で、実務家肌の正儀の一面がのぞかれます。
・北朝に下る
 正儀が、後世、正成、正行に比べ評価されなかったのは、おそらくこの一事でしょう。
 和睦を目指す正儀にとって南朝に居場所がなくなるのです。
 正儀を信任していた後村上天皇が崩御し、主戦論の長慶天皇が即位します。また、正儀が足利幕府管領の細川頼之と誼を通じたこと、楠木・和田一族内部の路線対立・正儀の性格と軍略、様々な要因が重なり、正平241369、正儀は北朝に下ります。
 北朝に下った正儀は、その後、数年間にわたって和田正武ら南朝軍に攻められることになります。
 細川頼之は援軍を差し向けようとしますが、北朝軍が動かなかったといわれています。

 そして、管領細川頼之が失脚するに及んで、正儀は、北朝内で孤立を深めていきます。
・再び、南朝に帰参
 弘和21382ごろ、正儀は再び南朝に帰参することになります。
 孤立を深めていた正儀は、足利将軍義満によって和泉国守護職をはく奪され、いよいよ四面楚歌の孤立状態に陥ります。
 一方、南朝では長慶天皇の後亀山天皇への譲位や主戦論の四条隆俊の戦死など、南朝内における和平派優位の状況が生まれます。
 父、正成や兄、正行と同じ血脈と純なる思念を持つ正儀は、南朝衰退が決定的となる中で、その南朝への熱い思いが帰参を促したのではないでしょうか。
・正儀の死?
 しかし、正儀がいつ死んだのかは史料の上から確認はとれません。
 元中3年(13864月に、正儀の活躍を証明する史料が残っています。そして、元中7年(139044日付の二見文書では、正儀の長男、正勝宛てになっていることから、この時点ですでに正儀はこの世にいないものと判断できます。
 おそらく、この数年間の間に亡くなったものと思われます。

五代の天皇に仕え、波乱万丈の生涯をおくった正儀
 40年にわたって、南北両朝、後村上・長慶・後亀山、後光源・後円融の五代の天皇に仕え、波瀾万丈の生涯を送った正儀。
 南朝のため、そして南朝復権と云う義のため、真っすぐに生き、潔く散り、後世に名を残した正成・正行。一方、南朝復権のため、北朝に下ってまで生き抜いたことで、後世に疎んじられた正儀。
 しかし、この親子・兄弟に流れていたのは南朝への熱い思い一筋に流れる血脈と純な思念そのものであった。
 死ぬことで名を残した正行。
 生きぬいたことで名を残せなかった正儀。
 楠木一族に悲哀を思わざるをえません。

※資料提供等

 以下、各資料の提供がありました。
摂楠流開祖 流祖藤原摂楠顕彰碑(写真)真木さんから
②武内涼「吉野太平記」出版案内(新聞記事切抜き)安井さんから
③正成ゆかりの山「金胎寺山」紹介記事(新聞記事切抜き)木村さんから


 次回は、3月15日(火)午後1時30分から、「高師直とその一族と正行」について学ぶ予定です。
 
 楠正行通信22号はコチラよりご覧いただけます。(PDF)



↑ 資料に基づき説明する扇谷


↑ 例会風景


↑ 説明を聞きながら資料に書き込む会員


子ども体験教室 親子体操

日時 平成27年12月3日 ~ 平成28年1月28日
場所 四條畷市立教育文化センター 2階ホール
対象 おおむね2歳~4歳児と保護者
イベント内容 みんなで跳んだり跳ねたりと、いつも楽しい親子体操です。
ぜひご来場下さい。


ハロウィンの工作をするこどもたち
 ハロウィンの工作
トランポリンで跳ねる子どもたち
みんなでジャンプ!
じょうずに工作できました
 上手にできました。



「実践教室 ヴィーナスフィットネス」

日時 平成27年12月2日 ~ 平成28年1月27日(計7回)
場所 四條畷市立教育文化センター 2階ホール
対象 16歳以上の市民
イベント内容 エアロコリオとコアトレーニング(体幹)、ストレッチを組み合わせたフィットネスでリフレッシュ。良い汗を楽しんでいます。


フィットネスの様子
ストレッチ
フィットネスの様子



「第21回 新春ミニ・コンサート」

日時 平成28年1月24日(日)
場所 四條畷市立教育文化センター 2階ホール
対象 市民
イベント内容 四條畷のコーラスサークルが中心になり、女声四重唱・二重唱・ヴァイオリン演奏ピアノ演奏など楽しいコンサートを行いました。


ヴァイオリン演奏の様子
  ヴァイオリン演奏
二重唱
   二重唱
女声四重唱の様子
  女声四重唱



四條畷楠正行の会 第14回例会

日時 平成28年1月19日(火曜日)
場所 河内長野市 金剛寺&摩尼院 現地学習会
対象 会員(11人参加)
イベント内容 心配された天候だったが、無事出発
 前日からの天気予報では、この冬一番の寒さが報じられ、寒波の到来で近畿地方の中部、南部にも雪情報がもたらされ心配されたが、集合場所のJR四条畷駅には参加予定の全員が顔をそろえ、一同河内長野に向かった
 今回訪れる金剛寺と摩尼院は、南北朝時代、南朝の行在所となった寺院で、金剛寺には、一時、南朝の後村上天皇と北朝の光源・光明・崇光の三上皇が同時に滞在(同座)しており、また、摩尼院は南朝の後村上、長慶、後亀山のそれぞれ天皇が合わせて約20年間、行在所を設けたところ
 南海電車、河内長野駅から光明池行バスに乗って、約20分、天野山バス停で下車すると、眼前に山門がそびえたつ
金剛寺の奥殿は北朝の御座所
 山門をくぐり、金剛寺拝観受付へ。
 天野山金剛寺は、奈良時代に行基が開き、弘法大師が密教の修行をしたと伝わる寺院で、「女人高野・天野行宮」の名で知られ、数多くの国宝・重要文化財がある。
 現在、平成の大修理中で、平成29年に完了予定。
 寺務所の拝観受付で、来訪の主旨を伝え、見学の案内をお願いしたところ、たまたま河内長野市地域文化遺産啓発推進員の尾谷雅比古さんが来ておられ、案内をしていただくこととなった。
 一面の杉苔の中に鶴島、亀島などを配置した枯山水の見事な庭園を右目に見ながら、北朝御座所の「奥殿」に案内いただいた。
 奥殿に掲げられた江戸時代中ごろの金剛寺境内図を前に、金剛寺の伽藍配置や百近い塔頭寺院があった往時の様子を語っていただいたが、これも、この場所が西高野街道、東高野街道等、交通の要衝の位置にあり、京の都と吉野の中間点に位置するため、南北朝期には大変重要な場所であったことが伺えた。
 楠木正成をはじめその一族が、京に向かう起点として、また吉野を守る防波堤として、この金剛寺の防衛に努めたことが想像された。
 しかし、尾谷さんのお話では、南朝の後村上天皇、そして北朝の光源、光明、崇光の三上皇に加え、皇太子直仁親王も同座されたことから、その関係者を含めて金剛寺の守りには相当の労力と経済的負担、更には精神的負担があったのではないか、とのお話だった。
 また、奥殿の廊下奥に、備前焼の大甕(高さ1メートルほど)が陳列されているが、当地方に伝わる天野酒を入れたものとして使われたとか。
 また、奥殿の廊下奥に、備前焼の大甕(高さ1メートルほど)が陳列されているが、当地方に伝わる天野酒を入れたものとして使われたとか。

「宝物殿に残る楠木正成自筆書状
 次に案内されたのが宝物殿。
 宝物殿には、運慶の作と伝わる、重要文化財の「木造大日如来坐像」「木造降三世明王坐像」「木造不動明王坐像」の写真が掲示されていた。本来は金堂に祀られているが、現在、平成の修復中ということもあってか、それぞれ他館に貸し出されているとのこと。特に、大日如来坐像は京都国立博物館で展示されているが、金剛寺に戻ってくるころには「国宝」に指定されるのではないか、とのお話だった。
 宝物殿には、貴重な楠木正成自筆書状(重要文化財)が陳列されている。
 この書状は、後醍醐天皇が隠岐脱出約1か月前に、「関東の凶徒等が金剛寺に乱入する恐れがあるので、しっかり防衛にあたってほしい…。」旨を金剛寺に伝えたもので、その達筆ぶりに、一同感心。

塔頭の一つ、摩尼院は南朝、後村上天皇の行在所
 金剛寺の見学が終わり、昼食をとるころになると、雪が舞い散る事に。
 境内では昼食をとる場所がなく、金剛寺と道路を挟んだ場所に公園があり、その一角で寒さに震えながらの昼食となったが、「こんな寒い日に来て、思い出に残る日となったね。」「貸し切り状態で、ゆっくりと見学できてよかった。」等と、全員が前向きの会話。
 その後、金剛寺の塔頭の一つ、摩尼院を訪れた。
 この摩尼院は、金剛寺中興の祖、阿観上人が伽藍の諸堂を建立した際設けた73の坊舎の一つで、南北朝時代、後村上天皇は大和の賀名生から移り、正平9年から6年間、ここ摩尼院を仮の宮居としたところ。
 そして、足利義詮の時代になって、観心寺に難を避けた後、約20年にわたって長慶、後亀山合わせて三代の天野行宮となった。
 御座所を前に、ストーブを入れて温めていただいた部屋で、庵主さんから摩尼院の歴史等について詳しい説明を受けた後、書院に移動。
 この書院は、慶長年間(15961614)のもので、昭和40年には重要文化財に指定されている。
 庵主さんから、「この書院の棚は、物入れに使うのではなく、膝を曲げて入れ、机代わりに使うものですよ。だから、障子は明かり取りなのです。」との説明に、一同、異口同音に「まあ、知らなかった。」と。

摩尼院の蔵には、子別れの短刀、そして正成の軍旗
 次は、境内奥にある蔵にご案内いただいた。
 蔵の中には、所狭しと多くの寺宝が展示されている。
 しかし、何と言っても、最も目を引いたのが、楠木正成が笠置で後醍醐天皇から賜ったとされる銀鞘龍紋の短刀。
 この短刀は、後、桜井の駅で子別れの際、正成から正行に授けられ、湊川で討ち死にした正成の首級を前に、悲しみのあまり切腹しようとした正行が手にしたと伝わるもの。
 また、私たち四條畷では、正成は「楠木」、正行は「楠」と使い分けているが、摩尼院の太刀の説明書きにも、「楠木正成公」と「楠氏一族」の使い分けを発見。(写真参照)
 安寿さんのお話では、河内長野市教育委員会がこの説明書きを書いたとかで、この使い分けについてはご存じないとのことだった。
 また、壁には、楠木正成が使ったと伝わる軍旗が掲示されている。
 155㎝、横32㎝の旗で、鞣皮に金箔が打たれ、碁盤目の丁寧な縫いとりがなされている。そして、墨痕鮮やかに菊水の紋と、「非理法憲天 正成」の文字が書かれている。
 そして、その横には金剛寺中興の祖、阿観上人の肖像画が掲示されているが、庵主さんの「皆さん。帽子をかぶっているのではないか、と思うぐらい大きな頭でしょう。よっぽど、賢かったのでしょうね。」とのお話に、うなずくことしきりだった。

 こののち、修復中の金堂も見学し、1時間に1本のバスに乗り、帰途についた。
 雪が舞う中での金剛寺、摩尼院の現地学習であったが、それだけに余計感慨も深く、脳裏に刻みこまれる一日となった。
 次回、2月の例会は、16日(火)、楠正儀と正行について学ぶ予定。




 
 楠正行通信21号はコチラよりご覧いただけます。(PDF)



↑ 金剛寺金堂に通じる楼門


↑ 尾谷さんから、金剛寺の庭の説明を戴く


↑ 慶長年間の書院が残る


↑ 子別れの短刀の説明書きに、「楠木正成」と「楠氏一族」の使い分け


↑ 摩尼院は、庭(左)と廊下一つで御座所の間(右)



↑ 摩尼院の門前で記念撮影



四條畷市立教育文化センター四條畷市立教育文化センター



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